〈2018年度9月例会のお知らせ〉

〈9月例会のお知らせ〉

2018年9月22日(土)午後1時30分より
慶應義塾大学 三田キャンパス
南校舎445教室

 

研究発表

 
 

戦後日本にとって「黒人文学」とは一体何だったのか?
『黒人文学全集』(1961-63)の編纂を中心に

有光道生(慶應義塾大学)

司会:杉山直子(日本女子大学)

 

 ジョーダン・ピールが人種的暴力を寓話化したホラー映画『ゲット・アウト』(2017)が大ヒットし、批評家からも絶賛されたことは記憶に新しい。この画期的なハリウッド映画において名誉白人もしくはモデル・マイノリティとして戯画化された日本人キャラクターはSNSなどで賛否両論を巻き起こした。本発表では、ピールがステレオタイプとして提示した黒人差別に加担する日本人のイメージとは対照的に、「黒人文学」に様々な形でコミットしてきた戦後日本の研究者や作家たちの群像を素描することで、情報やリソースが限定されていたにもかかわらず、アフリカ系文学を読み続け、日本語に翻訳し、紹介してきた彼らの仕事に光を当てなおす。
 本発表では2つのアーカイブに注目する。1つ目は1954年に神戸で貫名美隆を中心に創設された「黒人研究の会(現・黒人研究学会)」が1956年から現在まで発行し続けている『黒人研究 Studies in Negro Literature(現・Black Studies)』。もう一つは1961年に東京で橋本福夫のイニシアチブによってスタートした「二十世紀アメリカ文学研究会」のメンバーが企画・編集した全13巻の『黒人文学全集』(1961−63)である。貫名や橋本は「黒人文学」という当時まだ目新しい概念・カテゴリーをどのように分節化し、アフリカの脱植民地化、米国の公民権運動、ブラックパワーの勃興などの変化の波の中でそれを再分節化していったのだろうか。また、戦後日本における「黒人文学研究」の礎を築いた貫名や橋本をはじめとして、山室静、浜本武雄、古川博巳、木村始、北村崇郎や彼らと併走する形で黒人文学を読み、議論にも加わった大橋健三郎、大江健三郎、佐藤宏子らもいかに「黒人文学」と出会ったのか。「黒人文学」を可視化し、その現代的意義を模索した先達の仕事から、21世紀の日本を生きるわれわれはいま何を学び取ることができるだろうか。始めたばかりのリサーチではあるが、これまでの成果を共有しつつ、諸先生方のご意見を頂戴したい。

 
 

分科会

 
 

近代散文

地理的想像力と南北和解
連作短篇集としてのチャールズ・チェスナットThe Conjure Woman

遠藤郁子(法政大学)

 

<発表要旨>

 20世紀以降のアメリカ文学は多くの連作短篇集を生み出してきた。連作短篇集とは、独立した短篇小説の集まりでありながら、それぞれの短篇の登場人物・舞台・テーマなどが相互関係を有し、全体を通読することで長篇小説にも似た大きな物語を想起させる文学ジャンルである。アメリカにおけるこのジャンルの先駆として、19 世紀後半のローカル・カラー文学の時代に流行したスケッチ集が挙げられる。だが、実際にスケッチ集がなぜ、どのように20世紀にみられるような連作短篇集へと変化したのかは明らかにされていない。
 本発表は、19世紀末から20世紀前半にかけて活躍した南部黒人作家チャールズ・チェスナットのThe Conjure Woman『魔法使いの女』(1899)を、そのような連作短篇集の先駆をなすスケッチ集の一例として分析する。当時流行していたプランテーション物語集(スケッチ集)は、(元)黒人奴隷の声を抑圧してアメリカ南部と北部の和解の物語をことほぐことが多かったが、チェスナットは、あえて同じ形式を利用しながら、こうした物語からこぼれおちる、(元)黒人奴隷からみたリアルな南部を描こうと試みる。こうした試みによって、スケッチ集が連作短篇集的な特徴を帯びるようになったことを明らかにし、さらに、ローカル・カラー作家が「地方」や「国家」という大きな概念に回収されない、地方のリアリティを表象するために既存の文学の限界を広げ、連作短編集というジャンルを独自に発展させてきたことを示すところまでを本発表の目標とする。

 
 

現代散文

ジャック・ロンドンの短編「ムーンフェイス」を読む
世紀転換期における「月」の言説をめぐって

五井結基(白百合女子大学・院)

 

<発表要旨>

 “Moon-Face”は、1902年7月『サンフランシスコ・アーゴノート』に載録され、1906年、短編集 Moon-Face and Other Stories に収められた。本作では、「私」と称される匿名の語り手が、まん丸顔(moon-faced)の隣人ジョン・クレイヴァーハウスの容貌、笑い声、名前、そして彼の存在自体に破格の嫌悪感を示し、嫌がらせを重ね続ける。が、語り手の企みは、クレイヴァーハウスの楽観的性格がなす「忌々しい笑い声」に幾度も笑殺され、彼の「満月のような顔」は歪むことなく昇り続ける。
 本作は、出版後に剽窃を疑われた問題作である。嫌忌の限界に達した語り手は、クレイヴァーハウスに犬をプレゼントする。常習的に違法漁獲を行っていたまん丸顔のクレイヴァーハウスは、ダイナマイトを水面に投げ込むや否や、語り手にプレゼントされた犬が、訓練通り、飼い主が投げた棒と同様ダイナマイトを持ち帰り、クレイヴァーハウスは犬もろとも爆発で消失する。この「犬がダイナマイトを持ち帰る」というトリックは、20世紀初頭の他作家の短編小説にもみられる。この剽窃作品群の原作を探ることが本作に関する数少ない先行研究の主眼である。今回も新たにその有力な候補を指摘するつもりだ。が、その成否はともかく、本発表では、むしろ、例えば、語り手が嫌悪するmoon-faceという語が同時代のアメリカでいかに言説化されていたかを追究するつもりだ。これにより、本作の精緻な読解を試み、“Moon-Face”という作品の深みを考えてみたい。

 
 

「安全地帯」から−−−−Sylvia PlathのArielにおける身体・音・視線

田中美和(東京電機大学・非)

 

<発表要旨>

 「身体」、「音」、「視線」、という三つのテーマからSylvia Plathの詩集 Ariel(1965)に収められた作品のいくつかを取り上げ、そのなかにおける詩人の「位置」を探っていく。Plathの詩には、多くの批評家が指摘するように、身体の描写がしばしば見られる。身体をつぶさに観察することによる、その生命力と脆さの描写は、われわれにPlath自身の命に対する強い意識を感じさせる。また、音という点では、Plath独自のユニークな韻律が挙げられる。Plathの作品は枠組みとして定型をとってはいながらも、伝統的なものとは異なる韻律方法を用いている。そしてそれは作品それぞれに独特な印象を与え、効果的な作用をもたらしている。また、音そのもの、あるいは静寂もまた、Plathの作品を特徴づける主要素であり、文字だけの世界に巧みに空間を描き出している。そして最後に、詩人の視線が読み手に知らせるのは、見つめる対象との距離と、詩人がいる「位置」である。作品にとって、Plath自身にとって、そして読み手にとって、詩人のいる「位置」が意味することが何か、先に挙げた三つのテーマをもとに考察する。

 
 

演劇・表象

知性のパラダイムをめぐって
19世紀後半のアメリカで起きていたこと

中川智視(明治大学・非)

 

<発表要旨>

 19世紀から20世紀の転換期にかけて、日本からアメリカに向けて精力的に作品を執筆していたラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn/小泉八雲、1850-1904)は、少なからず日本の法体系に対して言及している。文学的な観点からは見えにくいところであろうが、彼は明治時代の日本のことを事実上古くからの慣習にもとづいて運営されている慣習法的な社会だと認識し、高く評価した。
 ハーンが日本から発した主張は、アメリカで起こっていた社会の変化とも密接にかかわっていると考えるべきだろう。彼が書き手として活躍していた19世紀後半から20世紀前半にかけて、アメリカの法制度は急激な変化を遂げていた。この時代に活躍していたアメリカの法曹関係者たちは、従来の法の捉えかたとは異なる新しい要素を、アメリカ社会に積極的に導入していたのである。この一連の変化は、リチャード・ホフスタッターの論考にならって「知性化」と呼ぶことができるだろう。本発表ではまず、法の領域で起きていた知性化の本質およびその歴史的背景を、ジャクソニアン・デモクラシーの時代にさかのぼりながら検討する。
 ついで、ハーンが日本で執筆した日本文化論にあたる作品を検討する。ハーンがそれらの作品で提起している問題は、アメリカで起きていた法の知性化に対する批判的な意思のあらわれとしても解釈ができるのではないか。そのような前提のもと、考察を進めてみたい。