〈2023年11月例会のお知らせ〉

〈11月例会のお知らせ〉

11月18日(土)午後1時半より

慶應義塾大学三田キャンパス 南校舎445教室

*状況によりオンラインに変更する可能性がございます。
その際は支部HPでお知らせいたしますので、
事前にご確認くださいますようお願い申し上げます。

    

研究発表

 
 

West Side Story (2021)はなぜオスカーを一つしか獲れなかったか

フィクション論からのアプローチ

 

 講師:日比野啓(成蹊大学) 

 司会:桐山大介(学習院大学)

 

 演劇では古来、様式化の進んだジャンルのほうが格式が高いことになっていた。能狂言しかり、オペラしかり。演劇におけるリアリズムの導入は卑俗化と同義だった。それでもアメリカン・ミュージカルがリアリズムを導入したのは、それが移民や新中間層にも理解できるわかりやすさを必要としていたからだ。これに対して、小説におけるリアリズムの導入はもっと複雑な経路を辿る。一方でそれは韻文からの頽落を意味し、ようやく字が読めるダイムノベルの読者に下劣な刺激を与えた。他方でそれは日常生活と内面の精緻な描写こそ教養ある読者が求めるものだとした。やっかいなことに、近代劇以降の台詞劇も小説の影響を受けて、よりリアルであればよりすぐれた戯曲/上演だということになった。
 ところで、分析哲学を土台とするフィクション論は、なぜリアリズムがより高尚な表現とされる(ことがある)のか、説明しない。Waltonは「鑑賞者のごっこ遊びが豊かで生き生きしていること」が写実性の概念(の一つ)だと語る一方で、空想的な虚構においても虚構として成り立つ別の写実性があると主張する。この二種類の写実性にWaltonは優劣の区別を与えていないようであるし、West Side Story(1957/1961)以上に豊かで生き生きしたごっこ遊びが楽しめると思われるWest Side Story (2021)がそれほど評価されなかったことはこのままでは説明できない。
 本発表ではいくつかのフィクション論に伏流する「受け手との共同作業」としてのごっこ遊びという一面を強調することで、監督 Spielbergと脚本家 Kushner の追求したリアリズムが、観客から想像の余地を奪い、観客がごっこ遊びに参加しづらくなってしまったと論じる。Spielbergと撮影監督Kaminskiが作る映像がしばしばbreathtakingという形容詞で評されることはこの意味で示唆的だ。それはbreathを奪うゆえに、観客は呼吸困難を覚える。「作家というものは「間抜け」の中で生きている」と書きつけた時、太宰治はもしかするとフィクション論の要諦を述べていたのかもしれない。

 
 

分科会

 
 

近代散文

 

エマソンとボルヘスにおける「書物」について

一瀬厚一(日本工業大学)

 

<発表要旨>

 20世紀アルゼンチンの作家であるホルヘ・ルイス・ボルヘスは、アメリカン・ルネサンスの作家たちに対してかなり好意的であり、ホーソーンやホイットマンに関するエッセイをいくつか書いている。またジェイムズ・ウッダルによると、ボルヘスはとりわけホイットマンを好み、青年期からホイットマンがボルヘスの文学に影響を与えたことを指摘している。その一方でホイットマンに影響を与えたエマソンとボルヘスの関係について、ウッダルは言及していない。確かに、ボルヘスはホーソーンやホイットマンの場合のようにエマソンに関するエッセイを書いていない。しかしながらボルヘスは “Emerson” という詩を書き、晩年に行ったオスバルド・フェラーリとの対談においても度々エマソンについて言及し、その際、ホイットマンやポーと同等かそれ以上にエマソンを評価しているのである。このような関係性からエマソンのボルヘスに対する少なからぬ影響が窺える。
 そこで、本発表では両者における「書物」に焦点を当てる。ボルヘスは「バベルの図書館」や「カフカとその先駆者たち」といった作品でも書物について論じており、ボルヘスにとって書物は重要なテーマである。「コウルリッジの花」においては、エマソンの「唯名論者と実在論者」の一節を引用し、書物は観念的存在としての紳士によって書かれ、作家は言わばその書物の編集者であると位置づける。またベルグラーノ大学での講演で書物に関して論じたが、そこでもエマソンを度々論拠としている。エマソンも、ボルヘスが引用した「唯名論者と実在論者」だけでなく『代表的人間像』などにおいても書物について論じており、両者ともに「書物」に強い関心を抱いている。そこで、ボルヘスの視点を援用しつつ、エマソンが書物をどのように考えていたのか、そしてエマソンがボルヘスの書物観にどのような影響を与えたのかを考察したい。

 

現代散文

 

硝子瓶の脳

カレン・テイ・ヤマシタLetters to Memoryにおける蒐集と記憶

松村美里(慶應義塾大学・院)

 

<発表要旨>

 日系三世のアメリカ人作家カレン・テイ・ヤマシタが2017年に発表したLetters to Memoryは、戦時中から戦後までヤマシタ家の人々が交わした手紙や資料のアーカイヴをもとに、日系アメリカ人の強制収容という歴史のトラウマを物語る作品である。本作が興味深いのは、カフェで講義の準備をしているホメロスといったように、過去に実在した人物が同時に現在を生きる虚構としてもあらわれてくる点だ。五人の人物への手紙という形式をとる本作の第二章“Letters to Modernity”は「イシ」という架空の文化人類学者に宛てられている。実在したイシはヤヒ・インディアンの最後の一人であり、1916年に亡くなった際にその脳は取り出され、1990年代に至るまでスミソニアン博物館に保管されていた。
 手紙のタイトルにある近代(Modernity)とは、人間の主体性をはぎ取り、客体(object)として一望的なシステムの内に収めていく、博物館的な意識であると考えるとき、蒐集されたイシの脳が表象するのは、あらゆるものを視覚化し、分類し、構造化しようとする近代西洋の蒐集のイデオロギーであると言えるだろう。ヤマシタが直接体験していない日系収容の記憶を拾い上げようとする本書全体の試みにも、その視線は避けがたく忍び込む。人間は言葉にし、記録しなければ記憶を失っていく。しかし、名づけ、分類し、体系化する視線は、支配や抑圧のまなざしに重なる視座でもある。
 では、私たちは歴史の中でおよそ「人間」とみなされず、排除され、「物」(object)とされ、主体的に語る声を奪われた人たちの声をどのように想起し、関わり、応答することができるのだろうか? そこにはrepresentation(表象/再現、代弁/代表)の問題がある。本発表ではLetters to Memoryの中で描かれる、捨てられ、忘れ去られた「物」たちの表象に注目する。ヤマシタがどのようにしてこの表象の暴力を乗り越え、新しい歴史の語りを開こうとしているのか、本作の手紙という形式とポスト・ヒューマンの実験的な想像力を軸に検証する。

 

 

山火事と生態学的規範

Turtle Island にみる環境的想像力

戸張雅登(モンタナ大学・非)

 

<発表要旨>

 Gary Snyderの詩集Turtle Island (1974)では、山里勝己によれば生態地域主義(bioregionalism) に基づいた北米大陸への再定住がうたわれている。人間は生命共同体の一員でありながらも、生態系の多様性や持続可能性に対して責任を持つ存在であるという。本発表では、同詩集における人間と森林の関係について、火災管理の観点から考察する。スナイダーはワシントン州で火の見番をした経験やシエラネバタ山麓に住んできた経験から、山火事を生態系維持の観点から捉え直し、大規模な山火事を防ぐため、皆伐や火災抑制に反対し、藪焼きを唱えてきた。
 “Affluence”では伐採後に焼かれなかった切り枝等が山火事のリスクを高めていると指摘する。“Control Burn”はエッセイ集Back on the Fire(2007)に再録されており、山火事に適応した生態系に向けて、先住民が行なってきた火入れに焦点が当てられている。高橋綾子によれば火は森林にエネルギーを循環させる生態学的規範(ecological imperative)であり、自然の道に従って生きることを示しているという。火災管理をする主体でありながらも、人間を含む生命共同体から語ろうとするスナイダーにはAldo Leopoldの「土地倫理」(land ethic)や禅僧、道元の説く「大地有情同時成道」の影響が見られる。
 エッセイ集The Practice of the Wild (1990)の“Ancient Forests of the Far West”において、森林は人間の管理を受ける資源としてではなく、樹齢の多様性を包含した共同体として語られ、スナイダーは古木から若木への継承に着目している。森林生態学者Suzanne SimardがFinding the Mother Tree(2021)で語る、古い巨木「母なる木」から稚樹へと流れるエネルギーをそこに見てとることができる。
 精緻な観察に基づく環境的想像力により、森林を家族とみなすスナイダーはTurtle Islandで家族を中心に据えている。「亀の島」の形成と、そこでの人間の営みをdeep timeの視点から息子に語る“What Happened Here Before”と、続く“Toward Climax”では人間が火を用いてきた歴史が語られ、“The Bath”でスナイダーは息子のために湯を沸かす。火は人間と自然の垣根を越えて野性を呼び起こし、親子間の継承を照らし出す。

 

演劇・表象

 

劇的主体の変容 

Tony KushnerのAngels in AmericaHomebody/Kabul

外岡尚美(青山学院大学)

 

<発表要旨>

 社会の、そして人間の他者に対する倫理的応答責任とその破綻は、Tony Kushnerが一貫して描いてきた主題である。1980年代後半を舞台にAIDS危機の時代を描き20世紀アメリカ演劇を代表する大作Angels in America: A Gay Fantasia on National Themes, Part One: Millennium Approaches(初演1991)およびPart Two: Perestroika (初演1992)は、アメリカの民主主義とリベラリズムにおける倫理の破綻を描いた。ロンドンとアフガニスタンを舞台に同時多発テロを予見したかに見えるHomebody/Kabul (初演2001)は、西欧諸国の紛争国に対する応答責任の破綻を描く。前者においては倫理の破綻に対して、弱者の側の連帯と戦う市民としての主体化が提示されるのに対して、後者においてはいわゆる強者の側にいるはずの西洋の主体が溶解する。
 本発表においては、Angels in Americaの提示する連帯と市民としての主体化という政治的ヴィジョンと倫理的応答責任の破綻との関係を検討しつつ、KushnerがHomebody/Kabulにおいて特異な主体生成のプロセスを描き出すことによって、前者の政治的ヴィジョンの限界を超える倫理的可能性を提示する試みを論ずる。