〈2017年度11月例会のお知らせ〉

〈11月例会のお知らせ〉

2017年11月18日(土)午後1時半より
慶應義塾大学 三田キャンパス
研究室棟A・B会議室

研究発表

ジャズと春樹とアメリカと

講師:宮脇俊文(成蹊大学)
司会:後藤和彦(東京大学)

 

 そもそもなぜ我々はアメリカ文学に惹かれるのか。戦後、我々にとってのアメリカ文学とは何だったのか。これは我々の多くが一度は遭遇する問題ではないだろうか。この問いに対する姿勢は人それぞれかもしれないが、時にこのことと向き合うことで、日本人としてアメリカ文学を研究することの意味が少しは明確になってくるかもしれない。ここで何らかのヒントを与えてくれるのが、アメリカ文学との親密な関係を持つ日本の現代作家、村上春樹だ。

 今や世界的な作家となった村上は、戦後「阪神間少年」として育った。港町神戸を中心としたこの文化圏には、アメリカがあふれていた。そしてジャズもその一つだった。1964年、神戸国際会館でのアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズのコンサートでジャズに目覚め、そのサウンドに「黒さ」を感じた15歳の少年は、その後アメリカ小説とともに成長していった。しかし、彼は日本の伝統的な文学を半ば父親に強いられるという現実も抱えていた。村上が、その父親への反発として外国文学、特にアメリカ文学に傾倒していったことは事実だ。それは、多くの日本人が自国の伝統と外国文化との間で葛藤したことに似ている。

 村上とアメリカの関係を考えるとき、そのキーワードとなるのはなんと言っても「ジャズ」である。そこでこの発表では、村上文学におけるジャズ性に焦点を当てながら、我々にとってのアメリカとは何かを考えてみたい。村上にとってのジャズとは何だったのか。そして、たとえば彼が作家として敬愛するフィッツジェラルドにとってのジャズとは何だったのか。同じジャズでもそこには何らかの差異が見出せるようだ。我々にとって、この違いに目を向けることはとても重要なことであると思われる。

 村上とアメリカ文学との関連を解き明かしつつ、彼が最終的に描こうとしているのは何かに迫りたい。

 

分科会

近代散文

Redburn: His First Voyageにおける旅人的主体

三浦晃(早稲田大学・院)

<発表要旨>

 Herman MelvilleのRedburn: His First Voyage(1849)には、父と子の関係を中心として論じられてきた歴史がある。父と子の物語としての読みは、父への憧れと未知の土地へのロマンティシズムを、厳しい水夫としての労働のなかで現実のリヴァプールを訪れることによって乗り越えるという、教養小説としての読みでもあった。しかし、作品の前半部分の明らかに教養小説的な枠組みに比べ、後半部分では語り手がその構造を逸脱して散漫になってしまっていることは、F. O. MatthiessenやWilliam H. Gilmanによって作品の瑕疵として指摘されてきた。

 本発表は、作品に表象されている父と子の関係を再検討することから始めて、その構造からの逸脱の意義を問い直す試みである。ニューヨーク―リヴァプール間の往復航海を舞台としたこの作品は、大英帝国対アメリカというもうひとつの父子の構図を下敷きとしている。メルヴィルは、そのような単一的で垂直的な権力関係を、個人の顔と顔の関係の次元にまで解体するアイデンティティのあり方を書き込んでいる。本発表ではまずそのことを、Édouard Glissantによるリゾーム概念とアイデンティティの理論を参照しながら示す。次に、水平的で相対的な関係によってもとづけられる自己認識が、作品のいたるところに描かれる資本主義体制の惨状に対する根本的な応答として機能していることを論じる。その上で、教養小説の枠組みから脱して雑多な他者たちとの出会いに向かう語りのあり方を、主体の軽さとして評価し直すことをめざす。

 

現代散文

遺伝子、蚕、運命

Jeffrey Eugenides, Middlesex

佐藤直子(青山学院大学・非)

<発表要旨>

 Jeffrey Eugenidesの長編第二作目にしてピュリッツァー賞受賞作であるMiddlesex(2002)は、1922年に希土戦争の戦禍を逃れてアメリカ、デトロイトへと渡ったギリシャ移民の家族が、禁酒法時代、世界恐慌、1967年の人種暴動を経て、白人中産階級の一家としてデトロイト郊外のミドルセックス大通りに居を構えるまでを描く、親子三代に渡るファミリー・サーガである。それはまた、主人公兼語り手カルに両性具有的身体をもたらした遺伝子の長い旅の記録でもある。遠い昔に小アジアのギリシャ人共同体で突然変異した遺伝子が、祖父母の姉弟婚や両親のいとこ婚を経て、「ジェットコースターのように」自分へと受け継がれた経緯をカルは壮大な叙事詩ばりに語る。14歳までカリオペという女の子として育てられた後、XYの染色体を有することを知り、男性カルとして生きる決断をした現在41歳の語り手は、その半生を2001年のベルリンで懐古的に書き記す。

 この歴史サーガは、明白に決定論的な傾向をもって構築されている。両性具有者の主人公という設定やそのタイトルにも関わらず、Middlesexには非決定の水準、つまり「中間」がない点を批評家たちは指摘する。インターセックス的身体の起源を遺伝子に求め、男性として生きる道を選ぶカルの物語は性の二元論に陥っているとRachel Carrollは指摘し、またSamuel Cohenは、主人公のジェンダーの危機に誤った「癒しの結末」を与えている本書では、「中間」が放棄されていると批判する。本発表では、カルの語る決定論的な物語が、遺伝子決定論、過去と現在を一本の糸でつなぐ蚕のイメージや運命のテーマ、さらに特異な物語技法—全知の一人称の語り手とbackshadowing—といった諸要素によって、多層的に構築されている点を検証したい。

 その上で、1975年までのカルの物語が、時を隔てて冷戦終結後、9.11アメリカ同時多発テロ以降の2001年のベルリンで書かれているという設定に注目し、現在形で進行するカルの恋のエピソードが「中間」を担保している可能性を考えたい。

 

共感と立ち位置の間

現代アフリカ系アメリカ詩をめぐって

関口千亜紀(フェリス女学院大学・非)

<発表要旨>

 近年の緊張の高まるアメリカ社会の人種問題に対して、現代アメリカ詩はどのように応えているのだろうか。またアメリカ詩を学ぶ者は、昨今の人種をめぐる社会問題をどのように読み、語り得るのだろうか。

 本発表では、Gwendolyn Brooks, Claudia Rankine, Clint Smithらの作品を読みながら、これらの問いを考えていきたい。Brooksは2000年に亡くなった黒人女性初の米国桂冠詩人(現在の名称)で、他の二人の現代詩人よりも前の世代だが、三者に通じる命、生のテーマに注目したい。

 また、語り、表現の問題として、共感(empathy)と立ち位置(positioning)の関係を考える。そのために、2012年のTrayvon Martin事件や1955年のEmmett Till事件に触れ、文学の面からの反応や可能性をみつめる。上記の三人はみずからの作品の中で、なんらかの形でこういった事件に触れているが、改めて問いたいのは、事件に接し、誰がいかに語り得るのだろうか、ということである。そこでは、どのような倫理性が働き、人種、アイデンティティ、芸術、創造性と関わってくるのか、考えてみたい。

 

演劇・表象

サム・シェパードの家族像と大戦後アメリカのメディアによる家族表象

高橋典子(白百合女子大学・院)

<発表要旨>

 今年7月に亡くなったサム・シェパード(1943-2017)の多くの作品には、機能不全に陥った家族が登場する。これらの家族は、噛みあわない会話を交わし、生活感の欠如した日常を展開する。しかし彼らの言動には、作者シェパードの心理の奥深いところに刷り込まれた、アメリカ的理想の家族像が垣間見えることがある。久しぶりに帰郷した家族を温かく迎え入れ、家族そろって食卓を囲み、昔話に花を咲かせる―そういった「あるべき」家族の姿を無意識の内に「機能する」家族の基準としているからこそ、彼の作品中の家族はその機能不全性がくっきりと浮き出しているように見える。本発表では、彼の家族劇3部作と呼ばれる『飢えた階級の呪い』『埋められた子供』『本物の西部』について、シェパードが多感な少年・青年時代を過ごした50年代から70年代を中心に、ラジオ・テレビ番組、映画、雑誌、美術作品等のメディアに描かれたアメリカの理想とされる家族像の表象における、彼の作品中の家族像の位置づけについて考察する。