〈6月例会のお知らせ〉

〈6月例会のお知らせ〉

6月25日(土)午後1時30分より

オンライン(Zoom・事前申込制)で開催いたします。
会員以外の方の参加も歓迎いたします。

参加申し込みは、6月中旬頃、支部HP に掲載します。

    

シンポジウム

 

“Each Age a Lens”

「円周」を拡げるエミリィ・ディキンスン

 

司会・講師:吉田要(日本工業大学)   

講師:梶原照子(明治大学)       

講師:朝比奈緑(慶應義塾大学名誉教授) 

 

 Emily Dickinson(1830-86)は生前、無名と言っていい存在だった。ごく限られた人にしか知られずに詩作を続けた彼女は、1800篇近い「詩」という「ランプ」に火を灯してこの世を去った。その後、「それぞれの時代はレンズとなり」、光が灯された彼女の詩は様々な形で映し出され、その灯りが届く「円周」は拡がり続けた(“The Poets light but Lamps-”: F930)。
 本シンポジアムはディキンスンの詩が後世にいかに受け入れられ、引き継がれ、浸透するに至ったのかを辿る試みである。彼女の詩作品は1955年にThe Poems of Emily Dickinsonが出版されてその全容が明らかになり、今やWalt Whitmanと並んで大きなアメリカ詩の潮流を形成している。彼女の詩が影響を及ぼしているのは詩だけではない。絵本、小説、音楽、映画、ドラマ、アート作品など、多岐にわたる。もちろん「円周」が及んでいるのはアメリカを含む英語圏だけにとどまらない。
 「円周」の拡がりを検証する手立てとして、本シンポジアムでは3つの視点を設定する。まずは20世紀初頭のイマジズム運動におけるディキンスン受容(Amy Lowellが中心)を辿り、次いで20世紀半ばから21世紀の女性詩人たち(Adrienne Rich, Sylvia Plath, Louise Glück)への影響を解析し、最後に、ディキンスンの草稿に関心を寄せた詩人たち(Jack Spicer, Susan Howe, 吉増剛造)に着目することを通して、「ランプ」の光が届く「円周」を可視化したい。

 
 

イマジストとしてのディキンスン

エイミー・ローウェルによるディキンスン受容を中心に

吉田要(日本工業大学)

 

<発表要旨>

 ディキンスン死後の1890年代に詩集3冊と書簡集1冊が刊行され、文壇に一定の認知を得たディキンスンはその後、文壇の表舞台からは一旦退いた。20世紀に入って彼女の新たな詩選集が出版されたのは1914年、イマジズム運動が隆盛を見せ始めた時期だった。
 イマジズムは19世紀までの詩学を見直し、20世紀以降の詩のあり方を模索する中で生まれた運動で、短命ではあったが、その後の現代詩に大きな影響を与えた。当初はEzra Poundが中心となっていたものの、自身の詩学を探求していたAmy Lowellがイマジズムに傾倒してパウンドに代わって旗振り役となり、イマジズムを推進する中心人物となっていく。そんなローウェルがディキンスンをイマジズムの先駆者として位置づけたことは、それ以降のアメリカ詩においてディキンスンが受容されていく軌跡の素地になったと考えられる。
 この発表では、1910-20年代にエイミー・ローウェルがディキンスンをイマジストとして位置づける過程、言い換えれば、20世紀にディキンスンが「再発見」される過程を検証する。ディキンスンと同様にイマジズムの先達の一人と目されたStephen Craneとディキンスンとの関連性や、イマジストとしての側面も持つCarl Sandburgとディキンスンとの交点などにも触れつつ、先駆的イマジストとしてのディキンスンを浮き彫りにすることを試みる。
 
 

苦痛、渇望、新生を 「斜めに語る」

プラス、リッチ、グリュックのディキンスン的詩学

梶原照子(明治大学)

 

<発表要旨>

 「通常の意味から / 驚嘆すべき真価を抽出し‐」「多くの絵の、秘密を明らかにする人」(F446) というディキンスンの「詩人」像は、後世の多くの詩人が仰ぎ見るものだろう。しかし、ディキンスンの詩の具体的な特徴を継承する詩作品はどれかと問えば、その答えは千差万別となる。ディキンスンの詩学の解釈に拠るからだ。
 20世紀後半にディキンスンの名や詩を著作に引用した詩人達のなかで、Adrienne Richはその影響を顕著に示す詩人と見做される。リッチは評論 “Vesuvius at Home” (1976年) によって、父権的な批評の「触れればこわれそうな女性詩人」像を転覆させて、自らの天才を知る強靭な詩人像をレズビアン・フェミニズム批評とともに打ち立てた。一方、リッチと同世代のSylvia Plathがディキンスンの継承者として位置づけられるのは稀だった。それはプラス晩年の詩のなかでディキンスンに直截的に言及したものが殆どなかったからだろう。ディキンスンの影響が顕著なリッチとその痕跡が隠れたプラスの相違は、フェミニズム批評の枠組みを超えた新たな視点での三者の検討を促す。
 近年のLouise Glückの詩と評論はその視点の発見の糸口となるように思う。グリュックがディキンスンとプラスを “a poet of private anguish” と評し、両者の詩の “great pain” に着目するとき、その評は自己言及的だ。グリュックの詩に流れる主題を〈苦痛、渇望、新生〉と読み解けば、ディキンスン、プラス、リッチもこの主題を共有すると気づく。では、主題を共有すれば詩のスタイルにおいてもディキンスン的なのか。表現の仕方によって、ディキンスンの詩風への近似の度合いは異なっており、その鍵はディキンスンの「斜めに語る」(F1263) 手法にある。
 本発表では、プラス、リッチの1960-70年代の詩を中心に〈苦痛、渇望、新生〉を「斜めに語る」ディキンスン的詩学を分析し、最後に今世紀のグリュックの詩へ接続したい。

 
 

ディキンスンの草稿に魅せられた詩人たち

ジャック・スパイサー、スーザン・ハウそして吉増剛造

朝比奈緑(慶應義塾大学名誉教授)

 

<発表要旨>

 1)西海岸の詩人Jack Spicer(1925-65)は、1955年に短い期間ではあったが、ボストン公立図書館に勤務し、トマス・ヒギンスン宛のディキンスン書簡を直に見る機会を得る。その経験を基に、トマス・ジョンソン編集『エミリ・ディキンスン詩集』(1955年)についての書評を著す。スパイサーは「密度の高い散文と、韻文が組み合わさった実験的試み」を書簡に読み取り、書簡から詩を抽出するジョンソン編集の問題点を指摘した。新たな『書簡集』の刊行を来年に控えた今、スパイサーの先駆的な見解を再考する。
 2)言語詩人Susan Howe(1937-)もまた、ジョンソン版を継いだフランクリン版の編集について疑問を呈している。草稿通りの改行がされず、スタンザに整えられていることを指摘し「詩人として、私はディキンスンがスタンザという形式で詩を書きながら、改行については無頓着であったとは思えません」と語っている。「視覚的な創造物」として草稿を解するハウの視点に注目する。
 3)吉増剛造(1939-)は、ディキンスンの筆跡を「巨きな風のよう」と評したことがある。吉増が心惹かれた草稿を取り上げ、ディキンスンへの語りかけの一端に触れる。
これら3人の詩人たちはいずれも、草稿に宿るディキンスンの息遣いに鋭敏な反応を見せている。こうした草稿への関心が、それぞれの作品において、どのように反映されているのかを探ってみたい。

 
 

分科会

 
 

近代散文

 

運ばれる身体

Pierre; or, the Ambiguities における舶来品とイザベルの移動

松丸彩乃(嘉悦大学・非)

 

<発表要旨>

 Pierre; or the Ambiguities(1852)は、Herman Melvilleがそれまで発表してきたTypee(1846)や、Mardi(1849)、Moby-Dick(1851)といった大洋を舞台とする作品とは異なり、マサチューセッツ州バークシャー地方に設定された架空の地サドル・メドウズおよびニューヨークという陸上を舞台としている。商業的成功を目論み家庭小説として執筆されたPierreだが、出版当時から現在に至るまで多くの批評家から失敗作であると指摘されてきた。同時代の作家・批評家のFitz-James O’Brienは「PierreにはMardiが持つ曖昧で夢のような詩的魅力を除いた狂気の全てがある」と評し、F. O. MatthiessenもPierreを失敗作の中でも「大失敗とみなされる方の」失敗作であると結論づけている。
 物語には多くの構成上の問題が存在し、the Ambiguities「曖昧さ」という副題の通り、全てが曖昧なまま若きピエールは破滅の道を歩んでいく。彼が破滅するきっかけとなるのが、異母姉を自称するイザベルとの出会いである。彼女の出自には多くの謎があり、彼女がどのようにサドル・メドウズに流れ着いたのかはイザベル自身の統合性に欠けた語りでしか説明されず、その信憑性を担保するものは一切ない。本発表では、ピエールを惑わすダーク・レディ、イザベルが移民である可能性に注目する。竹内勝徳はイザベルを当時著しく増加傾向にあったアイルランド移民として捉えるが、一方でAnna Brickhouseのように彼女を西インド諸島のフランス系白人と黒人の混血として解釈する研究も存在する。本発表では、イザベルが西インド諸島にルーツを持つ可能性を検討し、陸地という比較的狭い空間を舞台とするPierreの物語の空間を再考していく。
 

現代散文

 

*現代散文分科会は事情により発表者と内容が変更になりました。

ルッキズムをクリップする

Ted Chiang, “Liking What You See: A Documentary” におけるmoral enhancementとしての障害

宮永隆一朗(金沢学院大学)

 

<発表要旨>

 ルッキズムのない社会はどんな風に見えるだろう?
 台湾系アメリカ人作家Ted Chiangによる短編SF小説 “Liking What You See: A Documentary”(2002、「顔の美醜について」)は、ルッキズムを解決するにあたり、人の顔を美醜で判断できなくさせる装置 “calli” が発明されたとしたら、という思考実験的テクストである。バイオテクノロジーによって人類を「道徳的に向上させる」ことで社会問題の解決を図るcalliは、2010年代以降の認知倫理学で論争の的となっているmoral enhancementを先取りする。
 本研究はテクストがcalliというmoral enhancementを一種の「障害」として描くことに着目する。calliは相貌失認という認知障害をモチーフにするのみならず、その是非をめぐる作中の語りは――例えばcalliは人を美に対して「盲目」にするかといった――「比喩としての障害」に徹底的に貫かれる。一見したところDavid Mitchell & Sharon Snyderのいう “narrative prosthesis” を思わせるこうした語りは、しかし「障害」を道徳的劣位ではなく優位性と結び付ける点において、むしろ規範的なablismの言説を攪乱する。
 本発表はcrip theory / disability studies(とりわけMitchell & SnyderおよびRobert McRuerの議論)を補助線に、Chiangのテクストにおける「moral enhancementとしての障害」を分析する。これにより、本テクストが道徳的優劣を身体的優劣と重ね合わせるableistな身体観に挑戦すると同時に、moral enhancementの議論が陥りがちな優生学的言説をも退ける形で、身体の規範を脱臼させていることを明らかにする。

 

 

William Carlos Williamsによる短詩における俳句との類似性

齋藤昌哉(東京女子大学・非)

 

<発表要旨>

 当発表は、ウィリアムズの短詩とエコロジーとを結びつけるための前提としての考察である。一般に、俳句はエコ的な詩形式であると言われる。一方、ウィリアムズ作の短詩(例えば “The Red Wheelbarrow” )は俳句的であると述べられることもある。ならば、ウィリアムズの短詩のどのような性質が俳句の性質と具体的に類似しているのかを明らかにすれば、彼の詩のエコロジカルな性質がより鮮明に浮かび上がってくるはずである。第一に、ウィリアムズの短詩は、俳人・平井照敏がいうところの「純粋俳句」とよく似た性質を帯びており、それは照敏の言葉を援用するなら「何のかまえもない、ある純粋状態、見たもの、したもの、観じたものの意味づけのない、悲壮感からも人生ぶりからも離れた、あるきびしい絶対状態」を呈している。第二に、外界に存在するイメージの配合が大きな役割を果たしており、このことがモノのリアリティーを高めるための大きな働きを担っている。第三に、ウィリアムズのイメージの配合法は、パウンドの重置法とは異なり、客観写生的であるため状況説明的な様相を呈している。また配合されたイメージとイメージとの間には主役と脇役の関係性が認められる。第四に、第二・第三で述べたイメージ間の関係性は、モノの一定の時間内における動きについての表現を可能たらしめてもいる。最後に、ウィリアムズの “Young Sycamore” などは語り手がモノそのものに化す意識をありありと前景化しており、このことはウィリアムズの創作における態度が松尾芭蕉の「松のことは松に習え」という俳句の創作態度と同質であることを物語っている。因って、この態度そのものが、ウィリアムズの短詩に俳句との類似点を生む母胎であると仮定できる。
 

演劇・表象

 

アメリカ文学と演劇

21世紀アメリカ演劇受賞作品における多様性の傾向について

松本美千代(日本大学)

 

<発表要旨>

 テロとの戦いによって幕開けした2000年以降、アメリカ国内ではブラック・ライブズ・マターや#Me Tooの運動が顕在化し、白人層の生活不安の問題や保守派の台頭、移民や外国人への排外主義の風潮もくすぶっている。アメリカ演劇作品においても、黒人人種差別問題をはじめとして、ジェンダー、人工妊娠中絶に関する権利の是非、LGBTQ、障害者の人権問題など、社会状況を反映した多様性のテーマを扱う新世代の刺激的な作品が誕生している。
 そこで本発表では、激動の現代米国社会を映し出すアメリカ演劇の受賞作品における多様性のトレンドについて考えてみたい。アメリカ演劇における受賞作品は、地方劇場や小劇場、あるいは国外の劇場で高い評価を得て、ブロードウェイで上演される行程を経て受賞に輝いた作品であり、各年の世相や文化的背景を象徴している。多様な観客と批評家の評価に加えて興行的な成功を収めた一握りの受賞作品のリストは、いわば現代アメリカの諸相と変化の記録でもある。白人の俳優、作家、演出家が依然として支配的であるとの報告もあるブロードウェイにおいて、多様性の実現はどれほど進展しているかについて考察する。