〈2019年度9月例会のお知らせ〉
2019年9月28日(土)午後1時30分より
慶應義塾大学 三田キャンパス
第一校舎103教室
あるカリブ系移民作家のぼやき
Elizabeth Nunez作品を中心に
講師:岩瀬由佳 (東洋大学)
司会:齊藤みどり(都留文科大学)
人間というものは、ぼやく生き物である。誰しも時には、愚痴を言ったり、不平を言ったりしながら、日々の生活をやり過ごすものではないだろうか。
旧英領カリブ海地域、トリニダード・トバゴ出身のアフリカ系女性作家、Elizabeth Nunezもかなり愚痴っぽいタイプだと思われる。ただ、そのプライベートな愚痴や不平不満を文学作品にまで昇華させてしまうところが、彼女の作家たる所以である。
本発表では、彼女の自伝的作品とされる連作、Anna In-Between (2019)とBoundaries (2011)に加え、初のメモワール作品であるNot for Everyday Use (2014)を中心に、母親との長年の確執、親のケア問題、結婚生活の破綻、アメリカでの移民生活、アメリカの出版業界の実像など、ざっくばらんで、時に切ない、彼女のぼやきを読み解きながら、有効な表現形式としての自伝小説の役割とアメリカにおけるカリブ系移民の諸相について考察を試みたい。
H. D. Thoreauのインディアン観
超絶主義思想の観点から
林南乃加(群馬県立女子大学)
<発表要旨>
Henry David Thoreauがインディアンに多大な関心を注いだのは周知の事実である。Thoreauは日記や著作でインディアンについて記すだけでなく、インディアンに関する情報の抜粋や描画から成る2,800頁に上る11巻の膨大な“Indian Notebooks”を残し、臨終の床で“Moose,” “Indian”と微かに呟いて生涯を終えた。本発表ではThoreauのインディアン観を、主に青年期から晩年に至るまでの連関的なものとして捉え、著作を中心に年代順に辿っていく。その際、Thoreauがインディアンへの造詣を深めた思想的根拠を探る手がかりとして、Ralph Waldo Emersonが提唱した超絶主義思想に言及する。
Thoreauのインディアン観の形成は、概して三つの時期に分けられる。一期目は萌芽期であり、Thoreauが超絶主義思想の影響を受け、インディアンについての自身の考えを日記に記した時期である。二期目は展開期であり、A Week on the Concord and Merrimack Rivers (1849) をはじめ、The Maine Woods (1864) 中の“Ktaadn”や、Walden (1854) などの著作が執筆された時期である。この時期にはThoreauがインディアンを形而上学的で観念的な次元から理解しようとしている様相が見られる。三期目は成熟期であり、Thoreauがメインの森の奥地に赴き、荒野でインディアンのJoe AitteonとJoe Polisに接した時期である。著作はThe Maine Woods中の“Chesuncook,” “The Allegash and East Branch”を取り上げる。この時期には実際的にインディアンを理解しようとするThoreauの姿が見られる。
Thoreauのインディアン観を辿る上で留意したい点は、Thoreauはあくまでも文明社会の中で生きる一文明人であったということである。Thoreauのインディアンに対する基本的な認識は、Thoreauの自身や一般的文明人に対する認識とは対極的なものである。一文明人としての視点からThoreauがインディアンをどのように理解したのか、超絶主義思想に照らし合わせて考察したい。
ウィラ・キャザーが描いた理想と現実の女性像
A Lost LadyおよびMy Mortal Enemyからの考察
小倉咲(津田塾大学)
<発表要旨>
ウィラ・キャザーが、「世界は1922年かそのあたりで切断された」と記し、以降、世間に対して消極的であったことはよく知られている。この発言に呼応するように作風にも変化が見られる1920年代から、本発表では、A Lost Lady (1923) とMy Mortal Enemy (1926) の2作品を取り上げ、考察する。
キャザーが上記2作品に共通して用いたのが、若い語り手が年上の女性を語るという構造である。前作My Ántonia (1917) における語り手ジムが、同世代の少女の生涯を、ネブラスカという土地の成熟になぞらえて見守っているとするならば、A Lost Ladyのニールは、すでに成熟し終えた西部と、美しい人妻マリアン・フォレスターとを重ねて描写する。その語りには、若い少年の目線からゆえの夫人への多くの理想化が見受けられる。My Mortal Enemyのネリー・バーズアイもまた、駆け落ち結婚したと噂のマイラ・ヘンショーを、田舎町からの脱出を成し遂げた先駆的な女性として理想化していることが、作品の冒頭で示される。
しかし、若い語り手たちは、夫人たちの老いという現実もまた確かに目撃し、その変化を受容しようと試みていく。その意味で、物語の結末において、夫人の死を、伝え聞きのままに「(最後まで大事にされたのだから)それはよかった!」と言い切るニールと、マイラの遺品であるアメジストの首飾りを、嫌悪感を抱きながらも捨てられないネリーとの比較は、<息子―母>、<娘―母>の関係にも重なるように思われる。
作品執筆時にはすでに50代へとさしかかっていた作家が、自身の老いや時代の変化にどのように向き合ったのか、人や時代を理想の姿にとどめおくキャザーの美学のみならず、彼女の現実的な葛藤の道筋を、作品から丁寧に読み解いていきたい。
T・S・エリオットの「とらわれ」の主体
初期詩篇における動物的表象について
坂元美樹也(東京大学・院)
<発表要旨>
T・S・エリオット(T. S. Eliot, 1888-1965)の詩作品のなかで、20世紀モダニズムの形成と台頭に最も大きな影響を及ぼした作品が『荒地』(The Waste Land, 1922)であるとすれば、現在、最も人口に膾炙している作品は、――ミュージカルの原作という位置付けでこそあれ――『ポッサムおじさん猫語り』(Old Possum’s Book of Practical Cats, 1939)となるだろう。ミュージカル『キャッツ』の原詩として知られるこの子供向けの詩集は、擬人化された猫たちの生態をコミカルに描いたノンセンス文学であり、作者の伝記的事実に照らし合わせても、その筆致の裏にはエリオットの猫に対する少なからぬ関心が窺える。
この詩集はエリオット後期に分類される作品だが、その一方、『荒地』へと至る初中期詩篇の詩的表象においても彼は、動物、あるいは動物的なものを取り入れることにこだわった。初期詩篇の原稿などが書き込まれたハーヴァード時代のノートブックが「三月兎の調べ」と題されていたのに始まり、「J. アルフレッド・プルーフロックの恋歌」(“The Love Song of J. Alfred Prufrock,” 1915)では、黄色い霧や煙が猫の挙動に重ね合わされて描写されているほか、逡巡のなかで主人公プルーフロックは、海底を走りまわる蟹のイメージに自己を投影しさえする。また、スウィーニーは、エリオットが一連の詩作品で異様なほどの執着を示したキャラクターであるが、その人物造形に詩人は動物的な形容を纏わせていた。
本発表では、ハイデガーやアガンベンによる動物論を参照しつつ、エリオット初期詩篇における動物的表象について考察する。エリオットがテクスト上に再演した動物的「放心」に焦点を当てつつ、そうした動物の「とらわれ」状態とアナロジーの関係にあるとアガンベンが見做した人間の「倦怠」にも着目することで、動物と人間をめぐる詩的実践のうちに浮かび上がる詩人の主体とそのあり方を看取したい。
It’s About Time
Benjamin’s Queer Ageing
宮永隆一朗(明治学院大学・非)
<発表要旨>
「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」。杉田水脈議員のいわゆる「生産性」発言は、Queer Studiesを学ぶ私たちに強い危機感と、同時にある種の既視感を覚えさせるものだったろう。
「我々クィアは『子供』を選ばないことを選ぶ」という挑発的主張を行ったLee Edelman, No Future (2004) に代表されるQueer Temporalityと呼ばれる一連の議論は、私たちの生/性を囲い込む時間的な規範性を浮き彫りにした。異性愛的再生産を絶対の価値とする単線的・目的論的な時間の政治は、その逸脱者を成長の失敗と描くことで包摂しつつ排除する。クィアさを未成熟さと同一視するこうした言説は、メインストリーム化するLGBT文化やQ Studies自体において「クィアであること」を「若さ」と重ね合わせる言説の裏側でもある。これらの言説に挟まれて、「クィアに年をとる」ことは端的に表象困難となる。
けれどストーンウォール事件から半世紀が過ぎ、ベビーブーマーは年金世代となった。「生産性」の問いは、狭義のゲイ・レズビアンのみならず、閉経し、勃起不全となり、半身麻痺となり、それでもなお性的快楽を生きる私たちにとってますます逼迫する問題に他ならない。
はたして近年、Q StudiesとAgeing Studiesは、「クィアであること」と「年をとること」の交差するQueer Ageingに光を当て始めている。「人は文化によって年を取らされるのだ」というMargaret Gulletteの理論を継承するこうした議論は、「クィアであること」と「年をとること」の時に重なり合い、時に背反する関係を照らし出してきた。
そう、そろそろやらなくちゃいけないのだ/これって時間の話なのだ(It’s About Time)。本発表は「クィアにとって時間とは何か」、とりわけ「年をとるとはどういうことか」という問いを軸に、映画The Curious Life of Benjamin Button (2008) と原作であるF. Scott Fitzgeraldによる同名の短編小説 (1922) における年齢の表象を分析する。