〈2023年3月例会のお知らせ〉

〈 3月例会のお知らせ 〉

3月25日(土)1時半より

慶應義塾大学三田キャンパス 南校舎435教室

*状況によりオンラインに変更する可能性がございます。
その際は支部HPでお知らせいたしますので、
事前にご確認くださいますようお願い申し上げます。

 

研究発表

 
 

アメリカ文学・文化における危機の感覚と物語のかたち

講師:ハーン小路恭子(専修大学)

司会:新田啓子(立教大学)

 

 今回の発表では、3月17日発売の単著『アメリカン・クライシス 危機の時代の物語のかたち』の内容に即して、20世紀以降のアメリカ文学や文化における物語のかたち(形式やジャンル、物語の型や文彩のパターン)が、同時代の危機の感覚とどのようにかかわっているかを考察する。文学作品から映画、ミュージック・ビデオまで、現代アメリカの文化的テクストを題材として、ある特定の表現形式を、それが生み出された時代の多様なレベルでの社会的危機に対する応答としてとらえ、それぞれの作り手が危機の時代を描き出すうえで、なぜ、またどのように、特定の物語のかたちを選択するのかについて考えてみたい。
 本発表ではまず情動理論や南部研究、環境人文学におけるナラティヴィティへの関心など、考察の基礎をなす理論的枠組みについて確認したのちに、ケーススタディとして、ビヨンセのヴィジュアル・アルバム『レモネード』(Lemonade, 2016)、カーソン・マッカラーズやジェズミン・ウォード、ディーリア・オーウェンズらの文学作品、アニメーション映画『ヒックとドラゴン』(How to Train Your Dragon, 2010)、ホラー映画『キャンディマン』(Candyman, 1992, 2021)などをとり上げる。

 
 

分科会

 
 

近代散文

 

ベジタル・セクシュアリティ

The House of the Seven Gables における植物表象

小椋道晃(明治学院大学)

 

<発表要旨>

 Ralph Waldo EmersonがNature (1836)で記した“an occult relation between man and the vegetable”や、Henry David Thoreauが日記に綴った“a perfect analogy between the life of the human being and that of the vegetable” (Journal, May 20th, 1851)という一節などに窺えるように、19世紀中葉の作家たちは、人間と植物の間にあるアナロジカルな関係に意識的であった。本発表では、そのような人間と植物の関係性について、Nathaniel HawthorneのThe House of the Seven Gables (1851)を取り上げることで、ホーソーンの植物への関心、ひいては人間と植物のアナロジーに対する作家の意識が作品にいかに深く浸透しているかを考察する。
 『七破風の屋敷』における植物表象については、その象徴性を分析する研究や、同時代の園芸文化との関わりを通して文化史的に解き明かす論考など、これまでもさまざまな関心を向けられてきた。しかしながら、植物とセクシュアリティの観点から本作を読み解く試みはいまだ十分になされていないように思われる。たとえば、クリフォードは作中で“the vegetative character”を有する存在として描かれるが、彼の花に対する過剰な愛着はきわめて官能的な刺激として描出されている。このような花や植物をめぐる審美的な喜びにエロティックな性質を付与するホーソーンの意図とはどのようなものだろうか。同時代の花や植物をめぐるさまざまな言説を踏まえながら、フィービーとホルグレイヴとのいささか唐突な異性愛結婚というプロットの背後に蠢く植物的セクシュアリティの諸相を検討する。

 

現代散文

 

世界との不調和

芸術家小説としてのBlack Boy (American Hunger )

白木三慶(城西大学・非)

 

<発表要旨>

 Richard Wrightは自伝的小説Black Boy (1945) に関するエッセイにおいて、影響を受けた作品としてJames JoyceのA Portrait of the Artist as a Young Man (1916) を挙げている。Wrightはこの作品に描かれている、イギリス支配下のアイルランドにおいて抑圧的な宗教生活に抗う若いアイルランド人の「二重の抵抗(double revolt)」に言及し、その「二重の抵抗」が白人によって搾取されているアメリカ南部の黒人の息苦しい環境を想起させたという趣旨の発言をしている。Self Impression (2010) においてMax Saundersは、芸術家の成長を描く「芸術家小説(Künstlerroman)」という形式がJoyceの小説を含めた20世紀前半の重要な作品を生み出したと指摘している。Black Boy (American Hunger)(Black Boy が1945年に出版された際に削除されていた箇所を含む、Library of Americaが1991年に出版した完全版)は、A Portrait of the Artist as a Young Manと同様に作家として成長する過程を自伝的に描いている。Adrian WeissやJohn O. Hodgesなどの研究者が既にBlack Boyにおける芸術家小説の側面を検討しているが、本発表は近年の芸術家小説研究(特に、芸術家小説を包摂するより大きいカテゴリーであるビルドゥングスロマンの研究)を参照し、インタヴューでWrightが言及していた「二重の抵抗」に注目しつつ、共同体の中の個人という観点からBlack Boy (American Hunger )における芸術家小説としての側面を分析する。

 

 

自然と人間

Sylvia Plathの詩における植物

田中美和(日本女子大学・非)

 

<発表要旨>

 「告白詩人」と呼ばれるように、Sylvia Plathの作品には、自伝的な内容のものが多い。中でも、“The Colossus”や“Daddy” といった作品では、8歳の時に亡くなった父親、Otto Plathを彷彿とさせる存在が登場し、その影響力の大きさを窺うことができる。1959年に書かれた詩、“The Colossus”では、倒壊したロードス島の巨像と、亡くなった父親を重ね合わせ、シルヴィア・プラス自身と思われる語り手が、終わることのない修繕作業を行なっている。語り手は恐らく、巨像がある島で生活し、他の誰とも関わることなく、そしてそこから出ていくことにも関心がないようである。つまり語り手にとって、そこは全世界であり、巨像も含め、「自然」そのものと言えるのではないだろうか。そして、他の詩にも見られるように、その「自然」とのコミュニケーションにおいて、彼女は生涯、困難を抱え続けていた。話したくても話せない「自然」、圧倒的で脅威的な他者としての「自然」である。しかし、1963年2月5日に最後の詩、“Edge”を書くに至るまでに、プラスにとっての「自然」観は変わっていく。その過程と原因を読み解く手がかりとして、晩年の詩における植物の描写に注目したい。それにより、プラスの作品における「自然」と「人間」について考察していく。

 

演劇・表象

 

中期オニール劇の舞台における象徴性

The Emperor Jones を中心に

大野久美(創価大学)

 

<発表要旨>

 オニール作品は1920年代から大きく展開を見せ始めた。これはドイツ表現派の影響と彼の実験意欲とによる。彼の実験的な代表作と言えば1920年11月、Playwrights’ Theatreで初演された The Emperor Jonesである。
 主人公の黒人Brutus Jonesのモノローグが中心となって展開し、恐怖に駆られる彼の内面世界が表現されている。森の中で次第に追い詰められてゆくJonesの意識の流れが描かれる。恐怖が増大する森の中での舞台照明は暗闇の壁へと変化していく。彼の恐怖感とともに暗さが増してくるライティングの使い方は表現主義における照明技法を取り入れたものと考えられる。
 第1場はJonesの宮殿の謁見の間から始まる。この舞台設定は「白」が目立っている。舞台設定の中での「白」によって何かを観客にイメージさせることを目的としている。この作品の最初のタイトルはThe Silver Bulletであった。Silverから白色が連想され、黒人ゆえに抱く白人への葛藤が見られる。第2場から第7場まではジャングルが舞台である。前半の第2場、3場、4場はJones個人が過去に犯した罪に関わる個人的無意識層を表し、後半の第5場、6場、7場は過去の民族の歴史を表す。後半は集合的無意識層と言える場面で、オニール独自の表現主義的技法である。
 本発表ではアメリカで有名なThe Limon Dance Companyが上演した The Emperor Jonesの映像を鑑賞しつつ、議論を進める。演劇のThe Emperor Jonesもモダンダンスの The Emperor Jonesも、オニールの戯曲を共通のテクストとする。必ずしも演劇と同じようには扱われないが、舞踊表現としたほうがこの作品中の象徴性をより正確に伝えることができる場面もある。これらのことも踏まえて The Emperor Jonesにおける表現主義を検討したい。