<2020年度9月例会のお知らせ>

〈2020年度9月例会のお知らせ〉

2020年9月26日(土)午後1時30分より
オンライン(Zoom・事前申込制)で開催いたします。
詳細は、9月16日頃、支部HPに記載しますのでぜひご確認ください。
URLはこちらです:http://www.tokyo-als.org/2020/09/2020september_meeting_online/
会員以外の方の参加も歓迎いたします。

 

研究発表

 
 

サンフランシスコ・ベイ・エリアからみたアメリカ詩

講師:原成吉(獨協大学)

司会:来馬哲平(青山学院大学)

 

 「アメリカン・ルネサンス」の100年後、アメリカ詩のルネサンスが起きた。この新しい詩の動きは、「サンフランシスコ・ルネサンス」あるいは「ビート・ムーヴメント」という名前で語られることもある。この2つは重なる部分もあるが、けして同じではない。アレン・ギンズバーグやジャック・ケルアックといった東海岸で生まれたビートが、西海岸のサンフランシスコにやって来たことで、ビート・ムーヴメントは誕生した。そのきっかけとなったのは、いまではレジェンドとなったシックス・ギャラリーでのポエトリー・リーディングである。ギンズバーグの詩「吠える」やケルアックの小説『ザ・ダルマ・バムズ』が生まれる背景には、ベイ・エリアの詩人たちのコミュニティがあった。ビート・ムーヴメントの触媒はここにあるといえる。ページに印刷された詩に、詩人の肉声を取りもどそうとするポエトリー・リーディング、東洋への関心、反権力、反物質主義、アンチ・アカデミーといったベイ・エリアの風土は、1960年代後半のカウンターカルチャーへと引き継がれてゆく。
 この発表では、50年代以降のベイ・エリアの詩が広く知られるようになった要因をたどる。サンフランシスコ・ルネサンスをリードしたケネス・レクスロス、シティ・ライツ書店や出版をとおして新たな伝統を創ってきたローレンス・ファーリンゲッティ、禅とバイオリージョナリズムを実践してきたゲーリー・スナイダー、「湾の山」タマルパエスを歌ったルー・ウエルチとジョアン・カイガーなど——この地域について書いた詩人たちの作品を紹介しながら、サンフランシスコ・ベイ・エリアの詩の一端をお伝えしたい。

 
 

分科会

 
 

近代散文

 

ジェイムズは西部になにを見たか

書かれなかったThe Sense of the Westが示すもの

松浦恵美(日本大学)

 

<発表要旨>

 1904年から1905年にかけて、約20年ぶりに故郷アメリカを訪れた際にHenry Jamesが目の当たりにしたのは、未曽有の経済発展により大きな変貌を遂げた故国の姿だった。1907年に出版された旅行記The American Sceneには、高層建築が立ち並び、かつて存在した建築物、文化、共同体が駆逐された、そして移民の集団によって埋め尽くされたニューヨークやボストンの姿が、驚きと当惑とともに記録されている。
 しかし、10カ月におよぶアメリカ滞在でジェイムズが訪れたのは彼にとってなじみ深い東部だけではなかった。実際、彼は南部、中西部、そして西部とくまなく合衆国を旅し、さらに初めて訪れた西部、特にカリフォルニアにおいては意外なほど好ましい印象を得ていたのである。生まれ育った東部とも、その後永住の地となったヨーロッパとも異なる西部について、ジェイムズはもう一冊の旅行記The Sense of the Westを書く構想を持っていた。しかし、この西部旅行記は結局実現せずに終わる。
 それにしても、いったい西部のなにが作家に単独の印象記を書こうと思わせるほど強い印象を与えたのか。ジェイムズが東部で目撃した、19世紀後半から20世紀初頭アメリカの圧倒的かつ破壊的な進歩とは別の可能性がそこにはあったのだろうか。そして、この西部印象記はなぜ書かれずに終わったのか。本発表では、The American Sceneにおける20世紀初頭の合衆国にたいするジェイムズのまなざしと、西部滞在時の資料からうかがわれるジェイムズが得た印象を検証する。さらに、20世紀初頭の西部、そしてカリフォルニアがアメリカの地理および歴史においてどのような意義を持つかを考察する。これらの考察をつうじて、ジェイムズが見た西部と、書かれなかった西部印象記が示すものを読み解いていきたい。

 

現代散文

 

聖なる花びら

『彼らの目は神を見ていた』における非科学としての性

石川千暁(大妻女子大学)

 

<発表要旨>

 米国において避妊具の郵送が法的に認められた1936年12月、黒人作家ゾラ・ニール・ハーストン(Zora Neale Hurston)は、滞在先のハイチにおいて代表作『彼らの目は神を見ていた』(Their Eyes Were Watching God, 1937)を書き上げた。主人公ジェイニー(Janie)は夫婦間の親密性を重視する友愛結婚の追求者として描かれており、モダンなエリート女性であったハーストンが、信頼できる避妊法が可能にした女性の自律性を歓迎していたことは疑い得ない。だが一方で、ジェイニーが性を神聖な領域に位置付けて謳歌する姿は、性科学に裏付けされた規範としての「正常」(normal)なアメリカ人像の範疇に収まるものではない。
 本発表では、自身の性的身体を花ざかりの梨の木に喩え、「花びらが開いている」(petal-open)ことを好しとするジェイニーを、マニュアル本や教科書を通して広まっていた性科学的言説に組しない人物として読んでいく。黒人社会の伝統的リスペクタビリティを嫌う彼女の奔放さは、女性のニーズを認知した友愛結婚のイデオロギーと重なりながらも、人智を超えた領域を見据えるスピリチュアリティにおいて大胆に逸脱している。発表の前半ではそうした性/生の表象が、ハーストンが本作執筆の3ヶ月前まで滞在していたジャマイカで目撃した古来の慣習に影響を受けている可能性について検討する。その上で夫ティーケイク(Tea Cake)の死とその後の裁判に注目し、黒人の愛の正当性を決定する白人男性の権威と、根拠とされる科学的態度そのものへの違和感を読み取る。以上を通して、『神を見ていた』というおよそ非科学的なタイトルを掲げる本作が、性の近代化の現実と関わりつつ超越しようとする様をつまびらかにしたい。

 

 

ディキンスンとクルーソーの「旅」

ホランド夫人への書簡を読む

吉田要(日本工業大学)

 

<発表要旨>

 エミリィ・デイキンスンは生涯を通じて多くの手紙を書いた。その中でも現存する中で2番目に多くの手紙を出したのがElizabeth Hollandである。7歳年上のホランド夫人を“sister”と呼んで敬愛していたディキンスンは、夫人の夫Josiah Hollandの体力が衰えてきていた1881年に、“My pathetic Crusoe”という一文が入った手紙を送っている。『ロビンソン・クルーソー』の主人公クルーソーを念頭に置きながら書いたこの文句は、彼女が『ロビンソン・クルーソー』をいかに受容し、「クルーソー」の名前を持ち出すことによっていかなる意図を伝えようとしたのかについて興味深いヒントを与えてくれる。
 本発表は、この手紙文を切り口にして、ディキンスンが晩年期にホランド夫人と交わした書簡に注目する。残念ながらホランド夫人がディキンスンに宛てた手紙は残っていないが、ディキンスンが夫人に出した手紙の文面を頼りにして往復書簡の解読を試みる。“My pathetic Crusoe”という言葉が使われている手紙をはじめとして、この手紙と前後して出された書簡も精査し、ディキンスンがなぜクルーソーを憐れんでいるのかを読み取り、ホランド夫人に向けたメッセージを見極めたい。Josiah Hollandがこの世を去った後までの書簡を辿ることで、ディキンスンの「死」に対する認識の一側面を浮かび上がらせたい。

 

演劇・表象

 

「内面」の文化政治

Lionel Trillingと冷戦期プリントカルチャー

山根亮一(東京工業大学)

 

<発表要旨>

 Lionel Trillingは冷戦期アメリカ文学批評史において代表的かつ特異な存在だ。冷戦が終わる頃、Donald E. PeaseとFrederick CrewsのあいだでNew Americanismについての論争が繰り広げられた際に、1950年に出版されたTrillingの代表的批評集Liberal Imaginationが想起され議論の対象になった。その文化と政治を分断する批評姿勢を指摘するとき、PeaseはTrillingが第二世界大戦後に再定義したリベラルの想像力をイデオロギー的だと非難し、冷戦期的な審美主義と自らの新しい批評アプローチとを区別した。だがこのとき、彼をイデオロギー信奉者と呼んだ者の中には新批評家John Crowe RansomもいたことをPeaseはどれだけ意識していただろうか。視点によってリベラルにも保守にも回収され得る不確かで重要なTrilling像は、より新しいアプローチと再解釈を要求する。
 2011年にWhy Trilling Mattersを上梓したAdam Kirschは、Lionel Trillingに対する様々な批判に応答しているが、Peaseが示したような文化冷戦史におけるこの批評家の立場を掘り下げていない。それから現在に至るまで、Giles Scott-Smithが編集した論集Campaigning Culture and the Global Cold War (2017年)を含め、プリントカルチャー論がこの研究領域を実証主義的に洗練させてきた。ところが、彼の代表的著作が雑誌への寄稿文の集積であったにもかかわらず、マガジニストとしてのトリリング像についてはこれまで深く議論されてこなかった。
 プリントカルチャー論を視座とすることで、文化冷戦期におけるTrillingの立場を雑誌媒体における彼と他の論客、編集者との衝突や融和を含む様々な関係性を踏まえて再考することが可能になる。本発表はまずムッソリーニに心酔したEzra PoundがBollingen Prizeを受賞したときのPartisan Review等におけるTrillingの執筆活動、次にPoundを慕うJames Laughlinがフォード財団の支援を受けて出版したPerspectives U.S.A.のゲスト編集者になったときのTrillingの仕事に焦点を当てながら、彼と彼の著作が雑誌面上で、あるいはそれを介してどのような隣接関係を持ち、それが文化冷戦の文脈においてどのような文化的・政治的意義を持つのかを考察する。