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 2016年度支部例会スケジュール

■年間スケジュール

2016年4月9日
2016年5月21日
2016年6月25日
2016年9月24日
2016年11月12日
2016年12月10日
2017年1月28日
2017年3月25日

 

〈5月例会のお知らせ〉

2016年5月21日(土)午後1時半より
   慶應義塾大学 三田キャンパス  
南校舎5階 453教室


研究発表

失われたジャポニスム空間を求めて
ボストン美術館Japanese Courtと岡倉覚三

講師:宇沢美子(慶應義塾大学)
司会:佐久間みかよ(和洋女子大学)


<発表要旨>

    1909年11月ボストン美術館はハンティントン通に新館をオープンさせた。当時の新聞雑誌をめくれば、ボストン美術館新館の目玉となったのが、(所蔵品を二種類に分け、質の高い展示に供される美術品と教育研究目的に貯蔵されるその他を分ける)「二重システム」と呼ばれた画期的美術品展示方法と、それを文字通り具体化して見せた質量ともに充実した新部門である中国・日本美術部門であったことは容易にみてとれる。正面玄関入ってすぐ左のウィングを占める中国日本美術部門の中央には、隣接する仏像の間につづく一種の「前庭(forecourt)」の趣向をもつ、3階分吹き抜けの大きな室内「日本」庭園Japanese Courtがしつらえられ、その異国的な佇まいが新館の魅力として喧伝された。
    1909年当時の写真を見るかぎり、このJapanese Court (別名Central Court)は良くも悪しくもボストン・ジャポニズムの産物であった。仏間への道を二体の狛犬が守っている!などはご愛嬌だが、ミニチュアのパゴダ風塔や灯篭、金魚が泳ぐ池、それにかかる微妙にカーブした石橋(?)、置石と植栽がおりなすこの不思議空間は、イメージ「日本」という異国の「雰囲気」をおりなし、訪れる人々は二階の欄間で装飾されたバルコニーから庭を見下ろし、池の金魚を楽しむよう誘われた。美術品にとっていまなお真贋はその価値を決める重要な基準であるにちがいない。Japanese Courtの真贋を問うなら、多分に法隆寺の境内(forecourt)を抽象化した作りになっているとはいえ、贋物として切り捨てることは容易だろう。事実、美術所蔵品は残っても、Japanese Courtは残らなかった。1970年代には大改装され、3階が2階分減らされても依然として妙に天井が高いがフツーの展示室280となり現在に至っている。
    このJapanese Courtが作られた当時のボストン美術館中国・日本美術部門の主席学芸員が岡倉覚三であった。このJapanese Courtそのものの設計には直接的に汲みしていなかったとはいえ、彼の広範な知に裏打ちされた著作に表れた空間、美術館の考え方には、Japanese Court のありようと共鳴するものが少なからず存在する。「ある部屋のリアリティは、四面の壁や天井にあるのではなくて、それらが形作る空間にあるのだ」とは、岡倉が道教の「空」を説明した言葉だった。本論は、美術館の展示方法上の矛盾、この空間をつくったデザイナーの意匠、ジャポニズムの文学/演劇空間といった諸点から考察を加え、このJapanese Court の一つではないリアリティを模索する。

 

 

 

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分科会

近代散文

ヘンリー・ジェイムズと不可視のモダニティ

松井一馬(東京理科大学・非)


<発表要旨>

    本発表では、ヘンリー・ジェイムズ作品の登場人物たちの近代社会への抵抗戦略を検証する。
    The Ambassadorsにおいて、ヴィオネ夫人とチャドの逢瀬を目撃した翌日、郵便局を訪れたランバート・ストレザーは、そこにあふれる雑多な大衆の「ありふれた間断ない重圧」の中で、パリの「広大で奇妙な生の震動」を感じ、自らがそうした人々となんら変わりない立場であることを自覚する。
    作品終盤のこの場面は、ジェイムズ作品におけるモダニティの扱われ方を見るうえで、非常に示唆的である。作中何度も郵便局を訪れているはずのストレザーだが、この時まで、そこにいる人々を意識にのぼらせることはなかった。パリを散策した際にも、そこかしこにいたはずの大衆はもちろん、路面電車も、エッフェル塔も、一度としてストレザーの視界に入りこむことはない。これら近代を象徴する事物は意識的に排除されていたのである。
    このように、ジェイムズ作品において、モダニティはテクスト上から排除されているのが常である。否応なく身を置かざるをえないモダンな世界への抵抗として、ジェイムズ作品の登場人物たちは「過去の感覚」にしがみつき、戦略的にモダニティを「見ない」ことを選んでいる。ゆえに、ヴィオネ夫人とチャドの関係を見てしまったストレザーは、必然的に自らが近代大衆の一員に堕してしまったことを認識し、モダンな世界を直視せざるをえないのだ。
    そして、郵便局の大衆が「文章を作っているパフォーマーたち」であったように、モダンな世界において「見る/知る」ことは「見せる」ことと表裏一体である。近代社会は「見る/知る」欲望をかきたてると同時に「見せる」ことをも強要するのであり、自らを見せないためには、The Aspern Papersのミス・ボルドローのように、目に覆いをつけて「見ない」ようにしなければならないのだ。こうした諸作品でのモダニティに対する振る舞いを通じて、ジェイムズ自身の近代社会への態度を確認していく。

 

現代散文

ジョイ・コガワの「静かな」メッセージ
Naomi’s RoadNaomi’s Treeが子供たちに伝える友情と太平洋戦争

加藤麻衣子(青山学院大学・非)


<発表要旨>

    ジョイ・コガワは小説Obasan(1981)とItsuka(1992)で、自らの強制収容所体験、そしてカナダ政府が日系カナダ人に正式謝罪し戦後補償を開始するまでの過程を描いている。そして子供向けの作品Naomi’s Road(1986)とNaomi’s Tree(2008)では子ども時代のコガワの経験が中心に書かれているが、家族の離散、幼なじみのミッチとの友情など個人的な関係を描くにとどまり、太平洋戦争、強制収容所での生活、母の長崎での被爆や戦後補償といった社会的な出来事が曖昧にされている。
    ObasanItsukaに登場する主人公、日系三世のナオミの二人のおば、アヤとエミリーは自分たちの受けてきた人種差別について互いに対立する立場をとっている。アヤは自らの過去の経験について沈黙を通し、エミリーは自らの言葉を武器に、差別を続けたカナダ社会に、そして自分たちの市民権を奪い強制収容、財産没収まで行った政府に対して闘いを挑み続ける。また、結末ではナオミの母と祖母が長崎で被爆した時のことが、エミリーのもとに届いた日本からの手紙で語られる。一方Naomi’s RoadNaomi’s Treeではナオミの家族との別れ、ミッチからのいじめ、和解を経て真の友情が築かれるまでが中心に描かれる。
    これらの作品群におけるナオミの姿は、強い自己主張を続けるエミリーよりはアヤの立場に近く、一見控えめで弱腰にも見える。しかし、戦後補償を訴え続けた日系カナダ人たちの闘いの先頭に立ってこそいないものの、ナオミは静かに自らの尊厳を示す存在として描かれる。彼女が心のよりどころにした「日本的なもの」は、二宮金次郎、桃太郎、桜の木、血判といった古めかしいものである。本発表では、ナオミが自らの誇りを示すために必要としたこれら「日本的なもの」が作品中でどのような効果をもち、子どもたちに向けた平和と友好のメッセージとどのようにつながっているかを論じていく。

 



ウィリアム・カーロス・ウィリアムズによる連作「ブリューゲルの絵」における
時間の分節
「イカロスの墜落が見える風景」を中心に

齋藤昌哉(東京大学・院)


<発表要旨>

    当発表は、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズによる絵画詩の連作「ブリューゲルの絵」の中の「イカロスの墜落が見える風景」における時間の分節の美学的効果を論点としている。
    「詩」や「その間」といった作品は、ウィリアムズの関心の一つが物象の動きであることを示している。他方、16世紀フランドルの画家であるピーテル・ブリューゲルもまた「イカロスの墜落が見える風景」や「子供の遊戯」などといった作品において対象の動きを見事に表現している。ウィリアムズとブリューゲルの動きへの関心というこの共通点は、前者をして後者の作品を基盤に「ブリューゲルの絵」を書くことを促す一つの契機となったと思われる。
    18世紀ドイツの文学者であるゴットホルト・エフライム・レッシングはその著『ラオコオン』において、時間的継起に関する表現は詩人の領分であり、空間に関する表現は画家の領分であると論じ、これによって「詩は絵画のごとく」といった従来の考え方を排除した。
    しかし、「ブリューゲルの絵」における個々のイメージはあたかも並列的に位置づけられたかのような空間的印象を帯びている。この印象は、ウィリアムズ作「イカロスの墜落が見える風景」とW. H. オーデン作「美術館」という二つの詩を比較すると一層明らかになる。これらの詩はいずれもブリューゲル作「イカロスの墜落が見える風景」に基づく絵画詩であるが、ウィリアムズの作品のほうがオーデンの作品よりも時間の分節の度合が強い。この理由により、「イカロスの墜落が見える風景」は言語の継起的性格を有しながらも絵画的ともいえる詩作品に仕上がっている。

 

演劇・表象

セレブとファンの関係
The Age of InnocenceからAlmost Famousまで

大塩真夕美(白百合女子大学)


<発表要旨>

    セレブリティ(以下セレブ)とはいったい何者であろうか。そして、セレブがいるからこそ出現したファンとはまた何者であろうか。現在でこそ、セレブといえば芸能人、スポーツ選手に始まり、読者モデルなど、様々な人々を指す。職業や性別、容姿はさまざまであるが共通するのは、セレブと呼ばれる人々は一様に「人々から注目されている」という点である。セレブが持つその特徴は19世紀後期のアメリカでも顕著であった。当時のセレブといえば、ニューヨーク社交界の婦人たちであったと言えよう。日々、豪華絢爛なレストランで食事をし、美しい衣装をまとってオペラ鑑賞をする姿は、新聞の社交欄を華々しく飾った。その記事は、アメリカ全土で読まれ、読者はその世界に憧れていた。イーディス・ウォートンは『無垢の時代』(The Age of Innocence)の中で、社交界の名家の人々が劇場で、他の観客の視線が集まりやすい席につき、故意に目立つ行動をして人々の注目を集める様を描いている。
    しかし、20世紀になり、社交界が変化する過程でセレブという概念も変化する。また、社交界の変化に加え、技術の進歩がセレブを崇める人々、つまり、ファンの姿も変化させることとなった。セレブとファンが、19世紀後期から20世紀にかけて、環境の変化とともにどのように変わっていったのか、その過程を考察するのが本発表の狙いである。