〈3月例会のお知らせ〉

〈 3月例会のお知らせ 〉

3月21日(土)1時半より

法政大学市ヶ谷キャンパス 大内山校舎Y404教室

*状況によりオンラインに変更する可能性がございます。
その際は支部HPでお知らせいたしますので、
事前にご確認くださいますようお願い申し上げます。

 

研究発表

 
 

没入する身体たちのダンジョン

Stranger Thingsにみる配信型コンテンツの関与形態

 講師:波戸岡 景太(法政大学)

 司会:日野原 慶(大東文化大学)

 

 数ある定額制動画配信サービスのなかでも、「馬の群れに紛れたシマウマ」(Amanda D. Lotz)的存在としてそのコンテンツ制作および配信体制の独自性を評価されてきたNetflixは、物語と視聴者の新たな「関与形態」(“mode of engagement”)を生み出してきた。とりわけ、「誠実かつ皮肉ぬきのパスティーシュ」(Sophie Gilbert)に満ちたNetflixドラマStranger Things(2016-25)は、モダニズムとポストモダニズムのあいだを揺れ動く「メタモダン」(Gry C. Rustad)な作品とも評されるが、一方で、「関与形態」とは「没入」のことであるとするLinda Hutcheonの議論を参照するならば、「没入」の深浅に個人的体験や属性が大きく関わってくる同作のマニアックなパスティーシュ(80年代カルチャー、アニメ、ジャンルフィクションなどへの言及)は、視聴者たちの評価を二分させても不思議ではなかった。はたして、ストリーミング時代の視聴率ともいえる「需要度」でギネス記録を保持するに至ったStranger Thingsは、合計で45時間強に及ぶ長大な物語をパスティーシュで埋め尽くすといった戦略を、いかにして成功させたのか。
 注目すべきは、同作が徹頭徹尾「没入体験」そのものを物語化しているという事実だろう。TRPG、ウォークマン、チャンネルサーフィンといったものへの「没入体験」についても、やはり「誠実かつ皮肉ぬき」な描写をしてみせた同作は、物語独自の(ただしアニメやTRPGの世界観のパスティーシュとしての)「遠隔透視」、「ナウ・メモリーズ」、「ハイブ・マインド」といった次元の異なる「没入体験」を介して、異世界から現実世界に「逆没入」してこようとするモンスターたちの存在をリアルなものにする。つまるところ、Stranger Thingsが生み出した物語と視聴者の新たなエンゲージメントとは、「他者の没入体験への再没入」なのではないか――。こうした仮説の有効性を、本発表では、サイレント映画からオンラインゲームに至る映像文化史の中に同作を位置付けることで検証していく。

 
 

分科会

 
 

近代散文

 

隠される身体

ホーソーン作品におけるマスカレード表象

山口晋平(宮城学院女子大学)

 

<発表要旨>

 フレデリック・クルーズはThe Sins of the Fathersにてナサニエル・ホーソーンの作品について「心理的ロマンスの役割は絵画的効果を狙って空想的趣向を凝らすことではなく、人間存在の欺瞞的で親しみやすい表層を貫き(penetrate)、その恐るべき核心へと到達することである」(Crews 11)と語っている。ホーソーンが作家として「最奥の自己(inmost Me)」を追い求めていたことはThe Scarlet Letterの序文からも明らかで、さらに彼が様々な作品の中でしばしば登場人物の身体を暴くような描写をしていることからも、クルーズの言う“penetrate”が大きな主題であったことは間違いない。しかしホーソーンにとって身体は暴露するものであると同時に、同じくらい隠すものであったことは、彼がいくつかの作品の中でマスカレードという舞台を物語の中で作り上げていることからも窺える。
 本発表は “Howe’s Masquerade” やThe Blithedale RomanceThe Marble Faunなどのホーソーン作品におけるマスカレード表象に注目し、マスクによって隠される身体の描かれ方を分析することを目的とする。マスクに覆われた身体は共同体の視線や解釈の中で不安定に揺れ動くのである。

 

現代散文

 

語る女にとっての他者?ファム・ファタールと母

アナイス・ニンを中心に

矢口裕子(新潟国際情報大学)

 

<発表要旨>

 「ルヴシエンヌは、ボヴァリー夫人が生き、そして死んだ村に似ている」と『アナイス・ニンの日記』第一巻は書き始められる。続けて、「わたしはボヴァアリー夫人ではないから、毒をあおったりはしない」とニンは宣言するのだが、エンマ・ボヴァリーとアナイス・ニンは、実は姉妹のように似ている。抑圧的な田舎ないし郊外に住む中産階級の主婦であること、夫にべた惚れされていること、本人も恋して結婚したつもりだったが、夫の凡庸さを疎ましく思っていること、文学好きで、小説のヒロインや歴史上の女性に憧れ、夢見がちで現実感覚に乏しい、恋に恋する人妻で、実際、婚姻外の恋愛に身を投じること等々。では、ふたりを分かつもの、ニンがかろうじて毒をあおらずにすんだ理由とは何か。エンマが胸に渦巻く想いを表現したいと思いながら、「言うべき言葉が見つからず、その機会もなく、その思い切りもつかなかった」のに対し、アナイスには何でも打ち明けられる日記があり、自分のためにも自分以外の女たちのためにも言うべきことが山ほどあって、「わたしは黙らない」と言い放つ思い切りがあった、つまり語る女であったことだ———そう、長らく考えてきた。だがその発想の背後には、語る女と語らない女もしくは語れない女を二分し、暗黙裏に前者は後者より優れているという、男女二元論の亜種のような思考が潜んでいたのではないか。本発表では、語る女にとっての他者としてファム・ファタールと母という対照的とも思える女性像を設定し、しかし彼女らは本当に語る女の他者なのか、という問いに分け入りたい。ニンにとってのファム・ファタールとは、特異な三角関係の一点でもあったヘンリー・ミラーの妻ジューンであり、母とは、音楽家だったニンの父と別れ、ヨーロッパからアメリカへ移住して三人の子どもを育てたローザ・クルメル・ド・ニンである。

 

 

“And here I am, the center of all beauty!”

Frank O’Haraの“Autobiographia Literaria”におけるロマン派的想像力とキャンプの実践

松坂朱莉(青山学院大学・院)

 

<発表要旨>

日常の些細な出来事や通人好みの機知を詩に取り入れるFrank O’Haraは、かねてよりHazel SmithやMichel Davidson、Sam Ladkin等により、キャンプの感性を実践する詩人として分析されてきた。初期の詩である“Autobiographia Literaria”についても、語り手が幼少期の疎外感を乗り越え、後に詩作を通じて「美の中心」に至ったことを戯画的に宣言する詩の展開は、人生経験の演劇化という意味合いにおいて、キャンプ的な感性を思わせる。一方、Marjorie PerloffやDuncan Hoseは、オハラがロマン派詩人Samuel Taylor ColeridgeのBiographia Literaria(1817)のタイトルを意識していることを指摘するが、その内容が本詩に与えた影響については、十分に検討されているとは言い難い。しかし、本詩の最終連における“here I am, the / center of all beauty!” という一節や、 “Imagine!” という感嘆符付きの表現が、コールリッジがBiographia Literariaの中で展開する想像力の議論を想起させることからも、オハラの詩におけるロマン派詩人の影響を読み込むことは、本詩の読解に不可欠であろう。以上を踏まえ、本発表では、まずコールリッジが提示する「第一の想像力」や「第二の想像力」が、本詩においてどのように表れているかを検証する。その上で、他の詩にも目を配りつつ、オハラのロマン派詩人的な身振りとキャンプの実践との関係を考察する。その際、同性愛者たちが共有してきた審美主義としてのキャンプの側面にも着目することで、オハラがロマン派詩人の身振りを用いて行ったキャンプの実践が、いかにしてマイノリティとしての疎外感を肯定的価値へと転化させたかについて考えたい。

 

演劇・表象

 

侵食される世界の果てに

ジョン・カーペンター映画の政治性

松井一馬(中央学院大学)

 

<発表要旨>

 『スラヴォイ・ジジェクの倒錯的映画ガイド2 倒錯的イデオロギー・ガイド』(2012)において、映画作品におけるイデオロギー表象を解説するジジェクはジョン・カーペンターの『ゼイリブ』(1988)から話を始める。人間に擬態したエイリアンとそのサブリミナルなメッセージが特殊なサングラスによって明らかにされるこの作品をジジェクは「ハリウッド左翼の忘れられた傑作」と称え、そのサングラスの着用を巡って繰り広げられる格闘シーンに、隠れたイデオロギーを見出すことへの抵抗の暗喩を読み取るのである。
 その見立てには説得力があるが、同時に疑問も浮かぶ。では、カーペンター作品にはどのようなイデオロギーが隠れているのだろうか。確かに『ゼイリブ』はあからさまに資本主義批判の映画であるが、カーペンターは決して「ハリウッド左翼」的映画監督ではない。それどころか、『要塞警察』(1976)や主にカート・ラッセルが体現するそのヒーロー像には保守主義的傾向や男性中心主義が指摘されてきた。かと思えば、『スターマン』(1984)や『光る眼』(1995)でマッチョイズムからほど遠い男性主人公を提示したり、『ハロウィン』(1978)でスクリーミング・クイーンを「犠牲となる女性」から「戦う女性」へと地位向上させたりと、ハリウッドの伝統をリベラルに刷新するような態度を見せもする。そこに何らかの一貫した政治姿勢を読み取ることは難しいだろう。
 しかし、そうした表面的な一貫性の欠如はカーペンターという監督の政治性を見誤らせるものだ。彼の作品に頻出するのは二つの相容れない価値観のせめぎ合いと、一方からもう一方への侵食という構図である。進展してゆく侵食とその果てに世界が迎える結末こそをカーペンターは描いてきたのであり、その物語構造にこそ彼のイデオロギーは表れる。本発表はこうした物語構造に着目することで、カーペンター作品の政治性を浮かび上がらせることを企図するものである。