〈2019年度11月例会のお知らせ〉

〈2019年度11月例会のお知らせ〉

2019年11月16日(土)午後1時30分より
慶應義塾大学 三田キャンパス
*当日は線路切り替え工事に伴う運休のため、JR田町駅は山手線・京浜東北線ともに終日大きな影響が出る予定です。
詳しくはこちらをご覧ください。
第一校舎103教室

 

研究発表

 
 

「人種」は見た目が10割

人類最悪の発明とアメリカ文学

講師:福井崇史(國學院大学)

司会:生駒久美(大東文化大学)

 

 「誰も、アメリカに来るまでは白人ではなかった」――ジェイムズ・ボールドウィンのこの言葉がいみじくも表現しているように、「人種」という概念のもたらす影響力が地球上で最も強く発揮され、最も猛威を振るっていた/いるのは、他ならぬアメリカの地においてであるように思われる。リンネやブルーメンバハといった自然科学者が、18世紀に提示したその4ないし5種への分類は、21世紀を迎えた今も、アメリカのみならず全世界において確固たる信憑性を持つものとして受け取られているように見える。しかし、現在の自然科学者たちが既に前世紀の終わりから語り始めているのは、その概念の虚構性についてなのだった。
 「人種」という存在あるいは概念と、不即不離の関係を保持しつつ発展してきた国であるアメリカ。その文学、特にその「人種」概念に動揺が見られた19世紀末のアメリカ文学を横目に見つつ、「人種」の非存在性に関する議論の現在地点を確認しながら、「多様性」礼賛という福音を地球上の隅々まで遍く行き渡らせることが至上命令と化した感のある現在の世界において、その非存在性についての議論がまるで人口に膾炙していない事実について、考える機会としたい。

 
 

分科会

 
 

近代散文

 

「あちら側」を旅する言葉

ハーマン・メルヴィル『マーディ』の実験的言語をめぐって

丸聡弘(日本大学)

 

<発表要旨>

 ハーマン・メルヴィルは、彼が1849年に発表した長編小説、『マーディ』の中で、「創作」というもののあり方について思索している。このことは、ロンバルドーなる詩人と彼の作品である『コツタンツァ』に関する、バッバランジャたちの会話から窺い知れる(第180章)。メルヴィル研究者らは、このロンバルドーと彼の作品についての会話を、メルヴィル自身による「創作」をめぐる内的な対話とみなしてきた。例えば、批評家のリチャード・H. ブロドヘッドは、『マーディ』の先駆的批評として名高い“Mardi: Creating the Creative” (1978)において、このバッバランジャらの会話に言及し、『マーディ』が「創作についての創作」である可能性を指摘している。
 本発表では、ロンバルドーとその作品に関して熱弁を振るう際のバッバランジャが、「創作」と「旅」という2つの行為を重ね合わせている点を念頭に置きつつ、メルヴィルがいかにして『マーディ』の正式タイトル(Mardi: And a Voyage Thither)における「あちら側」を提示しようとしているのかを議論する。『マーディ』に頻出する、どの言語に分類可能であるのかが判然とせず、また、その指示対象が何であるのかも明瞭ではないような「固有名詞」の数々が、『マーディ』における、「創作」あるいは「旅」の「あちら側」の成り立ちを興味深いものにしているのではないだろうか。

 

現代散文

 

レスリー・マーモン・シルコウ『儀式』における南西部と小説の時空間

井上博之(東京大学)

 

<発表要旨>

 『儀式』(Ceremony, 1977)の30周年記念版に添えられた序文でレスリー・マーモン・シルコウは作品の執筆当時を振り返り、自分の書いているものが小説(novel)であるのかどうかがよく分からなかったと繰り返し述べている。実際、第二次世界大戦からの帰還兵タヨを中心人物とする小説とひとまず考えることのできるこのテクストは、まず一方で彼個人のトラウマからの回復の過程を共同体の回復の物語と重ねあわせる。同時に散文のテクストを南西部に暮らしてきた先住民の口承の物語と組みあわせ、重層的な物語空間を構築している。したがって複数の物語、複数の声が織りあげるテクストとしてこの小説を捉えることができる。本発表では小説中に繰り返しあらわれる網の目のイメージ、およびすべての瞬間が現在に収斂するという独特な時間・歴史観などを手がかりとして、シルコウの小説によって描かれる南西部の空間、そして関係性の網の目から形成される空間としての小説を考察するものである。

 

 

トークセッション「ポエトリーリーディングについて」

関根 路代(日本工業大学)

 

<発表要旨>

 ポエトリーリーディングにまつわる事例を紹介し、参加者によるトークセッションを行います。参加者による資料の持ち込みを歓迎いたします。

*詩分科会は事情により上記の企画に変更になりました。

 

演劇・表象

 

ヘンリー・ジェイムズにおける価値の逆説

松井一馬(中央学院大学)

 

<発表要旨>

 本発表ではヘンリー・ジェイムズ後期作品に見られる、「価値」を巡る言説を検討する。
 ジェイムズは芸術家を主人公に据えた作品を数多く発表しているが、これら「芸術家もの」の作品群は、家庭や社交といった世俗的な生活と芸術に献身する人生とを二項的に対置し、後者の優越を謳うものと伝統的に解され、ジェイムズ自身の芸術観を表していると受け止められてきた。
 しかし、ジェイムズ作品における「価値」の所在を考察すれば、この言わば世俗と芸術という対立図式の軸が巧みにずらされ曖昧化していることがわかる。と言うのも、ジェイムズ作品において物の価値はそれ自体に存するのではなく、それがどう提示されるかに拠っているからだ。例えば“The Real Thing”(1892)の語り手の、「ものが存在しているかどうかは二次的でほとんどいつも無益な問い」であり「実物よりも表現されたものを好む」との述懐には、芸術表現によってはじめて物の価値が創出されるという唯美主義的な考え方が窺える。
 と同時に、芸術表現そのものの価値もまた提示によって創出されるのである。“The Beldonald Holbein”(1901)の語り手は肖像画の依頼主を見て「やることはガラスケースの中の彼女を描くことだ…間にはさまれる輝くガラスと一般的なショウウィンドウの効果を最大限に描くのだ」と考える。この比喩からは、ガラスケースに保存されていることが価値の高いことと同義であるばかりでなく、ガラスをはさんだ展示そのものが価値を創出していることをも示唆している。ガラス、特にショウウィンドウが近代消費社会において一種のメディア装置として機能したことは、Rachel BowlbyやAnne Friedberg、西川純司らがすでに論じているが、ジェイムズ作品は、ガラスの向こう側にあって、もはや芸術的価値と市場的価値とに明確な区分が見いだせないことを示している。こうした諸作品を通じて、ジェイムズが大衆社会における価値のあり方をどのように描いているかを探っていく。