〈2017年度3月例会のお知らせ〉

〈3月例会のお知らせ〉

2018年3月24日(土)午後1時半より
慶應義塾大学 三田キャンパス
南校舎422教室

 

研究発表

 

恐怖の世紀におけるメディア表象

G・A・ロメロとゾンビ物語の進化論

講師:西山智則(埼玉学園大学)

司会:中垣恒太郎(大東文化大学)

 

 メキシコとの万里の長城建造という「壁」発言で世間を賑わすトランプ政権誕生後、60年に一度現われる敵にそなえて建造された万里の長城でアメリカ人が活躍する『グレイトウォール』(2016)が公開された。外から敵が侵入してくる物語は、D・W・グリフィスの初期長編映画『国民の創生』(1915)で黒人たちに包囲された建物が描かれてから、ゾンビ映画などに反復され、人々に「感染」の猛威を振ってきた。死者復活の物語が満載されたポー文学にはすでにゾンビの萌芽が見られるが、『ユーマ』(1890)のラフカディオ・ハーンや『ヴードゥーの神々』(1938)のゾラ・ニール・ハーストンがカリブのゾンビ伝説に注目して以来、現代的ゾンビの創始者ジョージ・A・ロメロ監督が昨年死去した後も、生と死の境界線を攪乱するゾンビは、映画、文学、ゲーム、コミックの領域を侵犯し、2011年のウォール街のデモやハロウィンの渋谷など、世界はゾンビに仮装した人間で溢れている。

 この発表では、『ホワイト・ゾンビ』(1932)『私はゾンビと歩いた』(1943)の奴隷制を喚起する初期ヴードゥー・ゾンビ映画、ロメロ三部作『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』(1968)『ゾンビ』(1978)『死霊のえじき』(1985)、『バイオ・ハザード』(2002)以後の現代を表象するゾンビ映画や「ゾンビの公民権運動宣言」であるS・G・ブラウンの『僕のゾンビライフ』(2009)のゾンビ文学と、三期に分けたゾンビ表象を概観し、「歩く」ことから「走る」ことに「アダプテーション」を見せた「ゾンビの進化論」を検証する。また80年代のスプラッター映画ブームにはビデオというメディアの発達があったが、近年手持ちカメラで映画を撮影する一人称のPOV映画が流行している。ロメロはPOV映画『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』(2008)で真実を映すはずの映像の欺瞞をついた。ポストトゥルース時代のゾンビとメディアを考えることで、「9.11」後の「恐怖/テロの世紀」を考えてみたい。

 

分科会

 

近代散文

大西洋をわたる建国の父祖

MelvilleのIsrael Potter(1855)におけるアメリカニズム批判と再構築

田ノ口正悟(慶應義塾大学・非)

<発表要旨>

 Herman Melvilleは、1825年に出版されたHenry Trumbullによる原作を下敷きとしながら、第8長編Israel Potter: His Fifty Years of Exile(1855)を発表する。本作は、バンカーヒルの戦いに従軍したアメリカ独立戦争の英雄でありながら、イギリス軍の捕虜として敵国に渡り、長きにわたる貧しい居留生活を強いられることになるIsraelの人生を描く。キリスト教への批判や近親姦などの反社会的要素の強いPierre(1852)を出版して大きな批判をよんで以来、Melvilleは短編作品を匿名で発表することを強いられる。ところが、Putnam’s Monthly Magazine誌での連載を経て単行本として出版されたIsrael Potterは、その作風によって好評価を受ける。現に、New York Commercial Advertiser誌の書評は、「アメリカ的情感」に満ちている本作が、「その愛国的な関心」によって「最も人気を博すことになるだろう」と述べている。

 本発表は、19世紀初頭から中葉にかけて世を席巻した愛国主義運動、ヤング・アメリカ運動のコンテクストからIsrael Potterを再読することで、Melvilleが描く両義的アメリカニズムについて考察する。具体的には、まず、本作が歴史小説の体裁をとっている点に着目しながら、Benjamin FranklinやJohn Paul Jonesといった建国の父祖を批判的に再話することで、偏狭なナショナリズムを糾弾していることを示す。次に、主人公が有為転変の人生を嘆きつつたどり着いた「虚無と土くれ」(“vanity and clay”)の哲学が、そのようなアメリカ主義の再創造を目指していた可能性を探る。人間存在を泥とそれから生成されるレンガとみなすIsraelの一見虚無的な哲学は、バンカーヒルの記念碑への献辞ではじまる本作が取り組む新たなアメリカのモニュメントの創造と呼応している。この点に注目することで、本作が、建国以来根強かった反英的国家主義を批判する一方で、「敵」との融和を志向する開かれたアメリカニズムの再構築を行なっていたことを明らかにしたい。

 

現代散文

言及性に着目した戦争小説における数理的研究

下條恵子(九州大学)・斎藤新悟(九州大学)

 

<発表要旨>

 物語論では、現実世界と物語世界の区分、多層的に存在する語り手のレベル分けなどが行なわれ、しばしば語り手と物語との位置関係や距離が議論される。文学作品における他の作品への(あるいは架空の作品への)言及は、そのような位置関係や距離と関連する一つの興味深い指標である。言及に関する考察は、「間テクスト性」の概念の下、「テクストとは引用の織物である」(Barthes)というように包括的に取り扱われることが多いが、本研究では再度言及性に着目して、語り手と物語との位置関係や距離について定量化を試みる。

 1960年代以降のポストモダン小説は、他作品への言及の多用に加えて、自己言及(作者や作品そのものについて語る行為)の要素などを持ち込むことによって、Barthesのいう「作者の死」(1967)をより複雑な形で読者に示すものが多くなった。中でも高い評価を受けている戦争作品では、「筆舌に尽くしがたい」惨状を言語で表現するというパラドックスを体現すべく、ある意味過剰な言及や自己言及が登場する。そこで、言及性に着目した数理的考察の対象として、本研究では第二次世界大戦、ベトナム戦争、イラク戦争を兵士の視点から描いた3作品(Slaughterhouse-Five by Kurt Vonnegut Jr., 1969; The Things They Carried by Tim O’Brien, 1990; Redeployment by Phil Klay, 2014)をとりあげる。

 本研究は九州大学の内田諭氏、谷口説男氏、渡邉智明氏との共同研究である。

 

ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの「声」を聴く

山本毅雄(東京大学・院)

 

<発表要旨>

 ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ(WCW)は、“American idiom”で詩を書くことを主張し、“iambic pentameter”を「イギリス英語のリズムであって、アメリカ英語には合わない」と敵視したことがよく知られている。じっさい、若書きのソネットを後年朗読したときは、伝統的なソネットの韻律とは違う自由詩風のリズムに載せて読んでいる。しかし、WCWの自作朗読の中には、弱-強や強-弱の二音節詩脚(disyllabic feet)を主調とするものもいくつかある。これはどういうことだろうか?

 筆者は英詩の朗読音声から楽譜様の「詩譜」をつくるソフトウェア“VoiceToScore”を開発・公開しているが、これを使って、近現代詩人の詩の韻律を議論し、またペンシルベニア大学のディジタルアーカイブPennsoundで公開されているWCWの朗読音声を解析して、WCWの詩の韻律とその変化を調べている。この報告では、VoiceToScoreの簡単な紹介とともに、詩の内容とあわせて上記の問題を考えてみたい。

 

演劇・表象

罪と罰

Suddenly Last Summer におけるキリスト教と同性愛

藤倉ひとみ(順天堂大学)

 

<発表要旨>

 テネシー・ウィリアムズ(Tennessee Williams, 1911-1983)は、自身の作品において同性愛を扱わないと語っているが、彼の多くの作品で同性愛的傾向が確認でき、いずれも苦悩に満ちた男性が登場している。その一つにSuddenly Last Summer(1958)があり、主人公セバスチャン(Sebastian)の隠された同性への欲望が主題とされている。セバスチャンが不在のまま、彼と関わった周囲の人々の証言から、彼の人物像が浮かび上がってくる。しかし、セバスチャンが同性愛者であることは直接的に言及されているわけではない。彼が同性愛者であることを紐解いていくと、キリスト教的観点から同性愛は「罪」と見なされ、そのことがセバスチャンを縛っていたと考えられる。

 本発表では、まず、セバスチャンの同性愛的傾向を明らかにし、宗教(キリスト教)との関連に言及したうえで、同性愛への罪意識からセバスチャンが解放される経緯について述べる。しかし、罪から解放されたと捉える一方で、セバスチャンが最後に無残にも食い殺されてしまうのは、やはりセバスチャンが罪を犯し、それに対する「罰」であるようにも見える。この作品の罪と罰の真意を探ることで、作者ウィリアムズの同性愛に対する曖昧な感情、苦悩や葛藤を考察する。