| 2008年4月12日(土) | 5月17日(土) | 6月28日(土) |
| 9月27日(土) | 11月15日(土) | 12月13日(土) |
| 2009年1月24日(土) | 3月21日(土) |
司会・講師
高尾直知(中央大学)
講師
市川美香子(元大阪市立大学)
折島正司(青山学院大学)
山口志のぶ(学習院大学・非)
<シンポジウム要旨>
ヘンリー・ジェイムズ未完の作品『過去の感覚』(1917)の主人公ラルフ・ペンドレルは、「歴史読解の一助となるため」と題するエッセイをものし、注目を集めた。ペンドレルは、そのエッセイの名声を手に、英国に渡り、同時に過去をさかのぼって、実際に歴史の「読解」を、身をもって体験する。このような作品構成からもわかるとおり、ジェイムズは歴史を読み解くことに、格別に意識的な作家だった。
ジェイムズ研究においても、1990年代以降わたしたちは大きな変換を目撃している。この変換は、それまでのモダニスト的な作品批評を越えて、むしろジェイムズの置かれた歴史文脈を、とくに後期の作品をとおして読み解こうとする姿勢にあらわされている。しかし、このような90年代的新歴史主義による文化隠喩的読解一辺倒の研究が一段落したいま、ジェイムズ批評はより根本的な問題を提起しているように思われる。最近の研究書においてGert BuelensとCelia Aijmerの共作論文が論じるように、ジェイムズのヒストリシズムを解析するうえで、「ジェイムズの作品において歴史的テーマはどのように、作品解釈の戦術と関係しているのか。作品における歴史的な知識はどのような位置づけがなされているか。そしてジェイムズ研究における歴史の批評概念には、どのような哲学的・イデオロギー的基盤が置かれているか」(193)といった問題を問いかける時期が来ているのだ。
今回のシンポジウムでは、このような意識とともに、実証的歴史批評的読みと、哲学的イデオロギー的な読みが、ジェイムズ研究においてどのように交錯するか、その現場を目撃してみたい。市川氏は、自伝およびエッセイに見られるイングランド熱・帝国主義礼賛のさま、同時代の(イギリスにおける)帝国主義論争、アングロサクソニズムの由来、アメリカにおけるアングロサクソニズムなどのテーマに注目しながら、「ヘンリー・ジェイムズの帝国主義」(仮題)について語る。山口氏は、「市場のヴィーナス--フィランソロピズムの観点から後期3部作を再読する」(仮題)として、ジェイムズの初期作品、The American Scene、Italian Hours に検証される消費社会と視覚芸術との関連に言及しながら、後期3部作に表されたフィランソロピズム(Philanthropism)についての考察を試みる。
これに対して、折島氏は、フレドリック・ジェイムソンがいうような「視点の技法の洗練という技術的形式的な問題を市場経済的社会と《個人》の物神化という歴史状況の関数としてとらえる」という立場に立脚しながら、ジェイムズのロマンス形式、ジェイムズのゴシック・モチーフ等の形式が、「歴史的な」近代的主体とどう関連するかを問いかける。そして高尾は、ジェイムズがホーソーンの歴史ロマンスをどのように理解し、どのように発展させているのかを問いなおすことで、「歴史意識の歴史的展開」に注目して、ジェイムズの歴史主義のありさまをあとづけようとする。
つまり、前二者の実証的議論と、後二者の思弁的議論とを対置することで、ジェイムズに関する唯物的歴史主義が、どこまでジェイムズ自身の持つ「歴史の感覚」に立脚しうるのか、また、ジェイムズの作品から浮かび上がる「歴史読解」が、どこまでジェイムズに関する唯物的歴史主義と整合するのか。これらの可能性を問いなおすことを通じて、ひいては「歴史批評」そのものの可能性を、いまいちど考える契機となればと願っている。(高尾)
<Works Cited>
- Buelens, Gert, and Celia Aijmer. “The Sense of the Past: History and Historical Criticism.” Palgrave Advances in Henry James Studies. Ed. Peter Ralings. Hampshire: Palgrave Macmillan, 2007. 192-211.
- James, Henry. The Sense of the Past. New York: Scribner, 1917.
分科会
マーク・トウェイン(Mark Twain, 1835-1910)の『ハドリバーグを堕落させた男』(The Man That Corrupted Hadleyburg, 1900)は、アウトサイダーの悪巧みによって、清廉潔白で知られるハドリバーグの評判が貶められる話である。ハドリバーグの人々は、よそ者が持ち込んだ金貨を、それが偽物だとは露知らず、各々の過去を捏造しつつ、欲望の赴くままに奪い合う。この作品においては、欲望が欲望を生み、嘘が嘘を呼び、偽物が偽物を作り出すのだ。誘惑に屈する人間を描くという意味で、『ハドリバーグ』はエデン喪失の物語に自然主義的題材を盛り込んだパロディとでも言えそうだ。
物語をより子細に検討してみると、BillsonとWilsonなど、ハドリバーグの人々の苗字が類似することや、彼らの言動が人工的かつ一元的であることに気づく。印刷工でもあったトウェインは印刷技術の発達に少なからぬ関心を持っていたと言われる。このことに関連づければ、WilsonはBillsonのコピー・複製(duplication)とも呼べるし、WilsonはBillsonのコピー・複製であるがゆえに、Billsonと同じような言動に走ると考えられる。植字機もさることながら、あらゆる面で技術が刷新され、大量生産・大量消費社会に足を踏み入れた金メッキ時代において、画一化される人間の愚かさ、物事の真偽(オリジナルと盗作)の見極めが困難になっている様子をハドリバーグの喧騒はよく伝えているのではなかろうか。ハドリバーグはアメリカ社会の縮図とも言えそうである。
ハドリバーグをそのような大きな枠組みで捉えつつ、物語冒頭からこの町を覆うナショナリスティックな空気にも注目してみたい。よそ者Stephensonが現れる前段階に、Goodsonという異端を排除するのもハドリバーグである。Goodsonに予型されるよそ者Stephensonの復讐によってハドリバーグが混乱に陥る筋書から何が読み取れるだろうか。ナショナリズムひいては帝国主義に通じるような、民族至上主義的、排他的態度が陥る危険性をトウェインは言わんとしたのではないかと思う。さらに、この作品に描かれる、よそ者の策略に端を発する欲望、嘘、偽造の連鎖は、当時のアメリカ社会という文脈に照らし合わせるとき、また新たな意味を獲得するように思える。
本発表では、『人間とは何か』(What is Man?, 1906)や、『不思議な少年』(The Mysterious Stranger, 1916)への橋渡し的位置づけとしてのみ片付けられることの多かった『ハドリバーグ』を、以上述べたように「科学技術の発達」、「ナショナリズムの高揚」などの歴史的背景と絡めて考察してみたい。
<参考文献>
- Emerson, Everett. The Authentic Mark Twain: A Literary Biography of Samuel L. Clemens. Philadelphia: U of Pennsylvania P, 1984.
- Fishkin, Sherry Fisher, ed. A Historical Guide to Mark Twain. New York: Oxford UP, 2002.
- LeMater J. R. and James D. Wilson, eds. The Mark Twain Encyclopedia. New York Garland, 1993.
- Rasmussen, R. Kent. Mark Twain A to Z: The Essential Reference to His Life and Writings. New York: Facts On File, 1995.
- Robinson, Forrest G, ed. The Cambridge Companion to Mark Twain. Cambridge UP. 1995.
- Twain, Mark. The Man That Corrupted Hadleyburg and Other Stories and Essays. New York: Oxford UP, 1996.
- ---. No.44, the Mysterious Stranger. Berkeley: U of California P, 2004.
- ---. What is Man?. New York: Oxford UP, 1996.Wilson, James D. A Reader’s Guide to the Short Stories of Mark Twain. Boston: G. K. Hall, 1987.
社会の不正や抑圧について極めて意識的なE. L. Doctorowの小説が、Fredric Jamesonをはじめとするマルクス主義批評の格好の題材となったのはきわめて自然なことであった。アメリカ文学史に照らしあわせてみれば、強烈な階級社会意識に貫かれたRagtime(1975)、World's Fair (1985)、Billy Bathgate (1989)等の作品は、Dreiser、Dos Passos、Steinbeckの文学的子孫のように映る。しかしながら、ドクトロウ批評にみられる「階級闘争の歴史」観に貫かれた大きな物語の自明視は、ポストモダンの歴史学(歴史的事実の究明は不可能であるとする不可知論)と表裏一体の関係にあるという点において、はじめから問題を孕んでいた。本発表ではアメリカの左翼を決定的に分裂させたとされるローゼンバーグ事件を題材にしたThe Book of Daniel(1971)を再読するが、特に着目したいのは主人公で語り手のダニエルの主体の表象を(不)可能にし、そのアイデンティティを宙吊りにする文化的枠組みの問題である。ローゼンバーグ夫妻の息子の視点から物語を語るという点において、テクストは資本主義批判と同時に共産主義批判をするという冷戦言説の論理矛盾を孕むことになるのだが、ここでは歴史表象の不可能性を表明するポストモダニズムのテクストとしてではなく、処刑された両親の身代わりとして主人公が被害者の立場から加害者を告発するテクストとしてではなく、また、独我論的世界へと閉じるテクストとしてではなく、冷戦言説をこえて(おそらく倫理的な)新たな問いへ開かれるテクストとしてDanielを再評価できるかどうかを考えたい。不在の中心としてのローゼンバーグ事件、ダニエルが観念的な「家族」に執着する理由、信頼できない語り手としての身ぶりに焦点を当てたい。
Robert Frostの詩の大部分は、ニューイングランドの自然や農場を背景としているが、「Stopping by Woods on a Snowy Evening」のような冬の光景、森の中、あるいは「My November Guest」に描かれるような秋の色あせた風景、こういうどちらかといえばモノトーンで、暗い色彩が非常に多いということに気付く。
試みに300少々あるフロストの詩において、どういう色が多く出てくるかを調べてみると、whiteが44の詩に出てくる。blackは27編。それに比べて、blueは21編、redは14編、greenですら15編、yellowも8編と、圧倒的に他の色を明示する語が少ないことも、フロスト詩がモノトーンに近い雰囲気を持っていることを裏付けているといえよう。
白が多用されているのならば、たとえばbrightという語はどうかと調べると、15回出てくる。それに比べ暗さを表すdark(darknessの形で出ることも多い)は、なんと63回も用いられている。色の名前としては最も多く登場する白もまた、ただ清らかさや明るさを象徴しているわけではなく、黒と単純に対比をなす色彩として使われていないようである。
今回の発表では、フロストが多く用いる白と黒の色彩について、またその象徴するものについて、考察を加えてみたい。
<参考文献>
- Lathem, E. C., ed. The Poetry of Robert Frost: The Collected Poems Complete And Unabridged. New York: Henry Holt, 1969.
- Cox, H. and Lathem, E. C., eds. Selected Prose of Robert Frost. New York: Holt, Rinehart and Winston, 1966.
- Thompson, L. Selected Letters of Robert Frost. New York: Holt, Rinehart and Winston, 1964.
- Faggen, R., ed. The Notebooks of Robert Frost. Cambridge, Mass.: Belknap, 2007.
Marcus, M. The Poems of Robert Frost, an explication. Boston: G. K Hall, 1991.
- Oster, J. Toward Robert Frost, The Reader and the Poet. Athens: U of Georgia P, 1991.
- Cady, E. H. and Budd, L. J., eds. On Frost, The Best from American Literature. Durham: Duke UP, 1991.
- Richardson, M. The Ordeal of Robert Frost, The Poet and His Poetics. Urbana: U of Illinois P, 1997.
- Gelpi, A. A Coherent Splendor, The American Poetic Renaissance, 1910-1950. Cambridge: Cambridge UP, 1987.
- Gerber, P. L. Robert Frost. New York: Twayne, 1966
- Poirier, L. and Robert Frost. The Work of Knowing. New York: Oxford UP, 1977.
- Bloom, H., ed. Robert Frost. New York: Chelsea House, 1986.
- Hass, R. B. Going by Contraries: Robert Frost's Conflict With Science. Charlottesville: U of Virginia P, 2002.
ロシア革命直後のソビエト連邦において、アメリカ文化は二重の意味を持っている。一つは当然のことながら、資本主義社会ないしはブルジョア文化の代表として、すなわち階級的な敵としての意味である。一方、十月革命はロシア社会の近代化という側面も持っており、その観点からみた場合、アメリカ文化はむしろ積極的に導入されるべき規範としての意味を持っていた。戦時共産制からNEPへの移行にあたって、大衆文化は、ソビエト社会の政治的正当性に奉仕すると同時に、市場を活性化するという使命を同時に与えられた。本発表では、モダニスト達による大衆文化の反省的な受容を以上の文脈に置いた後、とりわけ映画の領域でモンタージュ理論として知られているロシアの映画作家達の試みを、アメリカ文化への二重性の応答の帰結として捉え返してみたい。
