〈2022年1月例会のお知らせ〉

〈 1月例会のお知らせ 〉

1月22日(土)1時半より

オンライン(Zoom・事前申込制)で開催いたします。
会員以外の方の参加も歓迎いたします。

参加申し込み方法は、1月初旬にHPにてお知らせします。

 

研究発表

 
 

エズヴァーシティの内から/外から

パウンド、ダンカン、へジニアン、パーマーを読む

講師:山内功一郎(早稲田大学)

司会:遠藤朋之(和光大学)

 

 エズラ・パウンド(Ezra Pound, 1885-1972)が本質的に「教師」であったという点については、おそらく多くの研究者の間で見解が一致していると見ていいだろう。たとえば ABC of Reading中で、パウンドは「単に生徒たちに「対して」ではなく「共に」彼らと『オデュッセイア』第六巻の100行目から200行目を読み直せば、どんな人間も必ず学ぶことがあるはずだ」と述べている。そんな彼自身が、『詩篇』の読者を自らの生徒と目している様子を想像することは難くない。授業への能動的な参加者・同伴者としての読者の存在は、パウンドの詩作にとって不可欠だった。今回の発表ではまずその点を明らかにするために、「詩篇一」を取り上げる。既に多くの先行研究がある作品だが、改めて読み直すことによって、パウンドという教師の特徴をいくらかでも浮かび上がらせてみたい。
 そのうえでロバート・ダンカン(Robert Duncan, 1919-88)、リン・へジニアン(Lyn Hejinian, b. 1941)、そしてマイケル・パーマー(Michael Palmer, b. 1943)の作品を取り上げ、彼らがそれぞれパウンドの教えをどう捉えているか確認していく。ダンカンについては近年いくつか興味深い視点を示す論考が発表されているが、今回の発表ではトム・ガン(Thom Gunn, 1929-2004)のエッセイ集Shelf Life(1993)に触れつつ、「ダンカンのパウンド」が「わたしのパウンド」や「あなたのパウンド」とは異なることをできるだけ解き明かしてみたい。ダンカンの後続世代に属するヘジニアンとパーマーについては、パウンドからの遠さと近さを推し測るかのような詩作の展開をなんとか追ってみるつもりである。
 仮にジェイムズ・ロックリン(James Laughlin, 1914-97)の言葉を借りてパウンドの教育理念が直接及ぶ圏域を「エズヴァーシティ」と呼ぶとすれば、その内側から自己増殖しつつはみ出していったのがダンカンであり、外側から接続と切断を繰り返しながら渡り合っているのがヘジニアンやパーマーである──と言えるかどうか。その点をつきとめたいと考えている。

 
 

分科会

 
 

近代散文

 

眺めのいい墓地

The Blithedale Romanceにおけるアメリカン・ピクチャレスク

石川志野(慶應義塾大学・院)

 

<発表要旨>

 ナサニエル・ホーソーンは、歴史や伝統のあるヨーロッパと比較して、文学的素材に乏しいアメリカで作品を書くにあたり、現実と想像の間にある「中間領域」という文学空間を編み出した。The Scarlet Letter (1850)、The House of the Seven Gables (1851)に続く、ニューイングランドを舞台としたロマンス三作品目であるThe Blithedale Romance (1852)で、ホーソーンはどのような創作技法を用い、「中間領域」を創出したのだろうか。
 ホーソーンと同時代人のトマス・コールはハドソン・リバー派としてアメリカン・ピクチャレスク、つまりアメリカ独自の風景を、自分の理想を反映した風景絵画のなかで構築したといわれる。同様に考えるならば、ホーソーンは、中間領域内にあるブライズデイルの風景を、現実の風景として写すのではなく、ロマンス的な要素を加えて描写することにより、ホーソーン流のピクチャレスクを創造したといえるのではないか。 
 本発表では、The Blithedale Romanceにおけるピクチャレスク性に目を向けることにより、視覚的描写とロマンスの関係を明らかにすることを目的とする。カヴァデールの語りの中にみられる、ピクチャレスクへの高度な感性を考察し、ゼノビアの墓と19世紀半ばに流行した田園墓地との類似について示したうえで、墓とピクチャレスクの関係について分析する。これらの議論を通して、ロマンスにおける「中間領域」の意義を再考したい。

 

現代散文

 

脱中心化、新自由主義、ユートピア

コルソン・ホワイトヘッドのZone Oneにおけるポスト・ポストモダニズムの考察

森下二郎(早稲田大学・院)

 

<発表要旨>

 1969年生まれのコルソン・ホワイトヘッドは1999年にデビューして以降、華々しい経歴を積んできている。著名な文学賞の最終選考や受賞はもちろんのこと、天才賞と呼ばれるマッカーサー賞も2002年に受賞している。近年は Underground Railroadのアマゾンプライムでのドラマ化を通じ、大衆文化にも影響を及ぼし始めている。
 ホワイトヘッドの小説としては5作目となる Zone One (2011)はゾンビアポカリプス後の社会を描いたポストアポカリプス小説である。作者・主人公共に黒人であり、アポカリプス後のトラウマを描いているという理由で、これまでの批評は、本作に人種差別を読み込んだり、9/11との関係性を読み解いてきた。本発表は、本作品の中心的主題がアポカリプス後のアメリカンフェニックスと呼ばれる暫定政府の新自由主義再建計画であることに着目しつつ、新自由主義の観点からの考察を試みる。もちろん、新自由主義観点から読み解くという行いもまた斬新ではないが、これまでの研究はアポカリプス後も新自由主義に支配されているという現代社会の想像力欠如を指摘するに留まっており、この作品がポストモダニズム的価値観である脱中心化を通じて周縁化された人々に着眼している点を無視している。そこで本発表は、アメリカンフェニックスの新自由主義復興計画に抗う人々に焦点を当て、Zone Oneをアポカリプス後の空白に人々が理想社会を想像し合う、ユートピアのせめぎ合いの小説として読んでいく。Zone Oneは、ポストモダニズム的ユートピアである、中心や壁がない世界の実現を前景化させ、それが新自由主義を超えうるかという問題提起をしており、その点でポストモダニズムを批判的に検証したポスト・ポストモダニズム小説であるといえよう。本発表は、このポスト・ポストモダニズムという新しい小説の可能性を探っていきたい。

 

 

エドワード・テイラーの詩作品における機織りのイメージの展開

「最後の演説」と「家政」を中心に

皆川祐太(東洋大学・非)

 

<発表要旨>

 本発表では、植民地時代の詩人エドワード・テイラーの詩作品において重要な比喩の一つである、機織りに着目する。確かに『瞑想詩』(Preparatory Meditations)にも描かれているが、このイメージの分析が最も行われているのは、「家政」(“Huswifery”)の批評においてである。『瞑想詩』と同じく、この作品もキリストによる救済をテーマにした詩だと考えることが一般的だ。そのため、テイラーの詩作品における機織りのイメージは、聖書に基づくキリスト教的な内容を表現するものとして、解釈される傾向にある。
 だが、テイラーにとって機織りは、精神的な次元のみを描く比喩ではない。宗教的な作品以外でも、テイラーはこのイメージを用いていたのである。彼がハーバード大学に在籍していた時に発表した彼の初期の作品の一つである「最後の演説」(“My Last Declamation”)にも、このイメージが描かれている。この詩のテーマは霊的なものでなく、また聖書的なものでもない。言語についてである。テイラーは英語が古典語よりも優れているということを表明するために、機織りのイメージを用いたのだ。
 この作品では、一本の糸に譬えられた英語が他の言語と結びつき、一枚の布として織り上げられていく過程が描かれる。英語は異質な言語との結合の産物であり、古典語よりも優れた言語である理由はその複合体としての特徴であると、彼は主張するのである。
 本発表では、「最後の演説」と「家政」における機織りの比喩を中心に、テイラーの詩作品の中でこのイメージがどのように展開したのか考察する。特に、異質なものの結合という「最後の演説」において表現された思想が、「家政」をはじめとする瞑想的な作品の中で神学的な意味合いを持つようになった点を指摘し、機織りが世俗的な内容を表す比喩から霊的な内容を表す比喩へと発展していった過程に光を当てる。

 

演劇・表象

 

あなたの目は騙されている

1990年代アメリカ映画の一傾向

青木耕平(東京都立大学・非)

 

<発表要旨>

 アンジェラ・ネイグルによるオルト・ライトの卓越した分析本 Kill All Normies(2018)によれば、オルト・ライトたちが最も好んで言及する映画はAmerican Psycho(2001)、Fight Club(1999)、Matrix(1999)の三作である。2021年1月6日、国会議事堂を占拠した暴徒の一部はQAnonと呼ばれる陰謀論者たちであり、彼らは映画 White Squall(1996)の劇中台詞 “Where We Go One We Go All” を団結のスローガンとした。在野の映画批評コレクティヴであるWisecrackは、They Live(1988)からEyes Wide Shut(1999)にいたる映画が、エスタブリッシュへの疑義を呈する意識を培養し陰謀論ムーブメントを結果として準備したと指摘している──ここで、いくつかの疑問が呈される。なぜ、2010年代のアメリカの右傾化を語るときに言及される作品の多くが1990年代前後に公開された映画なのだろうか? なぜ原作小説ではなく映画化作品なのか? なぜ、同時代ではなく21世紀以降にそれらが問題とされるのだろうか?
 このような関心を抱いて再度1990年代アメリカ映画に着目すれば、そこには「あなたの目は騙されている」という構図を持つ作品が多くあることが見えてくる。それは大別して三つに分けられる:① 映像としての叙述トリック、② 陰謀論、③ 間違った現実と外にある真の世界。これら三つは緩やかに繋がり、「夢」と「覚醒」をどの作品もテーマとして有している。フレドリック・ジェイムソンは「ポストモダンと呼ばれる時代にあって、陰謀は貧者の認知地図作成である」と90年代にマッピングしてみせた。多くの先行研究が1990年代を「ベルリンの壁崩壊」から「ツインタワー崩落」までに定めているが、冷戦体制が崩壊し、アメリカが世界唯一の超大国であった1990年代アメリカにおいて、貧者とは誰を指したのだろう? そして、現代の合衆国においては、貧者とは誰を指すのだろう? 本発表では、1990年代アメリカ映画を分析の中心に据え、「あなたの目は騙されている」という一傾向が見出せることを明らかにしつつ、その意味を考えたい。