〈2023年5月例会のお知らせ〉

〈 5月例会のお知らせ 〉

5月6日(土)1時半より

慶應義塾大学三田キャンパス 南校舎445教室

*状況によりオンラインに変更する可能性がございます。
その際は支部HPでお知らせいたしますので、
事前にご確認くださいますようお願い申し上げます。

 

研究発表

 
 

散文の限界を突破する

ヘミングウェイの前衛と近代的世界観

 

 講師:小笠原 亜衣(関西学院大学)

 司会:舌津 智之(立教大学)

 

 アメリカ中西部、シカゴ郊外の保守的な白人中産階級の街オークパークで1899年に生まれ育ったヘミングウェイがパリ前衛の衝撃のなかに飛び込んだのは1921年、若干22歳の時だった。世界の首都、芸術家のメッカ。そこで若きヘミングウェイは作家修業を行い、作家デビューを果たした。まわりにいたのは二〇世紀西欧芸術界に燦然と光る巨匠たち――巨人ピカソ、マティス、ミロ、グリス、マッソン、マン・レイほか多くの視覚芸術家。足繁く通った美術館で空腹を抱えながら観たのはセザンヌの絵画。そしてヘミングウェイが師と仰いだのは、これら近代芸術の価値をいち早く見抜いた米近代作家ガートルード・スタインだった。
 パリ時代がなければおそらくもっと凡庸な米作家であったはずのヘミングウェイ。本発表ではその散文が生涯にわたって映し出した近代性を、作家キャリア最初期のヘミングウェイの散文実験から確認したい。ヘミングウェイは絵画や映画がもつ芸術的効果を散文で実現しようと、いわば散文の限界を突破しようと試みた。その試みを通して彼が示した世界理解――部分と瞬間への傾倒/捉えられない空間/不条理/身体への信頼――に鋭く「近代性」が表出していることを、短編集『われらの時代に』(1925)を中心に確認したい。

 
 

分科会

 
 

近代散文

 

McTeague における金銭と所有

岩見貴之(東京大学・院)

 

<発表要旨>

 本発表ではフランク・ノリスのMcTeague (1899)の金銭表象の考察を通じて、作品に現れるノリスの詩学を検討する。金銭や資本に人が強く規定される悲劇というテーマはVandover and the Brute (1914)から「小麦の叙事詩」に至るまで一貫してノリスが追い続けてきたものである。McTeagueにおいてもまた、宝くじでトリーナが手にする5,000ドルを中心に、黄金の皿や金歯の看板などがさまざまな局面で象徴的に扱われ、各キャラクターを拘束している。
 トリーナとザーコフを顕著な例として、登場人物の多くが金銭を使用するためではなく、所有すること自体を欲望している点が本作では特徴的である。その点をWalter Benn Michaelsをはじめとする先行研究を参照しつつ検討し、夢想されつつも、使用することができない金銭が小説内で働く力学を反映していることを明らかにする。
 上記にくわえて、作品がロマンスとして描かれたことにも注意を払いたい。エッセイ“Zola as a Romantic Writer”や “A Plea for Romantic Fiction”に見られるように、ノリスは日常生活を描写するリアリズムに抗して、ロマンスを描くことで真実を追求した。象徴が多用され、劇画的に描写されるMcTeagueは、ノリスのその特徴を色濃く反映している。一方で、発表当時は本作を芸術的な作品とみなさない批評も多く、また次作 The Octopus (1901)でヴァナミーやプレスリーにおいて描かれるような詩的な感覚を欠いているようにもみえる。そのような一見するとマイナスとも思える描き方、つまり細やかな背景や因果関係を描こうとするリアリズムではない形式をどのようにノリスが志向したのかについても、金銭の問題と絡めながら考察する。それにより、McTeagueの金銭表象からみたノリスの詩学の特徴を考えたい。

 

現代散文

 

オブライエンの戦場とホーム

『恋するトムキャット』における愛の修辞学

渡邉真理子(専修大学)

 

<発表要旨>

 ティム・オブライエン(Tim O’Brien, 1946- )の七冊目にあたる『恋するトムキャット』(Tomcat in Love, 1998)は、初期の習作時代に書かれた『北極光』(Northern Lights, 1975)と並んで日本では未訳であるだけでなく、学術的に論じられることの少ない作品である。最高傑作と名高い連作短篇『かれらが運んだもの』(The Things They Carried, 1990)の成功のあと、『ウッズ湖にて』(In the Lake of the Woods, 1994)でポスト・ベトナム表象の新境地を開いた「90年代のオブライエン」の着地点となるこの小説は、戦場からもっとも遠い物語であるため研究史では周縁的な位置づけである。「生まれながらの嘘つき」を自認する言語学者トマス (Thomas Henry Chippering)は、自分を捨てた元妻ローナ・スー(Lorna Sue Zylstra)への幼少期からの絶対的な愛を語りながら復讐心を燃やす一方で、「戦争の英雄」を自称し女性を口説いては「愛の台帳」と名づけた手帳にデータとして記録する「女たらし」である。信頼できない語り手による「メモワール」という設定をもつこの小説が作家唯一のコメディとして90年代のキャリアを締めくくる点については、戦争作家が舞台を戦場から家庭空間へと移し、男女間の戦争という新たなテーマに取り組んだという一定の理解が共有されている。ただ、そうするとミソジニーを理由に低い評価を与えられるほかない。しかし、この小説がそれまでの作品群で共通して書かれてきた問題を大衆的なコメディの型に落とし込んだセルフ・パロディとして読むと、道徳的教訓となる物語を書かないことを信条とする小説家を捉えるために重要なのは、むしろその露悪的な人物造型であるといえるのではないか。故郷ミネソタから出発してフロリダとの往復を繰り返した後にカリブの島に落ち着く「南」への移動も、作家がキャリアの初期から描いてきたホームの呪縛する「愛」の力が「北」の方角と結びついてきたことと対照をなす。上記の観点から作品の評価を試みたい。

 

 

ジョージ・オッペンの「建築」

鷲尾郁(明治大学・非)

 

<発表要旨>

 20世紀前半に登場したObjectivistsと呼ばれた詩人たちの作品はそれぞれ独自かつ多様であるが、あえて共通項を挙げるならば、Ezra Poundらが唱えたImagismの原則のひとつ、“Direct treatment of the ‘thing’”を展開、深化させることで自身の詩作を確立していった点であろう。(“thing”という語の受けとめ方に大きな幅はあったにせよ。)
 本発表ではその代表的詩人であるGeorge Oppen(1908-1984)の「言葉の建築術」を検討してみたい。第一詩集Discrete Series (1934)に序文を寄せたパウンドは彼を“a serious craftsman”と評したが、断片性、物質性を活かした言葉のコラージュの合間に碑銘のように凝縮した思考が自在に入り混じるオッペン作品の特徴はこの出発点の時点ですでに見受けられる。きわめて実験的にも映るこれらの作品群は、人間が身体を通して物の存在する外界を直に経験し知る、その“empirical”な知を体現する詩形として生み出されたものであった。また同時にオッペンにとっては、時の経過のなかで存在する物の世界は人々の“common experience”の土台となるべきだとする「倫理的」とも言える信念があった。(こうした要請がのちに彼を現実の社会運動に没入させ、長期にわたって詩作から遠ざけることにもなる。)
 第一詩集をはじめ、「詩への復帰」後のThe Materials (1962)、This in Which (1965)に見られるイメージからオッペンの詩法の特徴を浮かび上がらせたいと考えている。また可能であれば、代表作Of Being Numerous (1968)にも言及し、“common experience”の追求に伴い浮上してきたと思われる問題群にも論を進めてみたい。

 

演劇・表象

 

現代アメリカ文学における遊園地の表象

George Saundersを中心に

坪野圭介(和洋女子大学)

 

<発表要旨>

  19世紀末にコニーアイランドの3つの遊園地が開業して以来、アメリカ合衆国において遊園地はほぼつねに大衆文化の中心に位置してきた。20世紀後半以降、ディズニーランドをはじめとするいっそう現代的なテーマパークが隆盛する一方、昔ながらの遊園地もアメリカ文化の重要なアイコンであり続けている。2014年にコニーアイランドを主題とするフィクション/ノンフィクションのアンソロジーA Coney Island Reader: Through Dizzy Gates of Illusionが出版され、2015年にはブルックリン・ミュージアムでコニーアイランドの歴史を回顧する大規模な展示 “Coney Island: Visions of an American Dreamland, 1861–2008” が開催されるなど、近年、遊園地の意義を歴史的に再検討する動きが活発化している。アメリカ文学において、George SaundersやKaren Russell、Nana Kwame Adjei-Brenyah など、多くの現代作家が遊園地/テーマパークを設定に利用した作品を発表していることも、そのような流れと無関係ではないはずである。これらの作品のなかで、遊園地はしばしば現実と虚構を仲立ちしつつ、労働やジェンダー・人種などに関わる社会問題を増幅させて表象する鏡として機能している。本発表では、デビュー作である中短編集Civilwarland in Bad Decline (1996)から最新の短編集 Liberation Day: Stories (2022)まで、くりかえし遊園地を作中に描いてきたソーンダーズを中心に複数の作家を取り上げながら、遊園地が物語においてどのような役割を果たし、その空間がどのようにアメリカ社会を映し出しているのかを考察したい。