〈3月例会のお知らせ〉

〈 3月例会のお知らせ 〉

3月22日(土)1時半より

慶應義塾大学三田キャンパス 南校舎445教室

*状況によりオンラインに変更する可能性がございます。
その際は支部HPでお知らせいたしますので、
事前にご確認くださいますようお願い申し上げます。

 

研究発表

 
 

“The poor sons of bitches”

スノープス三部作・再考

 講師:中野 学而(中央大学)

 司会:山本 裕子(千葉大学)

 

 ウィリアム・フォークナーのスノープス三部作(『村』『町』『館』)は、世紀転換期の合衆国南部の貧農の身分から様々な奸策を弄して町の名士にまで上り詰めた主役(悪役)のフレム・スノープスが、フレムに裏切られたことにまつわる積年の恨みを募らせたいとこのミンク・スノープスによって拳銃で殺される『館』の最終シーンでクライマックスを迎える。ただ、不思議なことに、ここでフレムはなぜかミンクに拳銃を向けられても一切動じることもなく彼の銃弾を受け入れて死んでいくし、復讐の現場を逃れたミンクはミンクで、やはり非常に穏やかに(おそらくは)死を迎えている。
 この不可解な展開の中でフレムが何を考えていたのか、作品の中では一切語られていないため、これまでは本格的な考察の対象とされてきていない。しかし本発表では、フレムの父である一族の始祖アブ・スノープスという人物の再考を通して、最後の瞬間を含めたフレムの内面に可能な限り迫ってみたい。南北戦争前後を描いた『征服されざる人びと』「私の祖母ミラードとベッドフォード・フォレスト将軍とハリキン・クリークの戦い」などの作品群では無節操な日和見主義者として、また「その後」を描いた傑作短編「納屋を焼く」では巨大な怒りを抱えた放火魔として描かれるアブは、「さらなるその後」を描くスノープス三部作では『村』の冒頭を除いてすっかり影を潜めているのだが、南北戦争前後を描いた上記の作品群で主に描かれるアブとサートリス家との関係の再検討を軸に、「納屋を焼く」と『村』の冒頭部に描き出されたアブの破壊的な行動の背景についてのこれまでの解釈に修正を加えることで、それがフレムの人物像、あるいは最後のミンクの穏やかな死の意味、ひいてはフォークナーが34年もの長い時間を費やして同一テーマで書き継いだ極めて特異な作品群としての三部作全体の持つ意味の再解釈にまでつながる可能性を考えてみたいと思う。

 
 

分科会

 
 

近代散文

 

かすかな痕跡の同封

Herman Melvilleの海上/海外表象におけるトレーサビリティ

田浦紘一朗(実践女子大学・非)

 

<発表要旨>

 ハーマン・メルヴィルの短編作品「コケコッコー!」(1853)は、超絶主義へのアイロニーや、産業化が進むアメリカ社会に対する作者のまなざしといったドメスティックな観点から論じられることが多かった。本発表では、そのような読みの文脈を汲みつつ、1848年にヨーロッパ各地で巻き起こった革命の嵐と、ウィーン体制の崩壊という歴史と結びつけて本作を読解する。アメリカの農村部で響いた雄鶏の鳴き声の追跡を本筋とする「コケコッコー!」の物語には、アメリカ国家の外部を連想させる比喩や形容詞がぎこちなく織り込まれている。19世紀を通し、アメリカは独自の思想や文学の開拓に励み、外交的には孤立主義を掲げていたが、本作の国外的な表象には、「資本の時代」とも呼ばれる激動の世紀の中で、国民文学の形式に描くことが困難なものをどうにか小説世界に繋ぎ止めようとするメルヴィルの創作的態度が見受けられる。この態度を、知覚困難な世界に対して「かすかな痕跡」としての読解可能性を与えようとするメルヴィルの作家性として特徴づけた上で、海外を舞台とした長編作品や、運航する船の中で執筆された手紙など、メルヴィルのいくつかのテクストに、そのかすかな痕跡への感受性を見いだしてみたい。

 

現代散文

 

Truman Capoteによる事実の取捨選択

ノンフィクション・ノヴェルIn Cold Blood再考

藤倉ひとみ(創価大学)

 

<発表要旨>

 Truman CapoteのIn Cold Blood (1966)は出版以前より周囲の期待は高く、発表するやいなや称賛を浴び、Capoteが望んだ“文筆家としての名声”を獲得するに至った作品となった。In Cold Bloodは「物語風ドキュメンタリー」や「ノンフィクション・ノヴェル」といった文学ジャンルに位置づけられる。Capoteはノンフィクション・ノヴェルという手法を新しい真面目な文学形式と捉え、後のインタビューで、「In Cold Bloodを書こうと思ったのは「ノンフィクション・ノヴェル」を書きたかったからなんだ――つまり、「小説のように読まれはするが、その中の言葉はすべて全く事実であるような本だ」と述べている。In Cold Bloodでノンフィクション・ノヴェルを確立するに至るまで、40~50年代はフィクション作品と並行してノンフィクション(紀行文や人物スケッチ、ルポルタージュなど)の執筆も精力的に行い、この分野に挑戦しようとしていたことがうかがえる。
 Capoteのノンフィクション・ノヴェルにまつわる数々の発言から、彼の狙いは、作者のフィルターを通して、事実を知った読者が真実とは何かを探ることを働きかけるような作品を作り上げることにあったと推察する。作者が現実(事実)のどこを切り取るかによって、導き出される真実が異なることを認識していたCapoteは、これこそがノンフィクション・ノヴェルの本質であると捉えていたと考える。本発表では、In Cold BloodにおいてCapoteの視点がどういった現実(事実)に向けられていたのかを探ることによって、Capoteという作家の独自性を検証する。In Cold Bloodにおける作者の視点についてはこれまでにも議論がなされてきたが、40~50年代に発表されたノンフィクション作品からの反映をまじえて考察する。

 

 

牧神と鳥たち

鳥が醸すRobert Frostの詩情のあり方

狭間敏行(静岡英和学院大学)

 

<発表要旨>

 Robert Frostは一貫して田園の風物とそこに暮らす人間の営みを描き続けた詩人と言ってよい。詩の中で彼が自然やそこに生きる自他の人間をいかに描くかということが、自ずと彼の詩に内在する人生観や世界観を表していると言って過言ではないだろう。とはいえ大括りに自然なり田園と抽象的に捉えようとしても、それは彼の詩を全て読めば何らかの一貫性が見えてくると言うに等しい。
 本発表においては、Robert Frostが描く様々な自然の風物の中で主に、鳥をモチーフとする作品について考察する。とはいえ彼はたとえばEdgar Allan Poeの“The Raven”やTed Hughesが1970年前後に発表した一連の詩群のように、カラスを主題に自らの詩情や観念を仮託するといった形で、鳥という生き物を作中において綿密に、あるいは主役的に描くことはあまりない。いくつかの作品では中心主題として現れるが、けっしてその数は多くない。たいていの場合、詩人や語り手たちの心理の展開に介在するようにして、いわば脇役や端役のように現れる。“Pan with us”、“Wood-Pile”、“Dust of Snow”といった鳥を主要モチーフにする作品を中心に、彼が様々な田園にみる風物の中で、鳥という生き物を介してどう詩情を渙発し、作品になりゆくのか考察する。しばしば詩の中で対比的にうたう、地上で現実の中に生きている感覚と、飛翔・上昇し想像力を発揮する感覚のせめぎ合いについて理解を深める一助となるだろう。“New Hampshire”や“Kitty Hawk”のような、鳥に言及しつつも主として詩論や信念を打ち出していると捉えうる作品にも目を向けながら、Robert Frostが詩の中で機能させようとした田園という舞台装置のあり方についても論考したい。

 

演劇・表象

 

アメリカの007

1960年代アメリカ映画におけるスパイ・フィクションの受容と変化

久我康介(慶應義塾大学・院)

 

<発表要旨>

 英国の作家イアン・フレミングによるスパイ小説、007シリーズは、1960年代に映画化されるとアメリカをはじめとする世界各国で人気となり、主人公のジェームズ・ボンドは、国際的陰謀と戦うスパイのヒーロー像の代名詞的存在として知られるようになった。しかし、Alan NadelがContainment Culture (1995)の中で、ボンドを冷戦下のアメリカ社会に広まっていた排他的で搾取的な価値観の象徴として論じたことをはじめ、現代の観点からは、ボンドと007の一連の物語は、女性・人種差別を肯定し、資本主義と植民地主義を誇示するプロパガンダ的作品と結論づけられることが多い。
 しかし一方で、007シリーズの映画が人気を博した1960年代のアメリカで、従来のアメリカのヒーロー像と異なるジェームズ・ボンドというキャラクターが、カウンターカルチャーの文化と並列に受け入れられ、そしてテレビドラマThe Man from U.N.C.L.E. (1964-68)をはじめとする、さまざまな模倣やパロディ作品が制作されたことは、あまり議論の対象とはされていないように思える。
 この発表では、1960年代に公開された007シリーズの初期の映画作品を改めて分析し、同時代のアメリカにおいて007の影響下に制作されたさまざまなエスピオナージュ作品や、アメリカの異なる大衆映画における主人公の描写との比較を通じて、007がアメリカ文化へもたらした影響を考察する。そして、映画版007シリーズをアメリカの硬直した冷戦的価値観へのカウンターテキストとして読みうる可能性を示すことを試みる。