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 2017年度支部例会スケジュール

■年間スケジュール

2017年4月8日
2017年5月27日
2017年6月24日
2017年9月30日
2017年11月18日
2017年12月9日
2018年1月27日
2018年3月24日

 

〈5月例会のお知らせ〉

2017年5月27日(土)午後1時半より
   慶應義塾大学 三田キャンパス  
南校舎4 階 443 教室


研究発表

なぜ古典を読むのか
ソローの読書論

講師:佐藤光重(成城大学)
司会:小倉いずみ(大東文化大学)


<発表要旨>

    「書物は、それが書かれたときとおなじように思慮深く、また注意深く読まれなくてはならない」とソローが説いたのが、『ウォールデン』の章「読書」である。そういえば前章「住んだ場所と住んだ目的」でも、森に移り住んだ目的が「思慮深く」生きることであると記していた。書物の一言一句を四苦八苦して読むことや、話し言葉に対する書き言葉の優位性、あるいは娯楽作品への揶揄と古典文学の称賛など、およそ堅物の議論に徹するかに見えるのが本章である。そのためか『ウォールデン』全章のうちでも比較的に注目が集まりにくいようである。だがもし、森に家を建てたこと、西部開拓・領土拡張の時代に背を向けて東部に留まりマメ畑を耕作したこと、奴隷制に反対して人頭税の支払いを拒否したことなどが、革新派の先鋒として面目躍如たる事柄であるのなら、古典を読むことも同様の反骨精神において営まれていたに違いあるまい。
    わたしたちアメリカ文学研究者も、この物質的かつ高度な消費社会にあってあえて古典アメリカ文学の読書と研究の意義を守ろうとする反骨者であろう。それだけに、「なぜ古典を読むのか」といった問いに対してわたしたちはいつでも答えるだけの準備ができていなくてはなるまい。これまでいささかなりとも大学の演習や講義でこの問題を学生とともに考えてきた経緯をも紹介しつつ、本発表ではソローが古典への愛に根差した篤い思いから発した意外な見解に着目してみたい。ソローは「音」の章にて、「私は生活に広い余白を残しておきたいのだ」とも語った。その通り、ソローの読書論からは、読書が読書にとどまらず、読者も読者にとどまらない、余白の広い自由の境地が拓かれることであろう。


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分科会

近代散文

Mark TwainのPersonal Recollections of Joan of Arcと欲望の三角形
内的媒介としてのジャンヌ・ダルクの誕生

大木雛子(早稲田大学・院)


<発表要旨>

    トウェインの小説 Personal Recollections of Joan of Arc (1896)は、これまで陳腐な女性観の現れた保守的な歴史小説として見られてきた。しかし、トウェインのジェンダー観を探るうえで、この作品は多分に示唆的である。同作は、フランスの救国を成し遂げる聖少女ジャンヌの生涯を、彼女の幼馴染であり、生前に側近を務めていて、今は年老いた老人である主人公コントが回想し、語るという形式をとっている。そのため、作品世界は全て主人公コントの目を通して語られている。そして、そこには彼のジャンヌを欲望する視線が、克明に顕されている。だが、このコントの欲望は、単に魅力的な他者を求め、欲するものには留まらない。フランスへの愛国精神を通じて、コントの彼女に対する欲望は、より切実さを増していく。コントは、ジャンヌを欲望するだけでなく、彼女を模倣し、志向するまでにいたるのである。本発表では、このジャンヌに対するコントの欲望の本質について、ルネ・ジラールの欲望の三角形の概念を参照し、検討してみたい。

 

現代散文

The Exile and Homecoming of the Black Man
Go Down, Mosesにおける黒人の身体・悲嘆・家族

桐山大介(東京大学・非)


<発表要旨>

    William FaulknerのGo Down, Moses(1942)は、家族というテーマを抜きには語れない。それはIke McCaslinを中心とした白人家族の歴史をめぐる物語においては勿論のこと、黒人たちの物語に目を向けたときにも同様である。例えばIkeを主人公とした三篇を除いた残りの物語を黒人男性人物に注目して読むならば、“Was”は妻を得る物語、“The Fire and the Hearth”は家庭を維持する物語、“Pantaloon in Black”では家庭を失った男が家を飛び出し、“Go Down, Moses”では家を飛び出していた男が帰還する、という一連の流れが見えてくる。これらで描かれる黒人家族の絆は、「家庭」と呼べるものをほとんど持たない白人家族との対比においてしばしば肯定的に捉えられてきた。しかしいっぽうで、黒人家庭は白人の公的な場から排除されたものを代わりに担う私的な場として、支配的イデオロギーと共犯的に機能するとも考えられる。実際、上記の物語ではそれぞれに黒人男性が家を飛び出し、白人男性がそれを追いかけ、最終的に黒人男性が家に帰還する、というパターンが見出される。(“The Bear”や“Delta Autumn”においてさえ、Tennie’s Jimらによって同じパターンが展開される。)白人男性による追跡は、黒人男性を家に留めておきたい、黒人家庭を維持しておきたいという彼らの欲望を表すだろう。さらには、家を飛び出した男が処罰を受けて死を迎え、帰還するという筋書きにFaulknerの反動的な人種意識を読み込む批評家さえいる。
    ところが、実際に白人たちが逃げ出した黒人(の死体)を自らの手で連れ戻すとき、白人の側には安定ではなく動揺がもたらされることは注目に値する。このプロセスにおいて(のみ)、黒人家庭は支配的イデオロギーとの共犯性を超えて、Ikeら白人の側の物語を攪乱する力を獲得するのである。本発表では、Go Down, Mosesにおいてこの黒人男性の出奔と(白人の手を介した)帰還という運動が持つ意義を、身体の物質性、死と悲嘆、系譜と歴史といったテーマと黒人家族の在り方との関わりから読み解いていきたい。

 



『神の決定』におけるエドワード・テイラーの救済準備説批判

皆川祐太(上智大学・院)


<発表要旨>

    初期ニューイングランドのピューリタンは、内省をすることで、救済への確信と疑念のサイクルを繰り返し、独特な信仰生活のリズムを生み出していた。エドワード・テイラー(Edward Taylor, 1642-1729)が代表作『瞑想詩』(Preparatory Meditations)でこうした内的な体験を描いていることは、多くの研究者の指摘する通りである。しかし、もう一つの代表作『神の決定』(Gods Determinations)は、初期ニューイングランド・ピューリタンの信徒が直面した、回心体験における精神的困難、特に彼らの自己認識の問題を扱っているにも関わらず、そのようなピューリタン独特の内的体験に迫る理解はほとんどされてこなかった。
    この2102行に及ぶ長編詩を貫くテーマは、聖徒という救済に選ばれた特別な信徒であることの自己認識をめぐる、葛藤や困難である。いくつかの先行研究でも指摘されているように、この作品は全体として改革派神学に特徴的な救済準備説という、回心体験に関する思想を反映している。しかし本発表では、テイラーが聖徒としての自己認識を阻むものとして、救済準備説を批判的に描いている点に着目する。この詩には、信徒の「精神的落胆」や「恐怖」を煽り、信仰心を揺るがす存在として、救済準備説を象徴する登場人物が描かれる。ここに救済準備段階を「地獄」の恐怖と苦しみと解釈する、ソロモン・ストダード(Solomon Stoddard, 1643-1729)の救済準備説に対する、テイラーの批判を読み取りたい。そして『神の決定』が、ボストン正統主義の伝統を継承するテイラーと、コネチカット渓谷の革新的なストダードとの間の思想的な拮抗関係を反映し、ニューイングランド・ピューリタニズムの多様性を物語る作品である点を指摘する。

 

演劇・表象

イマジナリーな科学・技術とパラダイム・シフト
映画The Day the Earth Stood Stillの1951年版と2008年版の比較

青砥吉隆(大東文化大学・非)


<発表要旨>

    本発表では、1951年に製作されたSF映画『地球の静止する日(The Day the Earth Stood Still)』と、同作品のリメイクたる2008年の『地球が静止する日(The Day the Earth Stood Still)』の比較と分析を行う。前者の1951年版は、『市民ケーン』の編集や『ウェスト・サイド物語』、『サウンド・オブ・ミュージック』の監督を手掛けた巨匠ロバート・ワイズによるもので、発表から半世紀以上を経た現在でも、ファースト・コンタクトもののSF作品として高い評価を受けている。後者の2008年版は、スコット・デリクソンという新進気鋭の映画監督による作品で、近年ではマーヴェル・コミックの映画化作品『ドクター・ストレンジ』などを精力的に発表している。
    1951年版と2008年版を比較すると、様々な差異を発見することが出来る。例えば、劇中で大きな役割を果たす未亡人、ヘレン・ベンソンの職業は、アメリカ合衆国商務省の秘書から、プリンストン大学で教鞭を執る宇宙生物学者へと変化した。また、その長男であるボビーは、ジェイコブと名を変えられた上に、人種も白人から黒人へと設定が変更されている。これらの差異は、1951年から2008年にかけてアメリカの社会と文化が経験した様々な変化から誕生したものとして捉えることが出来る。これを以って、ジェンダー論や人種論を展開することも出来るだろう。
    しかし本発表では、そのような切り口は採らない。焦点を当てるのは、主人公、宇宙からの来訪者であるクラトゥと、彼の操るイマジナリーな科学・技術の変化である。特にその差異は、1951年版において彼が地球へ来訪した際に使用した「空飛ぶ円盤」と、2008年版において使用した「球体」の役割の違いに色濃く表れている。そして、この役割の違いこそが、両作品の結末の差異を生み出しているのである。