〈9月例会のお知らせ〉

〈 9月例会のお知らせ 〉

9月19日(土)1時半より

法政大学 市ヶ谷キャンパス 大内山校舎Y702教室

 

*今回は法政大学 市谷キャンパスでの開催となります。
会場にお間違えのないよう、お願い申し上げます。
 
*ページ末尾に懇親会情報を掲載しています。
参加を希望される方は、詳細をご確認ください。

 

研究発表

 
 

Woman in Motion

Faulknerの三部作とLinda Snopes Kohl

講師:山本 裕子(千葉大学)

司会:本村 浩二(駒澤大学)

 

 都会を闊歩する flâneur(遊歩者)は、近代都市を舞台とするモダニズム小説には欠かせない存在であり、そのモダニティの観察者としての姿は、つねに特権階級の男性と結びつけられてきた。これに対し、Faulkner の三部作に登場する Linda Snopes Kohl は、田舎を歩き回る flâneuse(女性遊歩者)である。孤立を悠然と楽しむ男性遊歩者とは異なり、Linda は、自らも障がいを抱えながらマイノリティのために尽力し、他者との接続を試みる「進歩的」な女性として描かれる。物語の結末において真っ赤な英国製ジャガーでヨクナパトーファの外へと走り去る彼女は、Faulkner 作品に共通する「移動する女性」の到達点とも言える。本発表では、初期習作から三部作――『村』(The Hamlet, 1940)、『町』(The Town, 1957)、『館』(The Mansion, 1959)――に至る女性表象の変遷を辿りつつ、Faulkner が三部作において提示する新しい女性像について検討を加えたい。

 
 

分科会

 
 

近代散文

 

Adventures of Huckleberry Finnの批評・研究における文学的父としてのMark Twainのイメージとブラックネスとの関係の変遷

瀬戸貴裕(滋賀県立大学)

 

<発表要旨>

 本発表ではMark TwainのAdventures of Huckleberry Finnに関するこれまでの批評および研究を取り上げ、トウェインの作家像がどの様にその中で変遷していったのかを探究する。特に本発表はトウェインのアメリカ文化、文学における象徴的な「父」としてのイメージと、アフリカ系アメリカ人の存在をこれまでの批評家や研究者らがどの様に結び付けてきたのかを、『ハック・フィン』に関するこれまでの主要な批評や分析を取り上げながら論じる。『ハック・フィン』はトウェインがアメリカ文学キャノンの一部となり得たきっかけをもたらした作品であり、その作家と作品の評価はほとんど切っても切り離せないものだ。その評価において特に重要視されるテーマの1つがジムとハックの関係である。トウェインに対して肯定的な批評および研究の多くは両者の関係を民主的な理想や人種的融和を体現するものとして定義する。こうした批評や研究が、トウェインがアメリカにおいて多くの読者に読まれるべき作家であると主張するためには、トウェインが単なる白人作家ではなく、黒人コミュニティとも深い繋がりがある作家であるとしばしば提示しなければならない。トウェインがジムとハックという人種の垣根を超えた疑似的な親子にも見えるキャラクターを創造したことは、この目的に大いに利するものである。トウェインがしばしば自らが生み出したハック・フィンやトム・ソーヤーといったキャラクターと同一視されることもまた、文学的「父」でありながらも黒人文化に育まれた「子」であるトウェインというイメージを作り出すことに寄与しただろう。本発表では最後に『ハック・フィン』の翻案作品も一種の批評として取り上げ、そこでハックと黒人たちとの関係がどのように再定義されているかを分析することで、現時点でのこの「親子関係」の様相を提示する。

 

現代散文

 

アワー・ミューチュアル・フィッシュ

ジョシュ・テュイニンガ『わたしたちはよそ者じゃない』にみる日系人とセファルディ系ユダヤ人の魚と救済

長塚織仁(立命館大学・専門研究員)

 

<発表要旨>

ジョシュ・テュイニンガのグラフィックノベル『わたしたちはよそ者じゃない』(We Are Not Strangers)は、セファルディ系ユダヤ人の主人公が祖父の葬儀に出席したことから、日系人と友情を築き、日系人の遺産を匿った祖父の逸話を知る筋書きである。これは実際にシアトルで起こった出来事を基にしている。特にシアトルには古くからセファルディ系ユダヤ人(1492年にスペインを追放された後に各地に移住したユダヤ人の子孫)が住んでおり、その多くが当時は水産業に携わっていた。日系人もまた多くの移住者が水産業に従事しており、交流が深かった。実際にシアトルの古い日系人の魚屋では、ユダヤ人のコーシャ遵守度に合わせて包丁を変えていたという逸話も残る。本発表では、本作のコマ割りや画面構成に魚と釣りが強調されていることから、ユダヤ教と日本文化における魚と釣りというテーマに焦点を当てる。ユダヤ教の魚と釣りが救済というテーマに結びつき、日本文化では魚食・水産物の文化が想像以上のウェイトを持ち、また相互に生命の象徴であることを振り返る。作中では主人公は救済者となった祖父の釣具を継承する。遺産相続を象徴するこのコマは現在、記憶や文化継承を行うシアトルのセファルディ共同体を示しているようでもある。グラフィックノベルで第二次世界大戦のセファルディを描いた作品は極めて珍しく、さらにテュイニンガの作品では日系人収容の画面構成からホロコーストの記憶が重ねられているが、直接的にホロコーストを主題とせずに、かつユダヤ性を押し出した作品は異質である。これは第二次世界大戦の体験が一面的には捉えられないセファルディ系ユダヤ人の経験の多元性、インターセクショナルな日系人の体験との結びつきを、ローカルなシアトルの場面から作品化しているものだ。クライマックスでは続く相互の友情としてエジプト=イスラエル平和条約とレドレス合意の運動の過程が交錯する。本作は新たなユダヤ文学の方向性を示している。

 

 

“For Annie”における生死と主従の転覆

ポー作品で描かれる幽閉不安とその解放

宇佐教子(東京都立大学・非)

 

<発表要旨>

 “For Annie”は、ポーが最晩年にNancy Richmondに捧げた詩だ。この詩では“I”の生死が論議されてきた。実際の生死より、注目すべきは、三連の“That any beholder / Might fancy me dead —”と、十四連で繰り返される“That you fancy me dead —”である。十四連では最後に「自分が死んでいると思われている」ことが強調される。ここに2つの問題が存在する。ひとつめは、自己の実存が、他者の視線によって決まるという自己認識だ。他者からの確認無しでは、世界に存在していると認められない。これは、ポー作品に頻出する“taphephobia”(生き埋め恐怖症)と関連する。「早まった埋葬」はその好例だ。『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』では、ピムは船倉、土の中に幽閉・生き埋めにされる。Joan Dayanは「わたし」について“the death-obsessed imaginist of ‘For Annie’”と表現しているが、「わたし」の独特性は、死への強迫観念を持ちながらも、解放感に浸っているという点だ。「わたし」は生死の境界を楽しみ、それはタフォフォビア作品として特異であろう。第二の問題は、視線不安である。“For Annie”と同時期に書かれたSarah Helen Whitmanのための詩“To Helen”では、ヘレンの視線に取り込まれる「わたし」が登場する。女性の眼のとりこ/しもべであると自己規定しながら、その視線を恐れるのは「わたし」が彼女を支配したいからだ。“For Annie”においても、彼女の眼に救済を見出しつつ、不特定多数の視線を気にして、自己の生死・支配の境界線は揺らぐ。他者の視線に支配されたくないのに、見られないと自己の実存を確かめられない矛盾を帯びた不安について考察する。

 

演劇・表象

 

「あの日」に向かう身体感度

Ottessa Moshfegh, My Year of Rest and Relaxationを中心に

ジェイムズ常マシュー (東京大学・院)

 

<発表要旨>

 2001年9月11日の同時多発テロにおいて、崩落する世界貿易センタービルから落下する人々の姿が、テレビや新聞報道により循環し、アメリカ人の意識にトラウマを与えた。Don DeLillo, Falling Man (2007)やJonathan Safran Foer, Extremely Loud & Incredibly Close (2005)などの「“9/11”文学」は、事件の視覚表象をストリートパフォーマーに代演させ、落下する身体の姿勢を改変するなど、個人の事件のトラウマと身体視覚表象を連関し介入している。こうした作品は、Lewis S. Gleichが述べるように、事件の身体視覚表象の強度を示すのみならず、事件以後の応答倫理を問うてきた。
 Ottessa Moshfegh, My Year of Rest and Relaxation (2018)では、終章全てに渡って、事件発生の瞬間、語り手の友人 Revaが世界貿易センタービルから落下する情景を語り手がVCRで見続けるさまが詳細に描かれる。学歴、美貌、資産において特権的立場にある語り手は、世界との関わりを断ち、睡眠薬を摂取して眠り続ける「休暇の1年」を行い、自身の身体をぞんざいに扱う。両親との不和や元恋人による性的矮小化、Revaによる嫉妬など、語り手の身体をめぐるトラウマと情動が背景に絡み合っている。Sofie Behluliは、この背景から語り手個人の情動を国家レベルの様々な体制に接続するも、トラウマと情動の分析を必ずしも語り手の身体描写に十分に結びきれていない。また、Arin Keebleは、事件自体を中心化しない描写から、本作を「“9/11”文学」の周縁かつそのトラウマの発露の契機に留める。しかし、語り手が睡眠の合間にWhoopi Goldbergの身体に執着し、彼女の出演作などの観賞に没入することを踏まえると、終章に至るまでの語り手の身体感度の変化、トラウマ、情動に、視覚表象や「見ること / 見られること」による身体への情動的作用も考察されるべきだろう。本発表はこの問題意識のもと、語り手の身体描写、及びトラウマと情動を結びつけ、終章に至るまでの身体感度の性質や変化を論じる。その上で、終章の “9/11” の描写がいかに身体に作用し、“9/11”以後の日々を語る身体たちに向き合うのか見据えたい。

 

【お知らせ】
月例会終了後に、懇親会を予定しております。
以下より詳細をご確認いただき、参加を希望される方はGoogle Formへのご回答をお願いいたします。
https://forms.gle/2TWi2drue3oJ2rxE7