〈2021年度12月例会のお知らせ〉

〈12月例会のお知らせ〉

12月11日(土)午後2時より

オンライン(Zoom・事前申込制)で開催いたします。
会員以外の方の参加も歓迎いたします。

参加申し込み方法は、こちらから。

 

シンポジウム

 

国民文学の終焉

アメリカ文学の(再)世界化、世界の脱アメリカ化から考える

 

司会・講師:有光道生(慶應義塾大学)

講師:吉田恭子(立命館大学)

講師:都甲幸治(早稲田大学)

講師:温又柔(小説家)   

 

     本シンポジウムでは、創作、翻訳、文学研究、語学教育、書評などさまざまな形でアメリカ文学に関わってきた講師を招き、過去・現在・未来の「アメリカ文学の世界的な位置づけ」を問い直す「アメリカ世界文学」(Paul Giles, American World Literature; Jeffery R. Di Leo, ed, American Literature as World Literature )の有効性や可能性(もしくは落とし穴)について探る。「アメリカ文学」と「世界」を(再)接続する試みは、Emily Apterらが警戒するように、英語中心主義を前提とする多国籍出版・メディア複合企業による「フィクションのアメリカ帝国(American Empire of Fiction)」の拡大、つまり米国をスタンダードとするモデルやスタイルの一方的な押し付けを意味するのだろうか?それとも、Paul Giles, Jeffrey R. Di Leo, Wai Chee Dimockらが示唆するように、アメリカ文学の(再)世界化は、「アメリカ」、「世界」、「文学」の定義と関係性をラディカルに問い直すことで、かつてSacvan Bercovitchが「アメリカの罠(America trap)」と呼んだアメリカ文学の例外主義的な自己批判と自己肯定の無限ループに介入し、アメリカ文学を孤立主義や帝国主義的傲慢さ、そしてアイデンティティ・ポリティクスが生み出した蛸壺状態から解放し、より錯綜とした世界に広がる文化的ネットワーク空間の大海、もしくは「列島」(Brian Russell Roberts)に連れ出す/連れ戻すことに繋がるだろうか?われわれは具体的な作品の精読を通して、アメリカ文学の世界性の重層的な意義について検討することになるだろう。

 

 

「世界文学」としてのアフリカ系アメリカ文学

有光道生(慶應義塾大学)

<発表要旨>

    近年のアメリカ文学研究は、トランス・ナショナル、ディアスポリック、トランス・アトランティック、トランス・パシフィック、コスモポリタン、半球的 、惑星的、アーキペラジックといった米国の文化的、地理的境界を根本から問い直す修飾語とともに劇的な変貌を遂げ、多様化しつつある。このようにアメリカ文学研究がますます脱国民国家的、脱領域的、脱中心的、そして脱大陸的な方向に邁進する中で、「アメリカ文学」はどのように「世界文学」と(再)接続されるべきだろうか。本発表では、Paul Gilesや Jeffrey R. Di Leoらが提唱する「アメリカ世界文学」の前景化した可能性や問題を踏まえつつ、「アメリカ文学」のサブジャンルを構成すると思われがちな「アフリカ系アメリカ文学」の世界性について、Olaudah Equiano, Victoria Earle Matthews, W. E. B. Du Bois, James Weldon Johnson, Richard WrightやDudley Randallらのテクストを取り上げつつ考察する。

 

翻訳するアメリカ文学

吉田恭子(立命館大学)

<発表要旨>

     近年、アメリカの主要な文学賞から国籍条項が外されつつある。「アメリカ文学」の「アメリカ」とはもはや何を指すのだろうか。生産者の国籍なのか、生産の現場なのか、作品の舞台なのか、それとも焦点なのか。あらためて問い直してみると、国民文学でありながらあらかじめ世界文学であったアメリカ文学にとって、ポスト国民文学的近年の展開は、世界文学のアメリカ化ともいえるし、アメリカ文学の消滅ともいえるだろう。現代アメリカ文学生産現場の縮図ともいえるクリエイティヴ・ライティング・プログラムの世界でも、その両方が進行しているように見える。私がとりわけ興味を持っているのは、たとえば、翻訳MFAプログラムと創作科の連携が進展していることであり、複言語執筆者の増加であり、実験的な小説家や詩人がさかんに翻訳していることだ。国民文学としてアメリカ文学を研究してしまう視線がモノリンガルなアメリカ文学という幻想を助長する。アメリカ文学の生産現場には翻訳が満ちている。誰が翻訳し、何が翻訳され、誰が読んでいるのか。

 

翻訳を拒む小説

Milton Murayama, All I Asking for is My Body

都甲幸治(早稲田大学)

<発表要旨>

     Milton Murayama の All I Asking for is My Body は翻訳を拒む。これは比喩としてだけではない。数年前、実際に編集者を通して申し込んだところ、日本語訳の出版を拒絶されてしまった。だが翻訳してはこの作品の大事な部分が消えるのではないか、と危惧する書き手の気持ちはよくわかる。
 本作の扱う時代は第二次世界対戦勃発前後で、場所はハワイのサトウキビプランテーションだ。日系や沖縄系、フィリピン系、韓国系などの労働者がひしめき合い、それをポルトガル系の監督が管理するという多言語状況の中で、日系2世の少年である主人公は様々な境界線を超える。フィリピン系の人々に春を売る母親を持つ少年の元を訪ねてコミュニティの境界を越え、他の世界から隔絶された場所の境界を越えるべくボクシングを覚え、プランテーションからだけでなくこのハワイという環境そのものから本土へと抜け出そうとさえする。
 だからこそ自分を何かに統合しようとする者と彼は徹底的に戦う。親が押し付けてくる正しい日本語に対して仲間内でしか通じないピジン日本語を使い、学校が押し付けてくる正しい英語に対してピジン英語を振りかざし、 白人のように話そうとする優等生をからかう。しかも「武士は食わねど高楊枝」といった封建的な日本文化を独自の方法で再解釈する。
 残念ながら少年の試みは全て中途で挫折する。より高度な教育を受けるには正しい英語を習得しなければならないし、ハワイを出て行けるほどボクサーとして強くもなれない。結局のところ、彼をこの場所から救い出したのは戦争だった。軍隊に入ることで彼はプランテーションを抜け出し、家族の借金も返し、高等教育も受けられたのだ。やがて時代の波の中で消えていくコミュニティで爆発する少年の思いは、ジュノ・ディアス作品など、他の多言語青春小説とも響きあう。

 

英語圏チャイニーズの小説に魅了されて

彼女たちと〈私〉の絆について

温又柔(小説家)

<発表要旨>

     広義に解釈すれば私も「チャイニーズ」である。中国語が母国語である台湾人の両親の間に生まれたのだから。考えてみたら私は、「私はジャパニーズ」と言い切るには少々複雑な自分の生い立ちをどんなふうに受け入れるべきか、小説を書くことをとおして「研究」してきた。
 その際に、知らずしらず参照にしてきたのが、英語圏チャイニーズの小説だと最近気づいた。
 17歳の私に「こういうものを自分も書きたい」と思わせてくれたエイミ・タンの『ジョイ・ラック・クラブ』。遡って、マキシーン・ホン・キングストン『チャイナ・メン』。最近なら、「中国南京生まれ。5歳のときに両親とともにオーストラリアへ移住。カナダを経由して、11歳でアメリカに」渡ったというウェイク・ワンのデビュー作『ケミストリー』。あるいは、「中国福建省に生まれ幼少期に家族と共に渡米した」リン・マーによる傑作パンデミック小説『断絶』。リン・マーと同じく1983年生まれのジェニー・ザンが描くニューヨークの中国人移民の少女たちの愛と絶叫の日々『サワー・ハート』……私と同世代の米国育ちの中国系作家たちが描く中国人の親をもつ女性たちの苦悩と葛藤は、「台湾台北市生まれ。3歳のときに両親とともに日本・東京に」渡った私にとって、まったく他人事と思えない。むろん、アメリカと日本とでは事情がちがうし、安易に彼女たちを自分と同一視することには慎重でありたいながらも、たとえば「わたしは今や父といっしょに(アメリカに)行こうと決心したときの母と同い年なのだ。なんて勇気だろう」と感じ入るウェイク・ワンの小説の主人公の心境が私には痛いほどわかってしまう。
 日本語圏チャイニーズの作家の一人として、今、私がアメリカ発のチャイニーズ小説から受ける感銘を話してみたい。

 
 

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