國重純二
太平洋戦争終戦後の東京に於けるアメリカ(文学)研究は、1946年12月、雑誌『アメリカ文化』が〈立教アメリカ研究所〉から出版されたときに始まる。翌47年、アメリカ学会が設立され、『アメリカ文化』の発行元となった。
48年1月号から誌名が『アメリカ研究』(英文タイトル The American Review)に変更された。同誌にアメリカ文学関係の論文が掲載され、特集号も出た。50年の10月号で同誌は廃刊。48年から49年にかけて〈アメリカ研究会〉ができ、〈学生アメリカ研究会〉の中に文学部会を作る話が持ち上がり、49年5月頃正式に発足。このときから〈アメリカ学会学生アメリカ研究会文学部会〉の活動が始まる。これは、実質的には都内の大学の学部学生の読書会、研究発表会であり、大橋吉之輔氏、大橋健三郎氏が世話役を務め、毎月1回くらいの割合で、各大学を回りながら勉強会を行った。この勉強会は現在の〈分科会〉に引き継がれている。両大橋氏の言葉によると、学生アメリカ研究会文学部会の勉強会メンバーと、当時すでに研究者として名をなしていた大家が初めて一堂に会したのは53年の4月か5月に戸板女子短大で開かれた講演会であり、これが同年6月の〈アメリカ学会文学部会〉発足につながっていく。月例研究会では福田陸太郎氏や、苅田元司氏が発表し、その原稿が会報に掲載され、53年10月の講演会ではBurton E. Martin氏、杉木喬氏、竜(ママ)口直太郎氏、鶴見和子氏が語っている。10月に会報American Literary Review 第1号発行。両大橋氏の記憶によれば、第2号から「アメリカ文学評論」というサブタイトルがついたとあるが、実物を見ると「アメリカ学会文学部会会報」としか出ていない。出版社は最初開隆堂、後に評論社となる。56年1月に出たAmerican Literary Reviewの発行元は 〈アメリカ文学会〉となっている。また54年2月に発行された第3号の後記によれば、「本年一月から学生諸君の要望により、勉強会を持つことになり、既に六回開いた。月例研究会当日を除く毎土曜日午後一時、戸板女子短大の教室に於いて行われている」とある。この〈勉強会〉と〈アメリカ学会学生アメリカ研究会文学部会〉の勉強会の関係はよく分からない。
56年3月、アメリカ学会から独立して〈日本アメリカ文学会〉が発足。龍口直太郎氏が会長に選ばれた。年1回の割合で大会を、毎月1回月例研究会を行い、勉強会は、月例会の日を除く毎土曜日に開いていた。56年3月のAmerican Literary Reviewは〈日本アメリカ文学会〉の名前で発行されている。アメリカ学会文学部会発足の頃より東京以外でもアメリカ文学研究の組織が作られ、大橋健三郎氏によれば、〈日本アメリカ文学会〉は全国組織の様相を呈しており(American Literary Reviewの投稿者には、地方在住者も含まれている)、一方、九州アメリカ文学会とか関西アメリカ文学会などが独自の活動をしていて、支部会員必ずしも本部会員ではなかった。このあたりは非常に曖昧模糊としている。はっきりしている事実をあげれば、62年10月26日に全国協議会が開かれ、学会の方針が検討され、翌日の10月27日に日本アメリカ文学会第1回全国大会が同志社大学で開催されたことである。鴫原真一氏が引用している、『英語青年』63年8月号に掲載された高村勝治氏の文章によれば、こういうことであるらしい。「いままでのアメリカ文学会は、いわば、自然発生的なものであった。まず東京にアメリカ文学の研究者たちが集まって、アメリカ文学会を作り、やがて、関西はじめ各地にアメリカ文学研究の会ができ、日本アメリカ文学会という組織ができたのだった。しかし、これらの会はきわめてルーズな結びつきしかもたなかった。おのおののグループが自由に活動し、ただ、東京の本部から出ていたパンフレットによって、相互に消息を交換するという程度のものであった。しかし、こんどの改組では、この結合がずっと強化された。むろん、各支部(東京も支部のひとつとなった)とも、自由に研究活動をやるのだが、その支部のうえに、あらたに本部という組織がおかれた。つまり、アメリカ合衆国みたいなもので、federationの組織なのである」
おそらく最後の部分は、63年5月26日に開かれた全国代議員会で7つの支部からなるフェデレーションシステムによる全国組織に発展的改組がなされたことを指していると思われる。会長は杉木喬氏。この結果東京を中心に活動していた〈日本アメリカ文学会〉は〈日本アメリカ文学会東京支部〉となり、64年から支部会報『アメリカ文学』(冨山房)が年2回刊行されることになった。95年から年1回となり、96年から学会誌刊行センターから出版されるようになり現在に至っている。65年に日本アメリカ文学会の会員名簿がはじめて発行されているが、それによると東京支部の会員は、当時すでに260人をうわまわっている。この頃大橋健三郎氏をはじめとする一流の研究者が、月例会の案内はがきを謄写版で刷り、宛名を手書きしていたのを知る人は少なくなった。謄写版刷りの案内は、この後も長く続いた。
東京支部は、発足以来日本に於けるアメリカ文学・文化研究の中心としてめざましい活動を続けてきたが、75年4月からフルブライト委員会の助成を受け、3年間に渡って行った共同研究”The Traditional and the Anti-Traditional in Contemporary American Literature”は特筆に値する。「小説」、「詩」「演劇」「日本に於けるアメリカ文学の受容」の4部門に分かれて研究会を開き、その成果はAmerican Literature in the 1940’s、American Literature 1950’s、The Traditional and the Anti-Traditional; Studies in Contemporary American Literatureの3冊からなる英文報告書となって結実し、内外から高い評価を受けた。
両大橋氏を中心に始まった学生の勉強会が、日本アメリカ文学会東京支部に発展してきたこと、発足当初から、何者にも制約されないことをモットーにし、学問研究の独立を守ってきたこと、フルブライト委員会の助成を受けるときも、この方針が堅く守られたことは会員の心に銘記されるべきであろう。
参考文献
1. AMERICAN STUDIES IN JAPAN ORAL HISTORY SERIES VOL.21
『大橋吉之輔・大橋健三郎先生に聞く』 (東京大学アメリカ研究資料センター、1988)
2.『東京大学アメリカ研究資料センター年報』第3号、1980
3.『日本アメリカ文学会 会報ALSJ( XIX) 』1981
4. 日本アメリカ文学会会員名簿、1965
5. American Literary Review 第3号 (アメリカ学会文学部会、1954)