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 2016年度支部例会スケジュール

■年間スケジュール

2016年4月9日
2016年5月21日
2016年6月25日
2016年9月24日
2016年11月12日
2016年12月10日
2017年1月28日
2017年3月25日

 

〈6月例会のお知らせ〉

2016年6月25日(土)午後1時半より
   慶應義塾大学 三田キャンパス  
南校舎4階 445教室


シンポジウム

21世紀からみるアメリカ演劇の100年
エスニシティー・家族・社会の変遷

講師:ジョン・ドーシィ(立教大学名誉教授)
講師:竹島達也(都留文科大学)
講師:谷佐保子(早稲田大学・非)
司会:大森裕二(拓殖大学)


<概要>

    ユージーン・オニールの劇作品が初めて舞台化されたのが、100年前の1916年である。以来、アメリカ演劇が100年の歴史の中で培ってきたのが、アメリカ文化・社会が抱える諸問題を扱う、広義の「問題劇」の伝統である。オニール以来のアメリカの家族劇の系譜では、様々な社会的・文化的な問題が集約的に示される縮図としての家族が度々描かれてきた。一方、多文化多民族国家アメリカの現実を反映し、様々な ethnic background をもつ数多の劇作家が登場し活躍したことも、この100年におけるアメリカ演劇の重要な展開だった。本シンポジウムでは、以上のような観点と関心から、「エスニシティー」「家族」「社会」を切り口として最近のアメリカ演劇作品を過去の主要作品との比較考察を交えつつ分析する。エジプト系、パキスタン系劇作家の活躍など、これまでには見られなかった多文化の新たな潮流にも注目したい。

August Wilsonの20世紀サイクル
アメリカ演劇においても“Black Lives Matter”

ジョン・ドーシィ(立教大学名誉教授)


<発表要旨>

    多くの国の歴史において100年と言えば、その1世紀に過ぎないが、アメリカにとっては国史の42%、アメリカ演劇史にとっては100%にあたる。August Wilson(1945-2005)による20世紀サイクル——20世紀を10年ごとに区切っての10の連作劇——の100年は、これにほぼ重なる。アメリカ演劇の100年は、オニール、ウィリアムズ、ミラーによって占められている感があるが、今回の発表では、ウィルソンの重要性を「エスニシティー、家族、社会」の観点から、多民族混淆的な劇という近年のアメリカ演劇の成果にウィルソンが、どう貢献したかを説明したい。
    エスニシティー:ウィルソンはアフリカ系アメリカ人を連作劇の中心に据えることにより、その命と存在の重要性を示した。ピッツバーグのヒル地区をもう一つの「我が町」と見る批評家もいるが、ウィルソンはこの黒人コミュニティにおいて、人々がいかに語り、働き、議論し、歌い、同胞と、また周囲の白人コミュニティと交わり合ったかを活写した。
    家族:白人劇作家や他のマイノリティ作家が、アメリカの家族が離婚や争いによって崩壊していく様を描いてきたのに対し、ウィルソンは奴隷制によって破壊された家族を再生していく様を描いている。とりわけ、父と息子に仮託して、年長者が若者を教え導くことを重要視している。
    社会:1970年代以降、歴史や文学は複数形で語られるが、ウィルソンはアメリカにおけるアフリカ系アメリカ人社会の重要性とその独自性を示し、それが持続継承されるべきであると主張した。
    今後、ウィルソン劇が繰り返し上演され、また、読むためのテクスト——文学テクスト——なるにつれ、ウィルソンはオニール、ウィリアムズ、ミラーの後継者としてではなく、100年という短いながらも多産なアメリカ演劇史において、彼らに並ぶ主要劇作家として認められていくことであろう。

 

現代アメリカ演劇の今
2010年代のピューリツァー賞受賞作を巡って

竹島達也(都留文科大学)


<発表要旨>

    1915年、ワシントン・スクウェア・プレイアーズ(Washington Square Players)が最初のシーズンを迎え、ユジーン・オニール(Eugene O’Neill)を輩出することになるプロヴィンスタウン・プレイアーズ(Provincetown Players)が結成され、活動を始めた。この二つの劇団が、アメリカの劇作家の真摯な内容を持った作品を上演することを第一の目標に掲げ、ヨーロッパの演劇レベルに匹敵するような劇作品をアメリカにも生み出してゆく基盤を作ったことを考えると、1915年は、現代アメリカ演劇が誕生した出発点となる記念すべき年であると言える。
    昨年2015年は、現代アメリカ演劇誕生100年の節目となる年であり、1世紀を経過した現代アメリカ演劇の現状を、2010年以降に上演された代表的な戯曲を取り上げることによって概観してゆきたい。対象となる作品は、ピューリツァー賞演劇部門受賞作である。
    ヒスパニック系の劇作家キアラ・ウデス(Quiara Hudes)作の『スプーンひとさじの水』(Water by the Spoonful, 2011)は、イラク戦争の帰還兵で麻薬中毒者であるプエルトルコ系アメリカ人青年の苦悩と再生を、イスラム系劇作家のアヤド・アクタール(Ayad Akhtar)作の『恥辱』(Disgraced, 2012)は、9.11同時多発テロ後のイスラム系アメリカ人の苦難を扱う。また、アニー・ベイカー(Annie Baker)作の『映画館』(The Flick, 2013)は、映画のデジタル化の波の中で翻弄される、映画館の清掃婦であるプアーホワイトの中年男性と黒人青年の心の交流を描く。エジプト人の父を持つスティーブン・ガーギス(Stephen Guirgis)作の『リバーサイドと狂気の狭間で』(Between Riverside and Crazy, 2014)は、元黒人警察官の住居立ち退き問題とブラジル人修道女との出会いを描く。さらに、これらの劇作品が、今までの現代アメリカ演劇の伝統やキャノンとの関連でどのような位置づけにあるかについても可能な限り探求してゆきたい。

 

ピューリツァー賞受賞作品から眺めるアメリカの家族
アメリカの家庭劇における母親の精神疾患と薬物中毒

谷佐保子(早稲田大学・非)


<発表要旨>

    アメリカに関わる作品が選考の対象となるピューリツァー賞は現代アメリカ演劇と同様、今年100周年を迎えた。アメリカは移民社会、個人主義発達の国という背景を抱え、家族の問題はことさら重要視されてきたことから、同賞ドラマ部門の受賞作品のうち家庭劇が占める割合は圧倒的に多い。そこで描かれる家族の葛藤には、女性の自立、戦争、エスニシティ、同性愛などそれぞれの時代の社会背景が色濃く反映されている。21世紀に入ると、精神疾患や薬物中毒が原因で機能不全となっている家庭を描いた作品の受賞が続いた。なかでも家庭生活のタブーをプロットの中心にすえたTracy Letts のAugust: Osage Countyはトニー賞、ニューヨーク劇評家協会賞も受賞し、21世紀を代表とする家庭劇と言える。この作品は医師が処方した薬物中毒にかかり精神に支障をきたしている母親とその家族の愛憎関係を描いた点で、20世紀を代表する家庭劇であるEugene O'Neill のLong Day's Journey Into Nightを彷彿させる。本発表においては薬物中毒、精神疾患の問題に母親、そして家族がどのように向き合っているのかを両作品を比較検討し、時代や社会の変化がその関係にどのような影響をもたらしてきたのかを考察していきたい。

 

 

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分科会

近代散文

混血の純潔
The Last of the Mohicansにおけるpassingの問題

雨宮迪子(東京大学・院)


<発表要旨>

    本発表では、ジェイムズ・フェニモア・クーパーのThe Last of the Mohicans(1826)における混血のヒロイン、コーラ・マンローの役割を考察する。より具体的には、まだone-drop ruleが最有効の人種区分法として認知されていない19世紀初頭のアメリカ北部で本作が上梓されたことを踏まえつつ、コーラによって作中にあらわされるpassingの問題を論じる。
    白人の娘として育てられた黒人奴隷の子孫というコーラの人物設定は、とりわけ異種混交の禁止が本作でいかに守られるかという議論において、これまで批評家たちの関心を集めてきた。一方で近年の批評家たちは、異種混交の禁止を自明のものとしてクーパー作品を論じることに慎重な態度を示している。なぜならThe Last of the Mohicansは、白人-黒人間の「本質的」差異がまだ広く認識されていない19世紀初頭、すなわちone-drop ruleが唯一絶対の人種区分法とはなりえていない時代に執筆されたからである。
    こうした近年の批評動向に即しつつ、本発表では、混血であるコーラに幾度も訪れる純潔の危機がThe Last of the Mohicansの物語を展開させる主な事件となっていることの意味を考察したい。文学史的伝統に鑑みて、本作のように、白人ではなく混血の娘の純潔が取りざたされるような物語が描かれることは極めて異例である。穢れを禁じられた白人の娘としての自意識を持ち、「異人種」=ネイティブ・アメリカンから自らの純潔を守りぬこうとするコーラは、アメリカ文学においてpassingを試みる最初期の人物だと言えるだろう。白人-黒人間の差異が「本質的」レベルで捉えられていなかった時代に、passingの問題が本作で扱われる意義を明らかにすることが本発表の目的である。

 

現代散文

コーマック・マッカーシー『越境』における線が描く物語空間

井上博之(東京大学)


<発表要旨>

    コーマック・マッカーシーの『越境』(The Crossing)の物語空間はさまざまなタイプの線によって構築されている。エデンの園のような楽園から始まりトリニティ・サイトにおける核実験の瞬間で終わる小説全体の構造はキリスト教的な時間の始まりと終わりを強く喚起し、直線的に流れる時間の不可逆性は主人公ビリー・パーハムが合衆国とメキシコとを往復しながら経験することになる連続した喪失のプロセスによっても強調されている。無秩序へと向かう世界に秩序を回復しようとするビリーの試みはつねに失敗するが、一方で2つの国のあいだの国境線の越境を繰り返す彼の放浪の軌跡はほかのさまざまな旅人や物語の語り手たちの生と何度も交差し、そのたびに物語は脱線を繰り返す。あらかじめ決められた終わりの瞬間へと向かうことを拒む非直線的なパターン、あるいは一見したところ終わりのように見える瞬間を新たな始まりへと作り変える物語の運動は交差対句法、犂耕体、放物線などのかたちをとってあらわれると同時に、1つの解釈へと収斂していくことを拒む小説内に埋めこまれたいくつかの物語内物語にも読みとることができる。本発表はピーター・ブルックスによる物語プロットの理論、ティム・インゴルドによる線についての理論、N・キャサリン・ヘイルズによるカオス理論と文学との関係をめぐる論考なども参照しながら小説のいくつかの重要なパッセージを精読し、無数の線の交差によって形成される『越境』の物語空間が終わりをこえて続いていく物語や生の力を肯定する様子を分析するものである。

 



Robert Frostと自然描写
West-Running Brook再評価に向けて

朝倉さやか(立教大学・院)


<発表要旨>

    1928年に出版されたRobert Frostの第5詩集West-Running Brookは出版当初からあまり高く評価されることがなかった。David Evansはその理由の一つを、フロストが「彼の革新的な物語詩に背を向けた」ことだとしている。しかし人間ドラマを描いた物語詩・対話詩の形態が一時放棄され、それまで単なる背景だった自然が前景化されたことで、エヴァンスが指摘するように「自然が持つ、衰退させ破壊する力とそれに抵抗し回復させる力の葛藤」がこの詩集のテーマになったと考えられる。
    Peter Stanlisは、フロスト作品における自然は「人間ドラマのための背景に過ぎない」と考えるが、中心テーマを考察する際にはエヴァンスと同様に、「混乱からの一瞬の逃避」を求め、様々な二項対立の間を絶え間なく行き来するフロストの二元論に注目する。だがこの詩集においてパストラルの背景であった「自然」に焦点が合わせられたとき、語り手は自然を物質としてただ描写するのではなく、感情や意思を持つものとして描き出そうとする。このように語り手の意図が介入する自然描写においては、エヴァンスの言う破壊と回復の力だけではなく、「語り手(人間)と自然」という別の二項対立も生まれるのではないか。
    本発表では、“Spring Pools” “Acceptance” “Once by the Pacific” “The Last Mowing”などの作品から、語り手(人間)と自然の二項対立の中で、二項間を行き来するのではない、中間的存在にフロストが注目していること、また二項対立そのものを解体する可能性が示唆されていることを指摘し、フロストの二元論のテーマに別の光を投げかけるものとしてこの詩集を再評価したい。

 

演劇・表象

後期のシェパード劇
Heartless(2013年初演)を中心に

古山みゆき(青山学院大学・非)


<発表要旨>

    初めに、シェパードの後期の作品について述べる。家族劇の集大成といわれるLie of the Mind(1985年初演)の上演後、創作に3年の空白があり、女系家族を扱った映画Far North(1988年初演)でシェパードの後期の創作活動が始まり、今にいたる作品の種類は、劇、映画、散文作品など多岐で、作品数は多い。総じて作品評価は高くないが、Shannon Blake Skeltonは、彼の著作The Late Work of Sam Shepard(2016年)で、それらを“Late Style”の品として評価している。後期の作品には、作者自身の活動の多様性、政治的な問題の提起や80年代の作品の主題である問題への解決、例えば、家族崩壊の解決としてhomosocialityのmatriarchが現れる。この発表で、家族Heartlessが、いかに女性の登場人物の視点でmatriarchを表現しているかを考察する。homosocialityはFar North、散文作品集Great Dream of Heaven(2002年)にも見られるが、すべてが男性の登場人物の視点で表わされる。
    次に家族劇Heartlessという作品の新しさに注目する。この劇の概要は、65歳のセルバンテス研究の教授ロスコーが、妻と子供を置きざりにして、恋人の30代の映像作家のサリーの実家に来る。そこには、母の世話をしている姉、体が不自由な70代後半の母、唖者の看護婦エリザベスがいる。サリーは心臓移植の手術を受け、エリザベスが心臓提供者らしい。亡霊のようなエリザベスに魅かれたロスコーは彼女と関係を持ち、サリーの家から逃げ出し、サリーは母の介護にとどまる。
    女性が家長である家族という主題の新しさ、surrealismの劇構造の新しさをこの劇に見てみたい。劇の前半は母とロスコーとの対話中心の現実の世界で、無私の愛を主張するmatriarchと、欲望と支配欲にもとづいたpatriarchの対照が示される。後半はエリザベスの超現実の世界で、彼女がロスコーを誘惑する。彼女はサリーと対話し、サリーのカメラを廃棄して彼女の仕事を奪い、サリーに自己覚醒を促す。80年代の作品では、登場人物のtransformationが超現実の世界を表したが、この作品では変身する登場人物でなく、亡霊が劇の超現実性を表していることが劇構造の新しさである。