〈1月例会のお知らせ〉

〈 1月例会のお知らせ 〉

1月25日(土)1時半より

慶應義塾大学三田キャンパス 研究室棟 AB会議室

*状況によりオンラインに変更する可能性がございます。
その際は支部HPでお知らせいたしますので、
事前にご確認くださいますようお願い申し上げます。

 

研究発表

 
 

英語詩と日本語詩のメロポエイア

比較詩的リズム論

講師:富山 英俊(明治学院大学名誉教授)

司会:小泉 由美子(慶応義塾大学)

 

 Ezra Poundは詩の音声的・視覚的・意味的な三側面をmelopoeia、phanopoeia、logopoeiaと呼んだが、本発表では、拙著『比喩と反語――アメリカの詩と批評』の諸所でも触れたその三者の繋がりを概観したのち、英語詩と日本語詩での詩的リズムに関わるさまざまな問いを、時間の許すかぎりで扱っていきたい。二つの言語での伝統的な韻律の実体の解明については、Derek Attridgeによる英語詩の基礎形態を一行四ビートのリズム(そのうちの一つはvirtualでありうる)とする見解を、また菅谷規矩雄や川本皓嗣による七音や五音による音数律を八音枠に無音の拍が置かれる韻律と見なす分析を参照する(両者には基本的な類似性を認めうる)。両言語での定型詩といわゆる自由詩との多様な関係性については、AttridgeやCharles O. Hartman、菅谷や川本などの観察を紹介しつつ若干の実例を取り上げる。さらに、英語詩と日本語詩の(双方向の)翻訳の際にそれらの詩的資源がどのように活用され(うる)かも論じたい。日本近現代詩については、発表者の主要な関心である宮沢賢治に焦点を当てるが、他の詩人たちにも触れる予定。

 
 

分科会

 
 

近代散文

 

ヘンリー・ジェイムズの「風景画家」(1866)における「書くこと」と「描くこと」

垂井泰子(中央大学)

 

<発表要旨>

 ヘンリー・ジェイムズ(1843-1916)は評論「小説の技法」(“The Art of Fiction,” 1884)の中で、小説家と画家の共通の目的は「現実を描くこと」であり、小説にせよ絵画にせよその方法は同じであると述べている。ジェイムズはその20年近く前に発表した初期の短編小説「風景画家」(“A Landscape Painter,” 1866)に、画家でありながら文章の書き手としての才能もあるという人物を主人公として登場させ、本小説の大部分をその人物の日記で構成させていることから、芸術家にとって「書くこと」と「描くこと」は同じであると作家人生の早い段階から考えていたことが分かる。本発表では、本短編小説の精読を通して、画家である主人公の文章の書き方の特徴を明らかにし、それがジェイムズ自身の小説の書き方の土台になっている可能性を指摘する。具体的には、主人公の書き方の特徴として情景を描く際の「写実主義」と人間関係の発展を描く際の「会話の多用」を検討したい。本小説は意外な結末を迎えるが、その意外性を伝えるために主人公/ジェイムズがどのような書き方を選んでいるかという点についても考えたい。

 

現代散文

 

身ぶりのテクスト

J. D. Salinger, Nine Storiesの戦争物語におけるナラティブ・ストラテジー

川島広大(早稲田大学・院)

 

<発表要旨>

 2010年の死後、神秘的なヴェールに包まれてきた J. D. サリンジャーの伝記研究が進み、今日では作家が生涯公に語らなかった第二次世界大戦での過酷な従軍体験の詳細が知られるようになった。しかし、戦争の記憶はサブテクストで示唆されるに留まり、小説の題材となることはほとんどなかった。
 そこで本発表では、“For Esmé—with Love and Squalor”という重要な例外を除いて、サリンジャーは戦略的に「戦争小説」を描かなかったと考え、二次大戦への言及を多く含む短編集Nine Stories (1953)のテクストに改めて注目したい。戦時の記憶を“love”と“squalor”というキー・ワードで意味づけようとする審美的な物語構成のために、同時代の批評家から高く評価された“For Esmé”を中心に、1950年代の出版以来、先行研究ではNine Storiesはいわゆる“well-made”な作品を収録する短編集とみなされ、専ら精神的なテーマが読みこまれてきた。しかし、表層的な社会に相容れない人物を描いた物語の多くは、「物質的価値観」と「精神性」という単純な二項対立には収まらない複雑さをはらんで展開しているように思われる。
 この点をふまえ今回の発表では、登場人物たちの両義的な身ぶりに着目する古典的な議論を引き継ぎつつ、伝記研究や冷戦期文学研究の進んだ今日の立場から、彼らの「精神的な抵抗」を二次大戦後アメリカ社会という歴史的な状況と関連づけて理解することを試みる。その上で、“well-made”な作品という評価とは裏腹に、不自然な語りの空白や急な人称の転換を伴う“For Esmé”の語り自体を、錯綜する身ぶりとして読み直し、テクストの再評価を行う。最終的に本発表では、戦争という切り口を通じて、サリンジャーの作品テクストを現実の世界における「行為」として読む一つの視座を示したい。

 

 

Lawrence FerlinghettiとAllen Ginsbergの反原子力運動の詩

片桐ユズル・反戦・反核

ヤリタミサコ(詩人)

 

<発表要旨>

 1944年6月6日第二次世界大戦ノルマンディ大作戦で駆逐艦船長だったFerlinghettiは、ナガサキ原爆投下の7週間後に佐世保から入市しその被害にショックを受け、平和主義者となって海軍を除隊した。そして詩人となった1958年に“Tentative Description of a Dinner Given to Promote the Impeachment of President Eisenhower”という反核の詩を発表し、4年後に片桐ユズルが和訳を出版した。2018年にはアーサー・ビナードがFerlinghettiとこの詩について再評価している。66年前に書かれた詩をビナードに倣って再考したい。
 スリーマイルアイランド原発事故前年の1978年にGinsbergはプルトニウムの核施設搬入を阻止するため、仲間たちと鉄道線路上で坐禅し続けた。逮捕され、法廷での証言として自分の詩“Plutonian Ode”を朗読した。その後に続く抗議行動に影響を与えたこの詩のマントラ(真言)を確認する。
 痛みと思考と詩、ヴィジョンと表現と世界、実存と尊厳と政治、二人の詩人からの問題提起は21世紀の今でも問題である、ということが問題であろう。

 

演劇・表象

 

サム・シェパードとヴィム・ヴェンダースの家族表象

月城典子(白百合女子大学・非)

 

<発表要旨>

 劇作家サム・シェパードと、映画監督ヴィム・ヴェンダースは、過去に二度共同で映画を製作している。Paris, Texas (1984)とDon’t Come Knocking (2005)は、いずれも壊れた不完全な家族を描いた。Paris, Texasでは愛憎の果てに離ればなれになった夫婦と息子の再会と離別が、Don’t Come Knockingでは家族とは呼べない血のつながりの中に自分の存在の意味を見出そうとする男女が描かれる。シェパードは代表作Buried Child (1978)をはじめ、壊れた家庭、機能不全の家族を描いた作品を多く残す。ヴェンダースも映画Perfect Days (2023)では、主人公の単調な生活の中に壊れた家族の影を描く。ロードムービーの名手と呼ばれるヴェンダースが、このPerfect Daysでは一人の人間の生活に視点を定め、その定点観測の中に主人公の過去につながる家族の姿を垣間見させている。一方シェパード作品には、家族それぞれの意識が家庭の内と外へと別々の方向を指しながら、機能不全のまま共に暮らす家に視点を定めて描くものが多いが、Fool for Love (1983)のように、重婚による2つの家族間の移動や、逃げる者と追う者の間の移動をイメージさせる作品もある。このようにシェパードとヴェンダースの作品には、移動と固定の2つの視点を併せ持つことと、家族という血のつながりに対する感性において交差する点が見られる。本発表では、シェパードとヴェンダースがそれぞれに異なる作風、方向性を示しながらも家族表象において共通の感性を見出し、表現手法をすり合わせて映像を作り上げていった過程を、共同制作の二作品だけでなく、シェパードの家族劇、ヴェンダースのロードムービー、ドキュメンタリー作品などからも考察する。