〈2024年1月例会のお知らせ〉

〈 1月例会のお知らせ 〉

1月20日(土)1時半より

慶應義塾大学三田キャンパス 南校舎 445 教室

*状況によりオンラインに変更する可能性がございます。
その際は支部HPでお知らせいたしますので、
事前にご確認くださいますようお願い申し上げます。

 

研究発表

 
 

トマス・ピンチョンと戦争にまつわる想像力

講師:永野 良博(上智大学短期大学部)

司会:波戸岡 景太(明治大学)

 

   Thomas Pynchonは多くの作品を冷戦期に書いており、そこでの人々の心理状態や冷戦秩序形成へと向かう歴史的事象を複数の作品で描いている。長編第一作V. (1963) では、語りの現在である1950年代アメリカの物語と、19世紀末から20世紀の植民地での暴力や第一次及び第二次世界大戦の破壊が、並行して提示される。大作Gravity’s Rainbow (1973) においては、ナチス・ドイツによる大陸間弾道弾V-2開発と、そのテクノロジーの国家間での争奪戦が語られる。本発表では、まずPynchonが冷戦下での大量破壊を強く意識する中で創作を行ったことが、彼の描く地理的に拡大し複数の大陸を移動する物語で、帝国主義、二つの世界大戦、そして冷戦がもたらす破壊と支配、同時にそれらと共に進行する国家の変貌をどのように想像したのか検討したい。その際、物語中の時間的及び空間的分離、歴史的時間の分裂、通信ネットワークの支配権争い、戦時下での系譜的空想、軍産複合体を中核としたシステム形成、そして破壊が生み出す自由な空間であるゾーンとそこで保護を剥奪される少数民族の在り方等を論じてゆく。
 後期作品のAgainst the Day (2006)は、第一次世界大戦前後のアメリカとヨーロッパを主な舞台に、無政府主義者の体制への抵抗とそれを無効にする力としてのナショナリズム、中央集権化、軍事テクノロジーを背景とし、大国が引き起こす世界大戦を扱う。同作品に関しては、発表内で無政府主義者と体制側の暴力の問題に焦点を当て、殺害の判断、敵の「哀悼不可能性」、その不可能性の総力戦における拡大の問題等を論じてゆく。更にPynchonはBleeding Edge (2013)では、冷戦からテロリズムとの戦いへとアメリカが主たる戦争をシフトさせると共に、国内での抑圧を強化する様を描いている。同作品に関する議論では、システムとサイバースペースの結合、言葉以前の虚空の想像が持つ潜在力、監視社会の発展、テロリズムがもたらす「植民地的現在」等の問題を検討してゆく。

 
 

分科会

 
 

近代散文

 

セクシュアル・スケッチ

テネシー・ウィリアムズからハーマン・メルヴィルへ

小南悠(立教大学)

 

<発表要旨>

  テネシー・ウィリアムズの戯曲『去年の夏、突然に』(1958)第一場にて、同性愛的欲望を抱いていたと思しき息子セバスチャンを喪ったヴェナブル夫人は、ハーマン・メルヴィルの中編小説「エンカンタダス、あるいは魔の群島」(1854)の一節を引用しつつ、息子と過ごした夏を回想する。ウィリアムズのこの戯曲は同性愛とカニバリズムという二つの主題をめぐるものであり、その意味で、カニバリズムの主題を秘める「エンカンタダス」への言及に、あるいは『タイピー』(1846)や『白鯨』(1851)といった諸作品でこれらの主題を繰り返し描いてきたメルヴィルへの言及に、一見したところ違和感はない。
 だが、とある批評家が言うように、メルヴィルのこの中編小説が「セクシュアリティの主題を前景化していない」テクストであることは、戯曲と小説を結ぶ主題的連続性という点で、いささか引っかかる。たしかに、批評史を辿ってみても、「エンカンタダス」のうちに逸脱的な性の主題を読み取った論考は見当たらず、ウィリアムズは直接引用していないメルヴィルの他作品から逸脱的な性の主題を自らの戯曲へ換骨奪胎した、というのが批評的定説となっているようである。しかし、果たして本当にそうだろうか。ウィリアムズが「エンカンタダス」を念頭に置きながら筆をとっていたのであれば、劇作家の嗅覚は、メルヴィルのテクストのうちに、カニバリズムの主題のみならず、逸脱的な性の主題をも嗅ぎ取っていたのではあるまいか。
 このような問題意識のもと、本発表では、ウィリアムズの戯曲を糸口にしつつ、「エンカンタダス」が密かに打ち出す逸脱的なジェンダーとセクシュアリティの諸相を追いかけてみたい。そこには、のちにウィリアムズへと引き継がれることになる性の主題がたしかに垣間見えるはずである。

 

現代散文

 

「境界線」をこえる主体としての可能性

John Okada作品にみるトランスボーダー性

三牧史奈(杏林大学)

 

<発表要旨>

  日系米人二世の作家John Okadaの代表作No-No Boyの物語の舞台は、米政府による日系人強制収容のトラウマを抱える日系人コミュニティである。主人公である日系二世の青年Ichiro Yamadaが強制収容から解放された直後に目の当たりにするのは、崩壊の危機にあるコミュニティの荒み切った姿である。本作品を通じてOkadaは、埋もれたままの日系人の文化的遺産を発掘してその価値を再評価するというよりも、むしろ一世と二世の間の埋まらない溝や二世同士の激しい軋轢を浮き彫りにしてゆく。
 No-No Boyは、米社会の周縁に置かれてきた日系人が心の奥底で葛藤し続けてきた、「日系人であること」に伴うスティグマに真正面から対峙する作品であるといえる。Okadaの詩や短編小説の登場人物達が同様の葛藤に苛まれている点からも、マイノリティとしての自己嫌悪の問題がOkadaにとっての主要テーマの一つであることが分かる。Okadaが描く日系人コミュニティ内部の軋轢は、東洋人としての身体からは逃れられずとも「日系人であること」を拒絶し続ける二世の自己嫌悪の葛藤により引き起こされる。彼らの自己価値は米社会の主流派にいかに同化できるかによって決まるが、このことは米社会がその内に孕む民族中心主義的排他性を暴露している。
 No-No Boyには、様々な心理的葛藤を乗り越え精神的成熟を果たす青年期の主人公の成長物語がサブテキストとして重ねられている。Ichiroの成長は、物語の終盤でかすかではあるが確かに感じられる“A glimmer of hope”を見出す彼自身の姿に象徴される。だが従来の研究は、Ichiroが抱え込んできた自己嫌悪がどの様に克服され、後に彼はいかなる新境地に到達したのかについて深く考慮していないように思われる。物語の結末でのIchiroの姿は読者に開かれた解釈を許すが、本発表では、葛藤の中で新たな希望がIchiroに芽生える瞬間を、トランスボーダー的かつインクルーシブな感性で自らのアイデンティティを捉え直そうとする彼の可能性が示唆される場面として読み直してみたい。

 

 

預言者としての自己

Jones Veryの詩作品と回心体験

皆川祐太(日本大学)

 

<発表要旨>

 本発表では、Jones Very (1813-80)の詩作品を回心体験とそれに伴う自己意識の変化という観点から考察する。これまでの研究は彼が回心体験により信仰面で熱狂的になっていた約2年間に書かれた作品に光を当て、それ以外の時に書かれた作品については十分評価をしてこなかった。そのため、批評上の偏りが生じてしまっている。こうした問題を解決するために、彼の作品で多く使われる単語の一つである“peace”に着目し、特に熱狂的な心理状況で書かれた作品と、その熱狂から覚めた後に書かれた作品に共通して描かれる要素を明らかにすることで、彼の詩作品をより広い文脈から考察したい。そして、回心体験が詩人としてのVeryに大きな影響を与えていたことを明らかにする。
 熱狂的な心理状況に陥る以前の作品における“peace”は自然の静謐さや心の穏やかさを表していたが、それ以降はキリスト教的な意味合いが強調され、以上の意味に加え、死する運命からキリストによって自由になることを表すようになる。また、Veryはこの自由すなわち平和を人々にもたらすキリストの再臨として、自らを意識するようになる。確かに熱狂が冷めると作風が変わり、より現実的な事象を扱う作品が多くなる。例えば、戦争がなく社会が穏やかである状態を“peace”という語で表現する。一見するとこの語から宗教的な意味合いが薄れるのだ。しかし、その内容を精査すると、この語が示すのは熱狂的であった時代に主張していた、死から自由になるという意味での平和であり、終末を意識したものであることが明らかになるのである。終末の平和は回心体験を契機に彼が一貫して求め続けた理想の一つだったのだ。したがって、Veryにとってこの宗教的体験は彼の後の人生に深く影響を与えた、重要な経験だったのである。

 

演劇・表象

 

現代アメリカ演劇の「移動」と翻訳

Guards at the Taj, Angels in America, Carousel を例に

小田島創志(武蔵大学・非)

 

<発表要旨>

 本発表では、アメリカで活動する劇作家ラジヴ・ジョセフ(Rajiv Joseph)の戯曲 Guards at the Taj (2015) 、トニー・クシュナーの戯曲 Angels in America : A Gay Fantasia on National Themes (1991)、リチャード・ロジャース(Richard Rodgers)が作曲を手がけオスカー・ハマースタイン2世(Oscar Hammerstein II)が脚本・作詞を手がけたミュージカル Carousel (1945) を取り上げ、それぞれの作品で「移動」を表す言葉が全体のテーマとどのように関わっているのか分析する。また、この3作品はいずれも私自身が翻訳を手掛けており、Guards at the Tajは『タージマハルの衛兵』という邦題で2019年に新国立劇場において、Angels in America は『エンジェルス・イン・アメリカ』という邦題で2023年に新国立劇場で、Carousel は『回転木馬』という邦題で2023年に四日市市文化会館で上演された。俳優が実際に舞台上で発話することを念頭に置いた、演劇の上演のための翻訳において、「移動」に関わる部分をどのように英語から日本語へ置き換えていったのか再検討する。この再検討を軸に、演劇の創作現場において戯曲がどのように解釈され、どういったディスカッションを経て上演台本が作られていくのか、翻訳劇上演のプロセスと課題についても言及したい。