〈2018年度1月例会のお知らせ〉

〈1月例会のお知らせ〉

2019年1月26日(土)午後1時30分より
慶應義塾大学 三田キャンパス
研究室棟A・B会議室

 

研究発表

 
 

Whitmanと宮沢賢治

比較詩学の試み

富山英俊(明治学院大学)

司会:堀内正規(早稲田大学)

 

 Whitmanと宮沢賢治は、それぞれの文学の代表的詩人が現れるとは想定されなかった環境から出現し、時代を経てもその芸術は予想外の先鋭性と訴求力を維持し続けている、といった共通性がある。また、大胆な探索行為であるその代表的詩篇群において、かれらの死生観とは何かはじつは一義的に捉えがたく、複数の志向のあいだの矛盾・相克がその現代性の一環を成している。それは両者において、通常はモダニズム芸術に予期されるような表現の不連続性、反語性、緊張にみちた対話性などをもたらした。
 本発表では、二人の詩のそうした様相に、宗教思想(キリスト教および仏教)との連関(意図せざるものを含めて)を考察しつつ接近していきたい。その過程では、Whitmanの日本での仏教的な受容(具体的には昭和初期の松浦一)、賢治の作品の一部に認められるアメリカ宗教史との繋がり(内村鑑三のpremillennialismおよびそれと対比的な成瀬仁蔵)、などを取りあげる予定である。

 
 

分科会

 
 

近代散文

 

Ahabの反逆をめぐるParadise LostからMoby-Dickへの影響

奈良裕美子(公立諏訪東京理科大学)

 

<発表要旨>

 MelvilleはJohn Miltonの Paradise Lost (1674) の神学的テーマに魅了された。しかし、彼の関心は作品の懐疑的、無神論的要素にあった。Melvilleは1839年に Paradise Lost を読み、1849年に自身で購入し、1850年の夏に再読し、記憶や解釈を新たにしていたと思われる。 Moby-Dick (1851) のAhab創造に関して、 King Lear (1605-06) や Sartor Resartus (1836) 等からの影響も指摘されるが、 Paradise Lost のSatanからの重要な影響関係があることもPommerを先駆けとした先行研究で明らかにされている。
 興味深いことに、信仰に篤いMiltonが Paradise Lost で英雄とみなしたのは、叙事詩の伝統的英雄像を踏襲したSatanではなく、堕罪後、心から悔い改める敬虔なキリスト教徒Adamであったが、Melvilleはイギリス・ロマン派詩人たちと同様、Satanこそを英雄とみなした。彼(ら)が魅了されたのは、英雄として存在感や行動力があり、かつ内省力や複雑な内面をもつ、「人間的な」Satanだったのである。このSatanからのインスピレーションは、Ahab創造には不可欠であった。
 本発表では、SatanとAhabの反逆の態度や心理描写の類似点について再考し、それがあくまでも表層的な類似であり、MiltonとMelvilleがSatanとAhabに託した役割や思い入れは全く異なっていたことを両作家のキリスト教の神への認識や信仰心のあり方の違いを検証することによって確認したい。Melvilleの想像力が自身の神学的問題意識をどのように表出させたのかという問いについて、新たな観点から光をあてることができるかもしれない。

 

現代散文

 

ドナルド・バーセルミ作品における図像の使用

足立伊織(東京大学・院)

 

<発表要旨>

 北米を代表するポストモダニズム作家の一人であるドナルド・バーセルミは、作家として世に出る以前に美術と関わるキャリアを持っていることもあり、これまでも同時代の視覚芸術との関わりの中でしばしば論じられてきた。その多くは、バーセルミの作風から伺われる彼の思想と、様々な視覚芸術作家の作風から伺われる思想を類比的に扱うものであった。社会の周縁に位置するゴミのような素材や、様々な紋切り型の筋書きやフレーズを断章形式なども用いて繋ぎ合わせるバーセルミの文体は、キュビストやシュルレアリストのコラージュや、ネオ・ダダのアサンブラージュの手法と類比的に論じられ、また安易な意味付けを拒否するような物体が作中で描かれ、作品自体もまた意味付けが難しいテクストとしての物質性が強いものになるという性格は、ハロルド・ローゼンバーグの言う “anxious object” の持つ性格と類比的に論じられてきた。これらは概ね、バーセルミとこれらの視覚芸術が共有する近代への批判性を通じ、作品が持つポストモダニズムの精神性を明らかにしてきたと言えると思われる。
 このように精神性や思想を視覚芸術作家と共有するだけでなく、バーセルミは自ら作成したコラージュを挿絵とする絵本 The Slightly Irregular Fire Engine (1971) を書き、また Guilty Pleasures (1968) と City Life (1970) などの中期の作品集を中心に、テクスト内に写真やコラージュ、図像を実際に挿入する手法を用いてもきた。近年バーセルミが再び注目される中で、このような作品の視覚的な要素に注目し、メディア論との接続を試みる研究者も現れている。本発表もこの流れを引き継ぐものであるが、まずはバーセルミがどのような図像を用い、そしてその図像がテクストとどのような関係に置かれているかということを概観的に整理、考察し、今後の研究への端緒としたい。

 

 

アドリエンヌ・リッチ作品における対話の手法とその目的

1970年代作品を中心に

水口小百合(駒澤大学・非)

 

<発表要旨>

 サンドラ・ギルバートは、2018年に出版されたアドリエンヌ・リッチのエッセイ集の中で、リッチの「対話」という言葉を引用しながら、そこで生み出される力の可能性を示唆し、より大きな意味で対話を捉える必要性を主張した。ギルバートの示唆を踏まえると、リッチ作品には、会話のやりとりといった文字通りの行為以上の有機的な相互作用の可能性があると考えられる。
 本発表では、リッチが対話による人間理解を求めていたこと、そしてフェミニズムには女性同士の結びつきが必要不可欠だと考えていたことの二点を念頭に置き、対話によって生み出される女性の共感力を挙げてみたい。作品としては、1970年代のアメリカで隆盛を極めたフェミニスト定期刊行雑誌に掲載された詩を取り上げる。当時既にフェミニストとして影響力が高かったリッチの詩は、女性たちの共感力に訴え、フェミニズムの道へと誘なう目的を持っていたと考えられる。リッチは自ら提唱した “Re-vision” という書き換え行為を通して、男性詩人たちの対話手法をより効果的なものに書き換えたのではないだろうか。“Re-vision” は、古いテクストとの有機的な対話として捉えうる試みだったのではないだろうか。

 

演劇・表象

 

声なき声を回復する

ジョージ・ワシントンの161歳の元乳母ジョイス・ヘス

細野香里(明治大学・非)

 

<発表要旨>

 2017年12月に全米で公開された映画『グレイテスト・ショーマン』は、ヒュー・ジャックマン演じる19世紀の興行師P・T・バーナムの半生を大幅に改変して描いた娯楽ミュージカル作品である。観客の支持を得て、ミュージカル映画として全米歴代興行成績3位を記録したが、多くの批評家が指摘する通り、その内容は、生い立ちから興行師としてのキャリアに至るまで、バーナムの実人生とは大幅にかけ離れている。ジャックマン演じるバーナムは、立身出世を果たした夢追い人として描かれ、彼と彼の成功を後押ししたフリークたちとの間には美しい絆の存在があったかのように語られる。けれども、その背景には、削除され陰に追いやられた不都合な事実があった。本発表では、映画ではなかったことにされている、バーナムが興行師としてのキャリアを軌道に乗せるきっかけとなった見世物「ジョージ・ワシントンの161歳の乳母」ジョイス・ヘスに注目する。
 ジョイス・ヘスとは、ジョージ・ワシントンの乳母を務めたという触れ込みのもと、当時25歳のバーナムによって見世物にされた黒人女性のことである。ヘスが何者であるのかという問いは難題だ。手がかりとなるのは、バーナムが執筆した自伝、見世物の宣伝文、そして彼女の見世物の批評を掲載した同時代の新聞記事や見物人の記述のみであり、それらは書き手の主観や思惑に大きく影響されている。何よりも、そのほか多くの当時の黒人奴隷たちと同様、彼女は公式記録に記述されるような立場になく、読み書き能力を持たず、自身の意見を表明する場を与えられていなかったために、彼女自身の「声」は理論上復元不可能だ。そこで本発表では、人々の視線にさらされたヘスの身体を触媒として、興行師バーナム、そして白人観客が、自らが欲望するアメリカ国家の理想の身体、歴史、地理のイメージを表出させた力学を確認したうえで、ヘスは自身の声を持ちえたのか、その可能性を考えてみたい。