〈6月例会のお知らせ〉

〈 6月例会のお知らせ 〉

6月22日(土)1時半より

慶應義塾大学三田キャンパス 南校舎 445 教室

*状況によりオンラインに変更する可能性がございます。
その際は支部HPでお知らせいたしますので、
事前にご確認くださいますようお願い申し上げます。

 

シンポジウム

 

The 1619 Project からアメリカの変貌と文学研究を考える

 

司会・講師:成田雅彦(専修大学)

         講師:佐久間みかよ(学習院女子大学)

    講師:新田啓子(立教大学)

    講師:城戸光世(広島大学)


 本シンポジウムは、2019年、New York Times Magazineの特集号として出版されるや大きな反響を呼び、2021年には拡大出版されたThe 1619 Project に着目し、この書の持つ意味、そしてこの書が疑義を呈したアメリカ建国の理念、さらにはこういう本が出る時代のアメリカ文学研究とは何かを考えることをテーマとする。
 近年、白人ピューリタンを源泉とする自由と民主主義のアメリカ史観、いわゆるアメリカ例外主義が根本から見直され、アメリカのアイデンティティが問われている。アメリカのはじまりは1776年などではない。黒人奴隷がはじめてアメリカに連れてこられ、ヴァ―ジニアに到着した1619年こそ本当のアメリカのはじまりだと論じるThe 1619 Project は、この大きな流れの中に位置づけられるだろう。Nikole Hannah-Jonesを代表とする執筆者たちの議論は、近年アメリカ社会を揺るがしたBLM運動、そして学校教育を揺さぶるCritical Race Theory、様々な分断などとも共鳴する。The 1619 Project は従来からある黒人の社会的平等を求める抗議声明とも違う。それは、奴隷制こそがアメリカ構築の基盤であったという主張であり、民主主義、自由、平等といった白人たちの伝統的な国家像の欺瞞性の暴露であった。「正史」の中で葬られた本当のアメリカを救い出そうという極めてラディカルな要求でもある。
 この書への対抗措置として、Donald Trump前大統領は、「1776委員会」 (“The 1776 Commission”) を設置して、伝統的アメリカ像を守ろうとした。その後も本書は、種々の攻撃、あるいは称賛を受けてきたが、このThe 1619 Project が黒人の問題を越えて広くアメリカのアイデンティティが問われる時代の象徴的出版物であることは疑う余地がないであろう。
 このシンポジウムでは、The 1619 Project の内容と出版後の展開を確認したのち、4人の研究者が、それぞれの立場から、The 1619 Project の時代の文学研究を論じる。アメリカ植民地時代の研究者として佐久間みかよ氏、アメリカン・ルネサンス文学研究からは城戸光世氏と成田、それに現代の黒人文化や社会思想の研究者として新田啓子氏が報告を行う。4つの報告の後、フロアを巻き込んで、現在、アメリカ文学の研究をするということはどういうことなのかを活発に議論してみたい。

 

 

植民地時代の多言語空間

Samuel Sewall と Cotton Mather の宣教と空白

佐久間みかよ(学習院女子大学)

<発表要旨>

 The1619 Project が提示した奴隷制から見直すアメリカ合衆国を考察していく際に、まず植民時時代の様相について再考していきたい。当時多言語空間であったアメリカに、プロテスタント信仰と深く結びついたモノリンガルな国家が創造されていくとされていたが、本発表では、第2世代のピューリタン植民者が、プロテスタント信仰をもとに、より広範囲なアメリカを意識していたのではないかについて検討する。ボストンの裕福な商人John Hullの娘と結婚したSamuel Sewallは、植民地の経済・司法において重要な役割を果たしていく。Cotton Matherは、植民地において、聖職者として確固たる位置を築いた一族の一員である。彼らがアメリカにおける自分たちの立ち位置をどのようにとらえ、展望していたか、プロテスタント宣教にかかわって興味をいだいた多言語によるアプローチから、当時のアメリカの姿を再考したい。
 SewallとMatherは、ハーヴァードの同窓生として頻繁に連絡を取り合っていた。その共通意識としてあるのが、メキシコ、フロリダなどアメリカ大陸でのスペイン語圏へのアプローチである。また、いわゆる現地語での宣教を考え、アルゴンキンなど先住民の言葉のみならず、スペイン語、そしてフランス語によるカナダのフランス系カトリックへの宣教も意識していた。その背景にあるのが、アメリカ大陸という多言語空間である。
 しかし、ここで見逃してならないのが、多言語空間と奴隷制の問題である。最初の奴隷制反対の文書ともいえるThe Selling of Joseph (1700) を書いたSewallだが、宣教に関する文章においては、この文書の思想との関連はこれまで研究されていない。多様な言語が飛び交う世界として意識されたアメリカにおいて取捨選択された理想と現実は何であったか、奴隷制という不可視化された空間を手掛かりに、宣教のための文書を読み直していく。

 

Edgar Huntly と荒野の外縁

新田啓子(立教大学)

<発表要旨>

 アメリカ社会に黒人奴隷が連れてこられた最も古い暦日は、史料に基づき1619年とされている。その400年後にあたる2019年、ジャーナリストのNikole Hannah-Jonesは、現代アメリカ社会では、奴隷制を教える機会が総合的に不足しており、それゆえに、その制度の人道的な問題性や現代にまで残存している悪影響に対しての国民的な認識が弱いという危機感をもち、「1619」なるプロジェクトを立ち上げた。もとは、New York Times Magazine誌上で特集された民間の歴史教育プログラムである。
 しかしアメリカ社会が本質的に、それほど忘れっぽい人々から構成されているはずはない。要は人種奴隷制に発端した人種主義の生々しさが、今日もなお、同国の人々の奴隷制との向き合いを抑圧しているのだろう。Hannah-Jonesはいう、「今日の合衆国が特殊に抱える諸問題、つまり、露骨な経済的不平等、暴力、世界に類のない投獄率、震撼すべき人種差別、政治的分裂、社会的セーフティネットの貧弱さなどを理解する際、この歴史観の再構成は、どんな変化をもたらすか。自由、平等、多元主義を懸けた何世紀もの闘いのDNAも、1619年に跡付けることが可能であるが、この見直しは、この国のそうした最良の性質までをも理解するのにどのように役立つか」。
 当事国家の人間の口をつぐませ、彼らをうしろめたさで包む奴隷制の特質は、しかし、その制度がまだ生きていた時代の諸作品に韜晦し、アメリカの社会問題の、我々すらも忘れがちな視点を暗に提示している。その意味で、いわば「1619マインド」をより透徹して活かすなら、我々はいま、またしてもアンテベラムの文学を丹念に紐解く必要がある。本報告ではCharles Brockden BrownのEdgar Huntly; or, Memoirs of a Sleep-Walker (1799) を例に取り、同作のアイコンである“Indian”の集結する“wilderness”と対峙する人間社会が実際いかに描かれているかを検討したい。世界資本主義体制の中核をなした奴隷制度が、プロットの閾に見え隠れする様子が確認できるはずだ。

 

“a duty to fulfill this task”

The 1619 Project とL. M. Childの反人種主義レトリック

城戸光世(広島大学)

<発表要旨>

 New York Times Magazine の特集から始まった「1619プロジェクト」によって、人種をめぐる議論が歴史の見直しや建国理念の矛盾と絡み合って噴出している現在の状況は、先住民強制移住や奴隷制維持の是非が大きな論争となっていたアンテベラム期アメリカの状況を彷彿させる。学術的な歴史観と一般認識の壁を壊したことが騒動の最大の原因だとHannah-Jonesは断じたが、過去の歴史解釈が教育界から政界までこれだけ大きな反響を呼ぶのは、それがアメリカの国家アイデンティティの根幹に関わるものだからだろう。「いかに歴史が現在の私たちを形成し、影響を与え、取り憑いているのか」(Hanna-Jones)という認識は、ニューイングランドの植民地建設から200周年を寿いでいたロマン主義時代の作家たちの多くもまた共有していた。
 なかでもLydia Maria Child (1802-1880) は、当時のアメリカにおける人種的対立がどのような状況下で生み出されてきたのかを歴史的に検討し、異人種間の融和や異文化共存がどうしたら成り立つのかについて、もっとも真摯に考え、作品化した一人である。Childは、その作家としての重要性が学界では認知されているものの、いまだ一般の知名度は低い。しかし近年評価の高まるその奴隷制撤廃に向けた活動や著作の重要性と限界は、「1619プロジェクト」の問題意識を介すことで、より一層明らかになるのではないだろうか。
 最初の歴史小説Hobomok (1824) で先住民と白人とのinterracial marriageを扱ったChildは、An Appeal in Favor of that Class of Americans Called Africans (1833) では、人種偏見による人間の奴隷化の非道徳性とその即時廃止の必要性を強く主張した。その刊行によって彼女は人気作家の地位を失い、社会的にも疎外されたが、本書は奴隷制のような非道徳的な制度はいずれ消えると緩やかな撤廃を支持していた多くの北部人の意識や行動を変えた。本報告ではそのようなチャイルドの反人種主義思想とそのレトリックがどのように生まれ発展したのかを、彼女の人生や作品を通して再考してみたい。

 

共和国のナラティヴと異人種の記憶

Nathaniel Hawthorne の “The Old Manse” をめぐって

成田雅彦(専修大学)

<発表要旨>

 Thomas Jeffersonが起草したアメリカ独立宣言が「すべての人間は神によって平等に造られ、生命、自由、幸福を含む譲り渡すことのできない権利がある」ことを謳ったことは周知のとおりである。これを国是として進んできたアメリカの歴史をとりあえず共和国のナラティヴと呼んでみる。しかし、The 1619 Project の代表執筆者、Hannah-Jonesは、この理想を尊びつつも、これは大きな嘘であったと断じている。黒人奴隷がこの「すべての人間」に属さなかったことは言うまでもないが、黒人は奴隷制解体後も現代にいたるまでこのナラティヴから疎外され消されてきたというのである。それは歴史だけでなく、テレビ、公的文書、文化など社会の様々な制度を通じて繰り返し行われてきた。では、文学はどうだったろうか。たとえば、アメリカ古典文学の作家たちは、共和国のナラティヴの白色化を告発してきたのか、あるいはその構築に加担したのか。私の発表では、Hawthorneのスケッチ“The Old Manse” (1846) の一場面に焦点を絞って、そのことを考えてみたい。
 Hawthorneは“The Old Manse”の中で、アメリカ独立戦争のさなかにコンコードで起こった小さなエピソードを紹介している。Emersonの祖父であるWilliam Emerson牧師の旧牧師館の使用人であった青年が、戦いの騒ぎを聞きつけて現場に赴き、そこに倒れていた英兵に持っていた手斧で最後の一撃を与えて殺害したというエピソードである。コンコードといえば、独立革命の聖地であるだけでなく、自由、平等、民主主義を標榜した「白い」共和国のナラティヴの原点であろう。しかし、近年、歴史家、Elise LemireのBlack Waldenなどが、この白い土地の地層に埋められていた奴隷制と黒人たちを暴きだした。発表では、Lemireの研究にも頼りながら、Hawthorneのこのエピソードが、コンコードの奴隷世界やその後の歴史の白色化、あるいは作家自身による「白い」共和国のナラティヴ構築を垣間見る極めて興味深い視点となることを論じたい。

 
 

分科会

 
 

近代散文

 

シンポジウムを継続します。

 

現代散文

 

James Baldwinと「スポーツ」

佐々木優(専修大学)

 

<発表要旨>

 James Baldwinの作品には、随所でアフリカ系アメリカ人の文化的営為の影響を感じさせるものが多く見受けられる。短編小説“Sonny’s Blues”などに見られるように、ジャズやブルースをはじめとした音楽が作家としてのBaldwinや作品にもたらす効果は先行研究によって指摘されてきた。一方で、本発表が注目するのは、アメリカ社会の日常に浸透しているスポーツという実践が、様々なBaldwin作品に描き込まれていることである。例えば、Go Tell It on the Mountainには登場人物の描写にバスケットボールが得意であることが繰り返される。また、5作目の長編小説If Beale Street Could Talkでは、主人公のTishとお腹の中の子供との関係をアフリカ系アメリカ人ボクサーであるMuhammad Aliに喩えることで印象的に表現した。また、双方ともアフリカ系アメリカ人ボクサーでありながら、対極的なイメージでアメリカ社会に受け入れられていたFloyd PattersonとCharles Listonの試合の取材を行ったBaldwinは、そうした社会的評価とはまた異なる独特な視点から記事を執筆している。自身はボクシングに精通していないとしながらも、Baldwinが「スポーツ」がある風景を自然なものとして作中に描いた点は興味深い。
 こうした関心を端緒に、本発表は実在のアスリートの名前を挙げることから起きる現実との交錯が作品にもたらす効果や、印象的に挿入されるスポーツにまつわる描写の分析を通じて、Baldwin作品における「スポーツ」の役割を検証する。アフリカ系アメリカ人アスリートにまつわるイメージや社会的評価は、作品に立体的な読みをもたらすと共に、より複雑さをもたらすものとなっており、こうした「スポーツ」がBaldwinに可能にさせた表現とはどのようなものであったのかについて考察したい。

 

 

世代間トラウマによる共同体構築

多民族比較詩学から見えるアメリカの風景

古村敏明(明治学院大学)

 

<発表要旨>

 9.11と、後に「アメリカの永続的戦争」と呼称されるに至ったアフガニスタン・イラク戦争に関する考察として刊行された Precarious Life (2004) の一節で、Judith Butler は、 “loss makes a tenuous ‘we’ of us all” と述べる。喪失感を、報復的暴力という方向ではなく、団結と社会正義に向けて昇華することができる、という趣旨の言説であるが、この理念は、21世紀アメリカの外交政策としては現実化したとは言い難いものの、多民族比較詩学においてその痕跡が見られる。
 多民族比較文学研究において詩分野は後塵を拝してきたが、近年、その遅れを取り戻そうとする動きがある。また、2016年以降の反移民感情の高まりを受け、Long LeKhac の Giving Form to an Asian and Latinx America (2020) のような、民族間の交差と繋がりに関する比較研究も進んでいる。本発表はそれらの文脈に位置する。
 本研究は、多民族文学の接点の本質は、世代間トラウマの悲痛が、世代の枠だけでなく民族の枠を超えて継承されることによって形成される共同体の想像であると捉え、特にアメリカ大陸の風景描写に「微弱な」共同体想像が表れる、と論じる。例えば、Toyo Suyemoto の日系収容所の風景には、Emily Dickinson の影響が垣間見えるが、その荒野の風景は、Lawson Fusao Inada たち日系詩人だけでなく、Juan Felipe Herrera などラティーノ系詩人の作品とも繋がる。アメリカ的風景という緩やかな繋がりは、Linda Hogan などネイティブアメリカン詩人の作品などにも見出せる。20世紀から21世紀の多民族詩の交差を追跡することで、Ada Limón の The Hurting Kind (2022) などに黙示される、穏やかな社会正義の輪郭を探ることが、本発表の目標である。

 

演劇・表象

 

境界の揺らぎと情動、暴力

Edward Albee の Seascape における他者の表象

中西亮介(早稲田大学・院)

 

<発表要旨>

 劇作家エドワード・オールビー (Edward Albee)の、中期の代表作『海の風景』 (Seascape) (1975) は、舞台である海浜で、老年の人間夫婦が、海から上がってきたトカゲの夫婦と遭遇し対話を交わす一部始終を描く。トカゲの夫婦を、人間の内面の一部の寓意と論ずるルシナ・P・ギャバード (Lucina P. Gabbard)や、人間に対する全き他者と論ずるチン=イン・チャン (Chin-ying Chang)らの先行研究が扱わないのは、トカゲが自己と他者の境界線の揺れそのものの表象である可能性だ。この可能性を検討することで、『海の風景』においてオールビーが一貫して扱う、自己と他者との関わり、そしてその間に発生し得る暴力といった議論の深化を見て取れるだろう。
 本発表は、情動理論や暴力論における言説を援用しながら、『海の風景』におけるオールビーの試みを明確化することを目指す。遠藤不比人は、近代フィクションにおける風景描写と情動の関りを論じた。実存的不安という情動が、描写される風景において抑圧されることで、主体における内面とその外界 (他者) という境界が安定する、という遠藤の主張は『海の風景』の風景に適用しうる。陸と海の境界線上に出現するトカゲは、自己の内面とその外界、という制度化された境界線上に発露し、それ自体を異化する情動の寓意と定義できる。すなわち、トカゲと人間との交流は、自己/他者の境界線自体を検討し直す過程として分析できるのだ。ゆえに、それまでの他者論で自明視された境界線の実態を探ることで、他者論の成立条件自体を吟味する、前-他者論というべき試みを戯曲から読み出せるだろう。
 かつては自他の相克を解決する手段として暴力の発生を肯定的に描いたオールビーだが、『海の風景』においては、暴力の兆しを描くものの、むしろ舞台に横溢する緊張を緩和して、破綻を回避する。こうした作中の暴力の扱いの変遷は、他者の消滅から、他者の発現にこそ注目するようになった、劇作家の他者論的展開をあきらかにするだろう。