〈11月例会のお知らせ〉

〈 11月例会のお知らせ 〉

11月22日(土)1時半より

法政大学市ヶ谷キャンパス 大内山校舎Y405教室

*状況によりオンラインに変更する可能性がございます。
その際は支部HPでお知らせいたしますので、
事前にご確認くださいますようお願い申し上げます。

 

研究発表

 
 

人工知能がアイを語るとき

ルグィンからチェンバーズにいたるSFにおけるAIとジェンダー

 講師:佐々木 真理(実践女子大学)

 司会:杉本 裕代(明治大学)

 

 アーシュラ・K・ルグィンが1969年に発表したThe Left Hand of Darknessは、両性具有の人々が生きる架空の惑星を舞台とすることで、ジェンダーと社会との関わりを問いかける作品として読まれてきた。ルグィンはその後もspeculative fictionとしてのSFの持つ特質を存分に活かし、多様なセクシュアリティとジェンダーを描き続けた。そのようなルグィンの試みを受け継ぐかのように、特に21世紀以降、脱人間中心主義的な視点から、性別とジェンダーを問い直す作品を女性作家たちが次々と発表している。ポストヒューマニズムやエコクリティシズムといった理論により人間とその知能に対する新たな認識が求められて久しい現在、アン・レッキーやベッキー・チェンバーズといった作家たちの作品は、ジェンダーを見つめるルグィンの視線をどのように受け継ぎ、どのように変えていこうとしているのだろうか。どちらかと言えば人間中心主義を超えることのなかったルグィンに対し、レッキーやチェンバーズはAIやロボットを作中に登場させることで、脱人間中心主義的地点からジェンダーとセクシュアリティを問いかける。果たして、セックスレスでありジェンダーレスであるAIやロボットの存在は、ルグィンが夢見なかったどのような社会を可能としているのだろうか。人工的に生み出された知能を持つ存在がどのようにこれまでのフィクションにおいて描かれ、どのようにセクシュアリティやジェンダーの問題と関わってきたのかを概観しつつ、新たな世代のSF女性作家がどのように新たな社会を描こうとしているのか考えてみたい。

 
 

分科会

 
 

近代散文

 

Mark TwainのChristian Scienceにおける見世物化された女性像と君主制の再創造

大木雛子(日本女子大学・非)

 

<発表要旨>

 Christian Science(1907)という作品において、Mark Twainは同名の宗教を酷評している。主に論説文の形式をとるこの作品は、1899年から1903年にかけてCosmopolitan誌、そしてNorth American Review誌に掲載されたが、読者の反響を心配したハーパーズ社は、1907年まで書籍としての出版を控えることとなった。Mark DraperがThe Routledge Encyclopedia of Mark Twainにおいて述べているように、Christian ScienceはTwainの他の作品に比べると学術的な関心を十分に向けられてこなかった。これまでの主な先行研究としては、William E. PhippsのMark Twain’s Religionにおける言及、武藤脩二、有馬容子らの研究などがあげられるが、これらの研究はいずれも、クリスチャン・サイエンスの教祖エディに対するTwainの批判の理由を探求していく、というアプローチをとっている。
 これらの先行研究を踏まえたうえで、本発表においては、Christian Scienceをジェンダーの視点から再考し、Twainが自身の理想とする女性像に反した存在としてエディを描くことで、逆説的な形で、理想的な人間像を追及していた可能性について検討していく。Twainの理想的女性像は、Personal Recollections of Joan of Arc(1896)や“Eve’s Diary”(1905)などの作品に特に顕著であるが、対照的に、Christian Scienceにおける女性教祖エディは、自らの女性性を見世物化し、宗教を通じて君主制を再創造する人物として批判的に描かれていることを示していく。

 

現代散文

 

Leslie Marmon SilkoのThe Turquoise Ledgeにおけるモア・ザン・ヒューマンの言語

清水美貴(青山学院大学・院)

 

<発表要旨>

 アメリカ先住民作家レスリー・マーモン・シルコウのThe Turquoise Ledge(2010)は、アリゾナ州ツーソンの自宅周辺を舞台に、ガラガラヘビやハチ、ターコイズ、雨雲といったノンヒューマンとの交流を哲学的思索や家族の歴史と織り合わせながら語る回想録であり、本作はモア・ザン・ヒューマンの世界における人間の位置を再考する試みとして読むことができる。
 本発表では、先住民的世界観に根ざした語りを通して、人間中心主義的な言語観、すなわち、言語を人間固有の能力として限定する見方を揺さぶり、モア・ザン・ヒューマンの世界に開かれたものとして提示される本作の言語観を分析する。まずは、人間の言語が、動物の鳴き声や雨や雷などの自然現象といった、周囲のノンヒューマンの発する音や身振りと相互関係にあると指摘するディヴィッド・エイブラムを参照しつつ、意味と物質が分離しない、本作における言語のマテリアリティを確認する。そして、本作における語る主体としてのノンヒューマンの描かれ方が、単なる人間中心主義的な擬人化ではなく、言語なるものを、ノンヒューマンによる記号生成の働きへと拡張していることを論じたい。本発表では、本作における言語をモア・ザン・ヒューマンの世界における関係性のネットワークとして捉える。そして、「言語」を人間の特権的能力ではなく、ノンヒューマンの身振りとの連続性のなかに見出すことで、人間を脱中心化するシルコウの語りを分析する。

 

 

“Wild in her woe, with grief unknown opprest”

ホイートリーの哀歌における小さなほころび

小泉由美子(慶應義塾大学)

 

<発表要旨>

 1773年刊行のフィリス・ホイートリー第一詩集Poems on Various Subjects, Religious and Moral は、全39篇のうち 14篇の哀歌を収録し全体の三分の一以上を占める。だが、Katherine Clay Bassardによれば、従来ホイートリーの哀歌は、白人に依頼されて書いた“occasional poetry”にすぎない「矯正されたスピーチ」としてしばしば軽視され、「本物の詩的芸術」から外れたものとして認識されてきた(59)。しかし、1970年代にはGregory Rigsby (1975, 1978)、1980年代にはMukhtar Ali Isani (1982)、1990年代には前掲Bassard (1999) が、その哀歌に細かい分析を与え、2000年代以降は、Shields (2008), Hodgson (2014), Bly (2018), Haslanger (2019), Owens (2022)が積極的に再解釈する。そのなかでBassardが、ホイートリーの哀歌に詩人自身の中間航路のトラウマが潜在することを指摘したのは重要である。しかしその際、ホイートリーの哀歌における「白人遺族の哀しみ」が後景化してしまった。ホイートリーの哀歌には、白人の哀しみとホイートリーのトラウマとのあいだの乖離が、ひそかに、並列的に表現されている。より詳しく言えば、詩人の哀しみがあくまで「不在の痕跡」として刻まれている。以上を念頭に、本発表はまず哀歌の「成功」を、詩人と読者のあいだの約束事という点から定義する。そのうえで、ホイートリーの哀歌に見られる約束事からの「小さな一連のほころび」を精読・考察する。最後に、そのほころびがいかにホイートリーの哀しみや喪失の「不在の痕跡」とつながり、結果としてその哀しみや喪失を回復しているのかを考えたい。

 

演劇・表象

 

(ワークショップ)Sinnersにおけるブラック・ホラーの意匠

ハーン小路恭子(専修大学)

 

<発表要旨>

 『フルートベール駅で』(Fruitvale Station, 2014)や『ブラック・パンサー』シリーズ(Black Panther [2025], Black Panther Wakanda Forever [2022] )で知られるアフリカ系監督ライアン・クーグラーの最新作『罪人たち』(Sinners, 2025)は、1930年代の南部ミシシッピ・デルタを舞台とした異色のホラー作品である。本発表では、クーグラーがいかに、ジョーダン・ピールなど他のアフリカ系映画作家とも共通する仕方で伝統的なブラック・ホラーの意匠を利用しつつ、ホラージャンル(本作では特に吸血鬼もの)の更新を試みているかについて考察する。その過程で、ブルーズを始めとした音楽の作中での重要性や、先行する吸血鬼ジャンルの刷新例としての『フロム・ダスク・ティル・ドーン』(From Dusk Till Dawn, 1996)からの影響にも言及したい。なお、今回の分科会はワークショップ形式で行うものとし、フロアの積極的な議論への参加を歓迎する。