〈11月例会・懇親会のお知らせ〉

〈 11月例会のお知らせ 〉

11月21日(土)1時半より

早稲田大学 早稲田キャンパス 16号館106教室

 

*今回は早稲田大学 早稲田キャンパスでの開催となります。
会場にお間違えのないよう、お願い申し上げます。
キャンパスマップ
 
*ページ末尾に懇親会情報を掲載しています。
参加を希望される方は、詳細をご確認ください。

 

研究発表

 
 

初期ポストモダニズム小説を語る

John Barth, Donald Barthelme, Thomas Pynchon を中心に

講師:麻生 享志(早稲田大学)

司会:深瀬 有希子(実践女子大学)

 

 本発表では、一九六〇年代に登場したポストモダニズム文学の代表作家を中心に、その語りの特徴について分析を行う。主たる対象はジョン・バース、ドナルド・バーセルミ、トマス・ピンチョンの三人。
 これらの作家に共通するのは、斬新なまでの革新性と実験性であり、ロマン派以降の文学を十二分に意識した「語り」の手法である。また、一九六〇年代といえば、哲学ではジャック・デリダ、歴史学ではミッシェル・フーコー、精神分析学ではジャック・ラカンといったフランス発のポスト構造主義の知識人が相次いで注目を浴びた時期でもある。転じてアメリカでは公民権運動を皮切りに、フリースピーチ運動、女性解放運動、反戦運動と若い世代を巻き込んだ社会運動が起きた。そのキーワードは「解放」と「改革」。一九六〇年代を席巻した作家は、時代の空気を物語の「語り」に反映させた。本発表では、上記の作家たちが示す「語り」へのこだわりと「語り」を通じた既存文学からの解放と改革、そして挑戦について論じる。
 時間が許せば、ロバート・クーヴァー、アーシュラ・ル=グィンらのアメリカ作家、さらには南米マジック・リアリズムの創始者ホルヘ・ルイス・ボルヘスと、実験的かつユーモアに富んだ作品で知られるイタリア人作家イタロ・カルヴィーノにも触れたい。そうすることで、「語り」と記憶の関係に触れつつ、伝統的な「語り」からポストモダニズム的「記憶」に至る系譜と、現代の生成AIを予見するかのような「語り」の特徴を明らかにしたい。

 
 

分科会

 
 

近代散文

 

バートルビーの傷

板垣真任(金沢学院大学)

 

<発表要旨>

 ウォールストリートの弁護士が「私は傷ついているんだよ」(“I am pained”)と言う。では、その言葉が向けられているバートルビーのほうはどうなのか?彼の内面性にアクセスすることは難しい。そこで彼の身体を想うとき、酷使による眼球の疲労や食事の拒絶による内臓の消耗を彼の負っている傷と捉えられるのかもしれない。あるいは近年の学際的知見を呼び込んで、バートルビーの「傷つきやすさ」(“vulnerability”)をまず考えてみるのはどうか。ある個人の被傷可能性はその人の社会との関わりかたの中で現れてくるとすれば、それを分析することでバートルビーの机の中だけを覗くような(困難な)読解から距離を取れるのだと思う。バートルビーの脆弱性がもっとも露わになっているのかもしれない瞬間は、その机も事務所から取り払われて、それでもそこに居座る彼が浮浪者として警察に連れ去られる場面である。先行研究では思いのほか分析の中心にならないこの場面だが、とくに、受動的抵抗を体現する思想的英雄であるはずのバートルビーの、「黙って従う」(“acquiesce”)様子が例外的に書かれるという点は見逃せない。
 建物の住人たちは居座るバートルビーを怪訝に思い、家主は彼を追い出そうとして警察を呼び、連行の際には野次馬の人々が集まってくる。研究では弁護士とバートルビーの二者関係のみが注目されやすいが、「黙従」場面には彼らのneighborhoodというか、そういうものとしての社会がよく書かれている。しかし、バートルビー自身が濃く関係していた雇い主の弁護士は実際にはその場にいない。バートルビーが(ある意味での)攻撃を被りやすいのはやはり、弁護士が引っ越しを決行した後なのか。こうした配置から得られる“Bartleby, the Scrivener”の読み方を検討し、再びバートルビーなる人物の身体を想像することの意味に還りたいのだが、それが「傷」をめぐる理論や「傷つきやすさ」の理論の再検討や再構成にも触れうる結論を目指してみたい。

 

現代散文

 

暴力の強度

コーマック・マッカーシーBlood Meridianにおけるaffectと倫理

佐塚照輝(早稲田大学・院)

 

<発表要旨>

 本発表は、コーマック・マッカーシーによるBlood Meridianをaffect理論の観点から分析することで、作品内の暴力と倫理の問題を考察する。本作は、米墨戦争終結後まもない19世紀半ばのアメリカとメキシコの国境地帯を舞台に、“the kid”と呼ばれる主人公の少年がインディアン討伐隊に加わり、大量虐殺に関与する過程を描く。作中では、無抵抗な先住民やメキシコ人の殺戮の描写が繰り返される一方で、暴力を明示的に非難する言説が乏しい。そのため先行研究では、暴力描写に倫理的な問題提起や批判の可能性が読み取れるかどうかが争点となってきた。本発表は、暴力が言説によって意味付けられる過程と、その意味付けから逸脱する可能性に着目することで、作品における倫理の問題を考えたい。
 作中では、暴力は歴史的・政治的な論理や登場人物の思想によって絶えず意味付けられる。登場人物のWhiteはマニフェスト・ディスティニー的な論理に基づいてメキシコへの侵略を正当化し、Glantonは賞金や利益という実利的な目的から暴力を振るう。また作中で異形の存在感を放つ判事は、暴力を世界の原理として形而上学的に位置付ける。しかし作品の語りは、主人公の少年やToadvineらの身体的な反応を通じて、こうした言説に回収されないものをも提示する。
 この緊張関係を捉えるため、本発表はBrian Massumiのaffect理論を導入する。Massumiは言語的・社会的に意味付けられたemotionと、そうした意味付けに還元されない身体的な強度としてのaffectを区別する。この区別を手掛かりに、暴力が言説によって意味付けられる一方で、その意味付けに尽くされない作用を作品の語りがいかに生み出しているかを分析する。これにより作品の倫理性を、明示的な道徳的判断の有無に還元することなく、暴力の意味付けと、それによって捉えきれない経験との関係から捉え直す。

 

詩

 

“The Mushroom is the Elf of Plants -” (F1350 / J1298)におけるEmily Dickinsonの菌糸的想像力

川崎浩太郎(駒澤大学)

 

<発表要旨>

 本発表は、Emily Dickinson の “The Mushroom is the Elf of Plants -” (F1350 / J1298)を、19世紀アメリカの自然誌・自然神学・文化表象との関係から読み直す。この詩にまつわる近年の研究には、手稿の物質性や言語論的不安定性に着目し、人間中心主義的なナラティブに抗うものとして好意的に読むものと、菌類嫌悪(mycophobia)とクィア嫌悪の構造的類似性を指摘し批判的に読むものがある。しかし、この詩が、時代言説を取り込みつつ、それらを内部から撹乱している点については、十分に検討されているとはいい難い。このようなディキンスンの詩学を本発表は、可視的な地表と不可視の地下ネットワークを結ぶ菌類の生態になぞらえ、比喩的に「菌糸的想像力」と呼ぶ。
 本発表は、特に後者の研究がこの詩を菌類嫌悪/愛好という二項対立のなかで捉えている点を批判的に検討し、ディキンスンが既存の科学的分類・宗教的語彙・文化的表象をいかに取り込み、その意味を内部からずらしているかという点に着目する。この詩はこうした相反する言説のいずれか一方に回収されるのではなく、“Elf of Plants”、“Germ of Alibi”、“surreptitious Scion”、“Had Nature an Apostate -”等の両価的かつ複数のカテゴリーを交差させる表現によって、可視/不可視、存在/不在、自然/不自然といった二項対立を接続しつつ撹乱する。したがって、この詩が問い直すのは、自然を分類し命名する自然誌や、自然神学が前提とする認識の枠組み、そしてそれに関わる正常/逸脱の区分である。このようなディキンスンの菌糸的想像力が、既成の枠組みに一見従順に収まりつつも、その内部から時代言説の限界を露呈させる仕組みを明らかにするのが本発表のねらいである。

 

演劇表象

 

壁の向こう側

In the Next Room or the vibrator playにおける隔たり

村上陽香(千葉工業大学)

 

<発表要旨>

 Sarah RuhlのIn the Next Room or the vibrator play (2009)は、電気の時代の始まりを告げた1880年代を舞台に、ヒステリーを患ったとされる登場人物たちに電気バイブレーターを使用して治療を施す様子を主軸に進む戯曲である。「ヒステリー」という語は「子宮」を意味する古代ギリシア語の「ヒュステラ」に由来しており、ヒステリーは歴史的に女性の病として扱われてきた。かつては医師や助産師が手技で患者の女性器を刺激して「治療」していたが、本作は電気バイブレーターを使用した治療の黎明期を描いている。
 インタビューにて、Ruhlは本作執筆時、長期にわたってタイトルをThe Vibrator Playとしていたことを明かしている。このタイトルについてRuhlは “too facile” であり納得できていなかったという。あくまでも本作はセックスに関する笑劇ではなく、19世紀末の社会に生きる登場人物たちがいかに性に向き合い、いかに自らの身体に出会っていくかを描いた作品である。結果として、元のタイトルはサブタイトルになり、In the Next Roomがメインタイトルとなった。Theatre Communications Groupによって出版されている本作の表紙で女性がドア越しに隣室の様子を盗み聞きしようとしている様子は、まさにこの新たなタイトルを象徴するものである。
 一方で、19世紀末の社会に生きる登場人物たちと21世紀の観客の間には性に関する知識や認識に大きな隔たりがあり、舞台上で繰り広げられる言動は観客の笑いを誘う。本発表では、この観客の笑いにはRuhlが本作で19世紀末の様子を徹底的に描写していることが影響していると考え、台詞のみではなくト書きにも着目しながら考察する。また、舞台上の二室(治療室と居間)を隔てる壁や、舞台と観客を隔てる第四の壁についても考察することによって、本作が笑いを引き起こすだけではなく、いかに迫真性をもって1880年代当時の性や身体への認識を展開しているかについて提示することを目指す。

 

【お知らせ】
月例会終了後に、懇親会を予定しております。
以下より詳細をご確認いただき、参加を希望される方は11月16日(月)までに申込フォームへのご回答をお願いいたします。

懇親会 申込フォーム