〈5月例会のお知らせ〉

〈 5月例会のお知らせ 〉

5月25日(土)1時半より

慶應義塾大学三田キャンパス 西校舎 522 教室

*状況によりオンラインに変更する可能性がございます。
その際は支部HPでお知らせいたしますので、
事前にご確認くださいますようお願い申し上げます。

 

研究発表

 
 

文学のイノベーション

ヘミングウェイとクバニスモ

講師:越川 芳明(明治大学名誉教授)

司会:中垣 恒太郎(専修大学)

 

 それはヘミングウェイ晩年の作品『老人と海』(1952年)の冒頭に出てくる一語から始まった。サラオ(salao)という、英語圏読者にとってはあまり見慣れぬ単語であった。その意味を知ろうとして、さまざまな辞書にあたってみた。どこにも載っていなかった。スペイン語辞典(西和辞典)を調べたこともあった。
 数年間、謎解きを諦めていたが、ふとした出来事が私の心に灯をともした。アメリカの大学図書館を使える機会があり、いくつものスペイン語大辞典(西英辞典)にあってみようとしたのだ。
 探し求めた結果、残念ながら「サラオ」という言葉はどの大辞典にも載っていなかった。これ以上、辞典類を渉猟していても埒はあかないと思いかけたそのとき、あるひらめきが浮かんだ。そのひらめきがもたらしたものは大きかった。ヘミングウェイという作家の深遠なる魅力を垣間見た気がした。
 本発表では、文学研究と文化人類学的な探究が交わる地点をたどり、謎解きのプロセスをみなさんと共有したい。そして、文学の世界にもイノベーション(価値創造)が可能であり、アメリカ文学が多様性に富んでいるということを、「20世紀の白人男性作家」を例にしてしめしてみたい。

 
 

分科会

 
 

近代散文

 

イーディス・ウォートンとニューヨーク映像作品

マーティン・スコセッシからノーラ・エフロンまで

大塩真夕美(流通経済大学)

 

<発表要旨>

 19世紀ニューヨークの「お上品な伝統」を守る社交界を舞台にしたイーディス・ウォートンの作品は、その後のニューヨークを舞台にした作品(以後、ニューヨーク映像作品)に多くの影響を与えている。21世紀目前のニューヨークで仕事に恋に自由に生きる女性たちを描いた『セックス・アンド・ザ・シティ』の冒頭、“Welcome to the Age of Un-Innocence”(「不実の時代へようこそ」)という引用があることからもその影響力がうかがえる。
 本発表では、ウォートン作品とニューヨーク映像作品の関わりについて考察していく。冒頭では特に『歓楽の家』『無垢の時代』の概要と、ウォートンが19世紀のニューヨーク社交界をどのように描いたのかを改めて考える。それを踏まえ、1993年のマーティン・スコセッシ監督による映画版『無垢の時代』と原作の相違点を探る。また、脚本家・映画監督としても活躍したノーラ・エフロンについても考察する。作品の中で、その時代を生きる女性の姿を描き続け、新しいフェミニズムを示したエフロンとウォートン作品の関係を探る。この発表を通して、「お上品な」作品を描いたとされるウォートン作品がいかに革新的・先進的であったのかに脚光を当てたい。

 

現代散文

 

【ワークショップ】

計量文学研究のゆくえ

ルシアス・アデルノ・シャーマンから考える

三添篤郎(流通経済大学)

 

<発表要旨>

 近年、データサイエンスの知見を活用していく計量文学研究が、目覚ましい学術的成果を次々と生み出している。しかし、計量分析に対する抵抗感が、文学研究領域のなかにいまだ根強く残っていることも、また否定しがたい事実である。わたしたちは、デジタル・ヒューマニティーズの担い手たちが推し進めている文学の定量化に対して、これからどのように向き合っていったら良いのだろうか。
 本ワークショップでは、この問題を考えていくための糸口として、文学研究者がこれまで計量分析をどう捉えてきたのかを検討していきたい。そこで今回着目したいのが、ルシアス・アデルノ・シャーマン(1847-1933)というひとりの学者である。1882年からネブラスカ大学英文科で教鞭をとっていた彼は、93年に英米文学作品の定量化を試みた重厚な研究書Analytics of Literature: A Manual for the Objective Study of English Prose and Poetryを刊行した。出版直後から、本書には賛否両論が寄せられていき、最終的にそれは人文学者・自然科学者・小説家を巻き込んだ方法論争へと発展していくことになった。定性的か定量的か、個性記述的か法則定立的かをめぐって繰り広げられていったその議論の光景は、まさに今日のアメリカ文学研究を取り囲む状況と重なって見えてくる。本ワークショップでは、この学術論争を丹念にたどっていくことで、計量文学研究のゆくえについて考えていくための批評的視座を、可能な限り多角的に導き出していきたいと考えている。

 

 

“Poetry and the Female Sex”

William Carlos Williams による1930年代の詩を読む

後藤ゆり(早稲田大学・院)

 

<発表要旨>

 晩年に出版された I Wanted to Write a Poem (1958) の中で、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ(William Carlos Williams, 1883-1963)は “Somehow poetry and the female sex were allied in my mind”と記しており、さらにその直後に“The beauty of girls seemed the same to me as the beauty of a poem.”と付言している。この言葉通り、ウィリアムズにとって女性とは生きた詩の言葉を導き出す強烈なエネルギーを宿す存在だった。それだけに、ウィリアムズを強く惹きつける女性たちが具現化する「美」は、ステレオタイプ的な女性美の概念からはかけ離れていることも珍しくない。一筋縄ではいかないそんな女性たちとのコンタクトを果敢にも試みる中で ── 時には彼女たちからの手痛いしっぺ返しをくらいつつ ── ウィリアムズは一体何を探り当てようとしていたのだろうか。
 今回の発表では、1930年代にウィリアムズが発表した詩篇をいくつか精読することによって、この詩人の創作と女性の関係について考察する。世界恐慌が猛威をふるった30年代のウィリアムズ作品は、詩人本人がスランプを自覚していた時期と重なっているせいもあって、これまで必ずしも多くの批評的関心を集めてきたわけではない。しかし思うように創作が進まなかった頃の詩篇に注目してこそ、詩人が女性たちをどう捉え、彼女たちとどんなやりとりを行いながら突破口を見出そうと苦闘していたのか把握できるのではないだろうか。このような視点のもとで作品解釈を進めながら、ウィリアムズにおける“Poetry and the Female Sex”とは何なのかという問題の核心へと迫ってみたい。

 

演劇・表象

 

分科会開催無し