<2019年度6月例会のお知らせ>

〈6月例会のお知らせ〉

2019年6月29日(土)午後1時30分より
慶應義塾大学 三田キャンパス
研究棟AB会議室

 

シンポジウム

 

<関係性>の詩学――アメリカン・ルネサンスを起点として

 

司会:貞廣真紀(明治学院大学)

講師:藤村希(亜細亜大学)

講師:古井義昭(立教大学)

講師:髙尾直知(中央大学)

講師:三添篤郎(流通経済大学)

 

    かつて「個人主義」の観点から語られることの多かった19世紀アメリカ(特に北部)文学だが、近年、むしろ共同体や対話といった「関係性」の文脈で論じられることが増えている。世界を覆う情報や物流ネットワークの出現によって、個人が関係の網目にいやおうなく絡め取られてしまう現在、人々の関心が「つながり」に向けられるのは自然なことかもしれない。『来るべき共同体』『無為の共同体』『友愛のポリティクス』『アセンブリ』など、現代哲学が「関係性」や「共同性」の問題を追及していることはその反映であろうし、文学研究の分野においても、メルヴィル&フレデリック・ダグラス学会、ホイットマン&メルヴィル学会、昨年日本で開催されたホーソーン&ポー学会など、近年は作家学会の共催が増え、「関係」の中で作家を評価する傾向はますます強くなっているように思える。
 

    しかし、そもそもの初めから、言語を用いる作家は「つながり」(alignment)の中に生まれるのだと考えることもできるだろう。そして、あらゆるものがリゾーム状に連結しつつある状況下においては、「つながり」だけでなく、むしろ切断――「無関係の関係」や「隔離の伝染」といったような切断可能性――について考えることが必要になるかもしれない。また、「関係性」についての問いは、誰かと誰か、あるいは何かと何かの関係についてのそれであると同時に、関係を作りだすメディアについての問いでもある。今日“connected life”といえば、モバイル・テクノロジー革命(機器同士の接続とそれに伴う生活形態の変化)を指すが、アメリカの19世紀もまたコミュニケーション革命の時代だった。テレグラフや蓄音機といった新たなテクノロジーは、空間的に遠隔地をつなぐのみならず、過去と現在の関係についての人々の時間意識を変え、さらに、この世とあの世のネットワークのモデルとしてスピリチュアリズムにも影響を与えている。
 

    本シンポジウムは、19世紀アメリカにおいて「関係性」がどのように思考され、その思考がどのように展開したのかを再考することを目的としている。アメリカン・ルネサンス期を扱う2つの論考(ヴェールによってジェンダー化されつつ問われるホーソーンの接続と切断の倫理(藤村)、コミュニケーション革命の最中に書かれた『白鯨』における「個人主義」(古井))に始まり、アメリカン・ルネサンスの枠組みそのものを問い直す射程を持つ高尾の論(南北戦争という「歴史的断絶」を超えた女性作家の関係の形成)、そして、20世紀的観点から19世紀の「関係性」を振り返る三添の論(関係の一形態としてのテレパシーの系譜)へと議論が展開する予定である。
 

切断と接続の力学

ナサニエル・ホーソーン作品群における関係性の倫理

藤村希(亜細亜大学)

<発表要旨>

    Nathaniel Hawthorneの作品には、共同体から孤立する男女が数多く描かれる。それは近代的主体の問題というにとどまらず、大学卒業後に約10年間に渡る作家修行という名の「引きこもり」を経験したホーソーンにとって、孤立状態に陥った「人間のこころの真実」(The House of the Seven Gables)とは、自ら身をもって知り作家経歴を通じて探求する主題のひとつだった。その作品において、関係の切断は繰り返し批判の対象となり、他者とのつながりが時に熱烈に希求される。しかしその一方で、関係の接続が手放しで称賛されるわけではない。

    本発表では、このようなホーソーン作品における切断と接続の力学を、関係性の倫理の問題として考察する。切断と接続を同時に達成し、問うことを可能にする装置として、作家の作品に頻出するヴェールに注目するが、ここには〈切断がひらく特異な接続のかたち〉、〈接続の前提としての切断〉といった切断と接続の間の結ぼれとともに、ジェンダーのポリティクスが介在することとなる。作家の2つの自伝的序文――Mosses from an Old Manse(1846)の“The Old Manse”、およびThe Scarlet Letter(1850)の“The Custom-House”――と、短編“The Minister’s Black Veil”(1835)、そして代表的ロマンスのひとつであるThe Blithedale Romance(1852)を中心に検討してみたい。

 

ネットワーク小説としての『白鯨』
Lonely Individualismをめぐって

古井義昭(立教大学)

<発表要旨>

    本発表は、「繋がり」と「孤独」という相互補完的な力学をめぐってハーマン・メルヴィル『白鯨』(1851) を考察し、エイハブ船長の孤独のありように肉薄することを目指す。ある批評家はBruno Latourの理論を援用しながら『白鯨』を「ネットワーク小説」と形容しているが、本発表ではそうした先行研究を踏まえつつ、作品内におけるコミュニケーションのネットワークに焦点を当てたい。『白鯨』には電信、鉄道、郵便などのコミュニケーション技術・メディアに関連する比喩表現が満ちており、エイハブは白鯨との繋がりを想像上のネットワークを通じて幻視する。しかし、いくら繋がりを求めようとも白鯨から反応を得ることはなく、エイハブのコミュニケーションは一方通行のものにとどまる。関係の網目に注目したときに初めて、そこからこぼれ落ちるエイハブの孤独が浮き上がるはずだ。

    ネットワークという観点から『白鯨』を考察する本発表の目的は、エイハブの孤独に光を当てるだけにとどまらず、「孤独なエイハブ=個人主義」というこれまでの批評的前提を問い直すことにある。“lonely individualism” という新たな概念を提起し、エイハブの個人主義、さらには十九世紀アメリカ文学研究における個人主義の捉え方を再考するきっかけとしたい。

 

オルコット『病院のスケッチ』とフラーのジェンダー論

髙尾直知(中央大学)

<発表要旨>

    本発表で取りあげる〈関係性〉の具体例は、ふたりの女性作家だ。すでに別の媒体で発表したことだが、ひとりはMargaret Fuller。そしてもうひとりは、父Bronson Alcottを通じてフラーと繋がりのあったLouisa May Alcott。偶然にも先月の支部月例会の19世紀散文分科会で、「トランスベラム」というテーマが話題になった。本発表の関心も、共通の問題を扱うふたりの作家が、南北戦争を越えることで、どのような質的変化を起こしたか、そこに南北戦争がどのように影響しているかを見ることにある。本発表では、とくにオルコットの『病院のスケッチ』Hospital Sketches (1863)を取りあげて、そこにオルコットに対するフラーの影響のありさまを見てとり、そのこととオルコットのリアリズムへの志向がどのように関係しているかを見てみたい。

 

テレパシーの系譜学
アメリカン・ルネサンスからインターネットまで

三添篤郎(流通経済大学)

<発表要旨>

    アメリカン・ルネサンス期以降、メスメリズムやスピリチュアリズムを通じて醸成されていったテレパシーへの関心は、その後、いかなる展開を見せたのだろうか。本発表では、テレパシー研究の第一人者・デューク大学心理学部教授Joseph Banks Rhineに着目することで、20世紀合衆国におけるテレパシーの系譜を明らかにしていく。

    英国心霊研究協会の流れをくむRhineが、1920年代のデューク大学で、テレパシー研究を開始した目的は、まずもって死者との交流を科学的に実証するためであった。しかし冷戦が始まると、彼の研究は、洗脳技術につながるものとして、政府・諜報機関から新たな注目を浴びていくようになった。この研究成果に目をつけた、ビート派ら対抗文化の担い手は、超心理学的知を積極的に奪用していった。彼らは、テレパシーが可能になれば、遠隔地に住む反体制派の同志とも、感情的に密な関係性を作ることができるようになると夢想した。さらに、この左派的なテレパシー観は、1970年代以降、西海岸のコンピューター・ハッカーの心をもつかんでいった。そして彼らは、テレパシーを可能にする装置こそがインターネットであると捉え、その民間開放を強く主張していった。

    19世紀に芽吹いたテレパシーへの期待は、20世紀に入ると消えるどころか、むしろさらに高まっていったのである。以上の系譜をたどることで、本発表は最終的に、テレパシーを鍵語にすると、アメリカン・ルネサンスからインターネットにいたるまでの道筋が、ひとつの線でつながり得ることを、新たな仮説として提起してみたい。

 
 

分科会

 
 

近代散文

Margaret Fullerの“Leila”における理想の女性の表象

西田梨紗(大正大学・院)

 

<発表要旨>

    アメリカン・ルネサンス期において、女性たちは高等教育を受けることも、社会的な活動をすることも、大きな制約があったが、それでも、知的探求心に溢れる女性たちが、時代の精神的潮流を吸収し、知性を高め、考察を深めることを目的とするコミュニティを形成していたことは注目に値する。そのなかでもとくに、1839年にFullerが始めたカンバセーションは重要である。Fullerがクラブの参加者を集めるためにElizabeth PeabodyとSophia Ripleyに協力を求めたことや、カンバセーションはPeabodyの書店で開かれていたところにも、女性同士の結束がみえる。カンバセーションはトランセンデンタリストのコミュニティにおけるシスターフッドのなかで形成されたと見做せよう。

    本発表では、Fullerがコンコード滞在時に執筆した“Leila”(1841)に着目する。Fullerが同時代の女性たちに与えた影響を指摘した上で、Fullerがやがて女性たちと形成することになるシスターフッドが作中にいかなるかたちで投影されているのかを検討する。次に、作品のはじめで“mystery”と形容されているレイラの描写を詳細にみていき、Fullerが理想とした女性像を読み取りたい。Jeffrey Steelは“Leila”について1840年から1841年のFullerの“crisis”の時期に“spiritual”と“social insight”の完全な表現を獲得した作品であると評価しているが、Fullerはレイラという創作上の女性に何を託したのかを示したい。

 

現代散文

カーソン・マッカラーズにおける少女性と少年性
The Member of the Weddingを中心に

吉岡求(東京大学・院)

 

<発表要旨>

    カーソン・マッカラーズの代表作『結婚式のメンバー』(The Member of the Wedding, 1946)の解釈・評価は、主人公フランキー・アダムスの作品内における変化を巡り、大きく二つに分かれてきた。中性的な「トム・ボーイ」である少女が、自身を「女性」化する社会を(渋々ながら)受け入れていく苦い成長物語という解釈が初期批評より根強い定説としてある一方、近年ではドゥルーズの「生成変化」の概念やクィア理論の影響を受け、自身のアイデンティティを多様に変化させていく主人公の可能性を肯定的に評価する批評が増えている。前者の議論が、主人公のアイデンティティをめぐる葛藤をやや矮小化し、作品を保守的な文脈にとどめてしまいがちなのに対し、後者の議論は、物語の結末における主人公の挫折を軽視する楽観的な姿勢によって説得力を弱めているように思われる。

    発表者は、上記のような二種の議論に共通する問題点が、フランキーという単独のキャラクターに分析が集中したことであると考える。本発表では、主人公フランキーの少女性が、従兄弟ジョン・ヘンリーの半ば抽象的なまでに強調される無垢さ、すなわちその少年性と補完的な関係にあると捉え、この関係を総合的に捉えることにより、これまでの議論を折衷的に扱う視点を提供してみたい。デビュー作『心は孤独な狩人』(The Heart Is a Lonely Hunter, 1940)以来、マッカラーズは過剰なまでのイノセンスを抱えた少年たちを、自身のアイデンティティや名づけ難い欲望と葛藤する主人公たちの傍に寄り添うものとして描き続けた。本発表における「少女」と「少年」の関係の整理が、マッカラーズ作品を包括的に論じる枠組みへの端緒となれば幸いである。

 

“ ‘It is Cabestan’s heart in the dish.’ ”
Ezra Poundの “Canto IV” における鳥の歌にみられるSwinburneの影響

岩川倫子(東京外国語大学・非)

 

<発表要旨>

    Ezra Poundは、Algernon Charles Swinburneを通して古代詩の音楽を再発見し、それをよすがとしてモダニズム詩の音楽を確立したのではないか。1918年の3月に雑誌Poetryの11号に掲載されたエッセイ “Swinburne versus his Biographers” の中でパウンドは、ギリシア古典から彼が英詩に持ち込んだdactylのリズムを高く評価しつつ、彼の感傷性は批判する。スウィンバーンがAristophanesを英訳した “The Birds” は、原典の短短長格を強弱に置き換えた弱弱強格のanapestを行中に繰り返すことで、英詩に違和感なく強弱弱格のdactylを取り込む実験だが、この手法はパウンドの “Canto IV” における鳥の歌にも見られる。他方 “Canto IV” の鳥の歌は、スウィンバーンが英詩にそぐわないとした強強格のspondeeも積極的に用いている。HoraceのOdes第4巻、第12歌における長長長短短長長短短長短のAsclepiadを強弱に置き換えて取り入れた、強強強弱弱強強弱弱強弱のリズムにもこれが含まれる。パウンドは、古代詩のリズムをよすがとし、iambicに縛られない自由なリズムを獲得したのである。さらにスウィンバーンの “Itylus” でナイチンゲールの鳴き声として繰り返し用いられる “heart” という語は、 “Canto IV” の鳥の歌でも、感傷性を排除して用いられている。 “Canto IV” における鳥の歌からは、スウィンバーンの影響下に独自のメロポエイアを確立していった若き日のパウンドの姿が見えてくる。

 

演劇・表象

アメリカにおけるMedeaの受容
日・米の比較から

大野久美(創価大学)

 

<発表要旨>

    EuripidesのMedeaは今日でも最も多く上演されているギリシア劇の一つである。この物語は究極の復讐劇であり、衝撃的な結末をもつ。夫への復讐の為に母親が我が子を手に掛けるという結末ゆえに、王女メディアの凄まじい情念や母と女の間で揺れ動く葛藤などに観客が圧倒される劇である。

    この作品はアメリカの高校において古典を読む授業の中で教材として使用されている。王女メディアのキャラクター、コロスのキャラクターなど様々なトピックを提供できる作品として捉えられている。

    また、アメリカのブロードウェイなどで上演され、Medea役の女優が数多く、トニー賞を受賞している。 1948年 Judith Anderson、1982年 Zoe Caldwell、1994年 Diana Riggなどが名前を連ねている。1948年の受賞は、ブロードウェイで初めてMedea が上演され、Robinson JeffersがMedeaを脚色、演出し、大ヒット劇になった。

    本発表では、いくつかのヒットした映像を観ながらアメリカ独自の演出の仕方などを明らかにする。日本版では蜷川幸雄が1983年と2005年に『王女メディア』を演出したが、二つのバージョンでは演出に大きな違いが見られる。メディアの登場シーン、コロスの演出の仕方、舞台装置の特徴、最終場面などを鑑賞し、検証する。その上でアメリカ版Medeaとの比較も試みたい。