〈2021年度9月例会のお知らせ〉

〈9月例会のお知らせ〉

9月18日(土)午後1時30分より

オンライン(Zoom・事前申込制)で開催いたします。
会員以外の方の参加も歓迎いたします。

参加申し込み方法は、こちらから

 

研究発表

 
 

亡霊のソーシャリズム

メルヴィルとホイットマンの伝統

講師:貞廣真紀 (明治学院大学)

司会:千石英世 (立教大学 名誉教授)

 

  第二次大戦の最中、大西洋の両岸で2冊のハーマン・メルヴィル詩選集が出版された。一つはイギリスのホガース・プレスから、南アフリカ出身の詩人ウィリアム・プロマー編集の Selected Poems of Herman Melville(1943)。そしてもう一つはアメリカで、ニュー・ディレクションズ・パブリッシングから出版された Herman Melville: Selected Poems(1944)、編者はF. O. マシーセン。ニュー・ディレクションズはその設立からハーバード大学教員との強いコネクションを持っていたが、マシーセンに編集を依頼したのは Partisan Review の若き英雄デルモア・シュウォーツだった。American Renaissance(1941)によって「アメリカ文学の伝統」の礎を築いたマシーセンがメルヴィルの詩の受容に関わっていたという事実は、今日、驚きとともに受け取られるかもしれない(実際、舌津智之氏が「マシーセンの万華鏡」でこのことに言及したとき、私自身は非常に驚いた)。しかし、1910年代後半から40年代にかけてアカデミアの内外で展開された「アメリカ文学の伝統」をめぐる批評家、研究者、文学者たちの格闘を振り返るとき、その出版は突然変異的な出来事というより必然的な歴史の結節点のように思えてくる。本発表では、この格闘を、長いプロセスとしてのメルヴィル・リヴァイヴァルに即して考えるところから始め、「アメリカの伝統」に取り憑いたソーシャリズムの系譜を考えてみたい。

 
 

分科会

 
 

近代散文

 

未だ口にされない証言

Wieland における司法的無意識

板垣真任(日本工業大学・非)

 

<発表要旨>

  Charles Brockden Brownの Wieland (1798)には、“judge,” “testify,” “proof,” “evidence”といった言葉が頻繁に出てくる。読者は語り手のクララ・ウィーランドと同一化しながらウィーランド一家に起こった怪奇な事件の究明にいざなわれる。その事件とはウィーランド一家の耳に入ってくる謎の声の正体について、そしてクララの兄であるセオドアが突如として自分の妻子を殺害することについてである。前者について、謎の声に翻弄されたクララは故あって周囲と裁判めいたやり取りをする。後者について、神の声に応えたのだと、セオドアは実際の裁判において証言する。クララは、謎の声の正体であるカーウィンなる男の腹話術こそが、セオドアを操作したのだと裁く。このように、Wielandは司法的な意識に満ちたテクストである。
  本発表の関心の中心は、殺害事件後にセオドアとクララとカーウィンの三者が対面する場面である。クララは事の黒幕はそこにいる男だと兄に諭す。セオドアは “I will meet thee, but it must be at the bar of thy Maker. There shall I bear witness against thee.” とカーウィンに言う。つまり、ここに書かれているのは「裁判のような場面」ではなく裁判の可能性だけである。セオドアは現実の司法の現場ではないところを設定し、自分のもう一つの証言を未来へ繰り延べする。そして自分を操作した(らしい)カーウィンが目の前にいるのに、セオドアは彼に直接的な暴力も激しい舌戦も仕掛けたりしない。本発表は、こうしたセオドアのその場で行動できない在り方、特に、その場で証言できないふるまいから炙り出されるものこそがテクストを構成しているのではないか、ということを検討する。

 

現代散文

 

“This Is Still Good Country”

Ambivalent White Masculinity in Cormac McCarthy’s All the Pretty Horses

Rong Qin(東京工業大学・院)

 

<発表要旨>

   Contemporary American writer Cormac McCarthy’s novels have always centered around the figure of men who suffered heavily from violence, death, and displacement. As the most famous one of his border trilogy, All the Pretty Horses, perfectly inherited McCarthy’s consistent writing style. It mainly tells the story of young John Grady Cole from Texas, who sets out for Mexico with his friends Lacey Rawlins after finding himself cutting off from the life he has ever wanted. In the novel, crossing the border between the United States and Mexico means experiencing different geographical and social spaces, which makes the protagonist’s original inherent values of English descent, male and white, strengthened, while those values are also subject to unexpected impact. As a result, the established value system of masculinity is constantly being disintegrated and rebuilt at the same time. Furthermore, such repetition makes the white male withdraw from the familiar cognition of masculinity and fall into a dilemma of self-awareness, causing the ambiguity and chaos of white people’s self-identity consciousness, so as to fall into a state of self-doubt.
   This presentation will mainly focus on the process of Grady’s transnational journey, talking about how the pattern of white masculinity is reconstructed, unfolded and changed and considering the significant effect of geographical location on the conceptualization of masculinity.

 

 

“To a Locomotive in Winter”を再読する

身体拡張としての蒸気機関車

川崎浩太郎(駒澤大学)

 

<発表要旨>

  『アメリカ古典文学研究』(1923)においてD.H.ロレンスは、物質、機械、動物などと人間とは、本質的に異なるものだとして、ホイットマンを蒸気機関車になぞらえ「機械的な」「スーパーヒューマン」であると揶揄している。だが、人間/自然、人間/動物、生物/機械、男/女など様々な伝統的二項対立の境界が極めて曖昧になりつつある現代から見れば、伝統的なヒューマニズムに基づいたロレンスのこのあてこすりは、もはや皮肉としては機能しない。21世紀の今日、人工知能やロボット工学、情報工学などの飛躍的な進歩によって、人間は機械と融合することで、文字通りスーパーヒューマンになることが理論的には可能になった。こうした意味においては、ロレンスよりもむしろホイットマンの方が、今日の社会状況を予見していたともいえる。
 『草の葉』におけるテクノロジーの主題はこれまでも頻繁に批評の関心事となってきたが、南北戦争以降のホイットマンはテクノロジーに対して相反する感情を抱くようになったと一般的には認識されている。本発表は基本的にはこの立場に倣いつつも、特にホイットマンの「冬の蒸気機関車へ」(1876)を取り上げ、南北戦争以降のホイットマンが積極的に、そして時にクィアな欲望を伴いつつ、身体を拡張、補完する道具として、蒸気機関車を取り入れてゆく様を検証する。汽車という移動テクノロジーによって身体機能を拡張するホイットマンの想像力が、南北戦争での看護師としての経験やその後の発作、麻痺、そして介護される経験とどのようにかかわっているかを確認し、ホイットマンの試みが21世紀を生きる我々の関心事とどのように接続されうるのかについてもその可能性を探りたい。

 

演劇・表象

 

「有色人種」の構築とそのパラドックス

世紀転換期のアメリカ映画における人種イデオロギーの表象

福西恵子(ハワイ大学・院)

 

<発表要旨>

  本発表では、20世紀転換期のアメリカ映画の中で有色人種に対してどのような意味が付与されてきたか、そして映画が有色人種に関する概念をどのようにしてリアルなものとして表象してきたのかを考察する。アメリカ映画研究の分野では、映画の繊細さ、そしてその技術の発達を考える上で編集の技術に重きを置く傾向がある。それゆえ、一般的には編集がなされていないとされる、1ショットでできた初期の映画に関しては未発達であるとか、リアルなものであると言った表現がなされる傾向が現代でも見受けられる。この時期の映画に対して使用される “primitive cinema” と言う表現がこの最たる例である。本発表では、この時期の映画で用いられる撮影技法の分析を通し、未発達とも称されるアメリカ初期映画では実際には非常にモダンな撮影技法が使用されてきたこと、またこうした撮影技法を使用することで有色人種が前近代的、野蛮であると言うイデオロギーがリアルなものとして作り上げられてきたことを明らかにする。また、有色人種をテーマにしている初期映画のイメージを綿密に考察することで、こうした映画に登場する非白人の俳優たちが演じているスペースは実際にはモダンな環境であり、モダンな技術が駆使されていることが映画のイメージ上に現れていること、そしてそれが有色人種に対する前近代的(primitive/premodern)な意味と対立・矛盾した構造になっている点を明らかにする。そのような議論を通じて、本発表ではこれまで通説とされてきた初期映画についての言説を再考する。つまり、このような映画のイメージの中に見受けられる意味の対立関係は、アメリカ初期の映画が決して未発達でもリアルなものでもなく、ある一定の人種イデオロギーを構築するために様々な技術を使用していたこと、そしてある特定の人種のイメージを演じるための脚本に基づいていたことを示しているのではないだろうか。