〈2022年11月例会のお知らせ〉

〈 11月例会のお知らせ 〉

11月26日(土)午後1時30分より

慶應義塾大学三田キャンパス 南校舎446教室

*状況によりオンラインに変更する可能性がございます。
その際は支部HPでお知らせいたしますので、
事前にご確認くださいますようお願い申し上げます。

 

研究発表

 
 

ジャパニーズ・トミーと立石斧次郎

ミンストレル・ショウのアフロ・アジア

講師:大和田俊之(慶應義塾大学)

司会:齊藤弘平(青山学院大学)

 

 南北戦争以前にミンストレル・ショウで活躍したアフリカ系アメリカ人の芸人は、これまでに二人存在していたことがわかっている。ひとりはウィリアム・ヘンリー・レイン、別名マスター・ジュバであり、このダンスの名手はチャールズ・ディケンズの『アメリカ紀行』にもそのパフォーマンスの様子が詳細に描かれている。
 本発表で取り上げるのはもうひとり、トマス・ディルワード(ディルヴァード)、別名「ジャパニーズ・トミー」である。ブラックフェイスを「芸」とするミンストレル・ショウにおいて、そもそもなぜ彼はアジア系の芸名を採用したのだろうか。
 この問いを考察するために、ここでは同時代にアメリカを訪れた1860年(万年元年)の遣米使節団を参照する。使節団に通訳として参加した立石斧次郎は多くのアメリカ人を魅了し、一躍人気者となる。一九世紀アメリカのミンストレル・ショウ――それは、黒人などを「物珍しさ(curiosity)」の対象として面白がるエンタテインメントである――で活躍したジャパニーズ・トミーことトマス・ディルワードと、一見無関係に思える万延元年遣米使節団の立石斧次郎は、文化史的にどのように交差するのだろうか。
 本発表では、南北戦争以前より活動したひとりのアフリカ系アメリカ人芸人に焦点を当て、その芸人が自ら名乗ったアジア系の芸名を手掛かりに、一九世紀アメリカの娯楽産業におけるマイノリティー表象、とりわけアフリカ系とアジア系の相互交渉を検討してみたい。

 
 

分科会

 
 

近代散文

 

ヘンリー・ジェイムズのアレゴリー

松井一馬(中央学院大学)

 

<発表要旨>

 本発表では、ヘンリー・ジェイムズの生前最後の長編小説『抗議』(The Outcry, 1911)を中心にとりあげる。
この作品については、「過剰な精神的負担がない、いかにもジェイムズ的な物語」という発表当時の書評が端的に言い表しているだろう。実際、アメリカ人の富豪がイギリスの貴族階級にもたらした軋轢に金銭と芸術が絡んで人間関係が展開されていく、というまさしくジェイムズ「らしい」物語でありながら、この作品は短く、軽く、複雑な心理描写もなく、明快なハッピーエンドすら備えている。時事的な話題を扱ってベストセラーとなったことも含め、これほど「らしくない」ジェイムズ作品もめったにない。
 同時に、これほど批評家に軽視されてきた作品もめったにない。エズラ・パウンドがジェイムズの全作品を分析した長大な批評の中で、「『抗議』、逆戻り。鑑識眼への熱狂再び、劣った作品」としか触れられていない事実に、この作品の伝統的な評価は集約される。つまり、ほとんど顧みられてこなかったのだ。
 だが、この作品のジェイムズ「らしさ」とジェイムズ「らしくなさ」には再検討の余地がある。なぜならそれは、この作品において、典型的なジェイムズの作品世界に見慣れない存在が入り込んでいることを示すからだ。すなわち、「大衆」である。
 この作品では、大衆が明確な声を持ち、登場人物の誰もがそれを意識し行動原理としている。そのために、ジェイムズお馴染みの新旧大陸の国際関係も、金銭を中心とした人間関係も、芸術とその所有者またはその理解者との関係も、大衆を加えた三項関係へと軸がずらされていくのだ。
 確かに、パウンドが言うように、この作品はジェイムズのキャリアにおける「逆戻り」かもしれないが、大衆が社会と文化の中心となる20世紀における「逆戻り」であることを忘れてはならない。本発表はこの観点から、大衆との関係をどうジェイムズが描いたのかを探っていく。

 

現代散文

 

「愚か」な不幸

The Assistant における悲しみの表象

岩佐頌子(東京大学・院)

 

<発表要旨>

  誰しもが忘れてはならないと思う悲惨な出来事がある一方で、本人でさえその苦々しさを忘れ同じ失敗を繰り返してしまうような「愚かな不幸」が存在している。その本人でさえ注意を払わず、日常に埋没してしまうような悲しみをいかに記述することができるのだろうか。その問題はBernard MalamudのThe Assistant (1957)の主人公モリス・ボーバーという人物の再考においても重要な役割を担っている。
 これまで、主人公であるユダヤ人のモリス・ボーバーは人に対して信仰に基づく誠実さをもって接していたにもかかわらず、度重なる不運に翻弄され死に至る悲劇のヒーローとして語られてきた。そして彼のもとにやってきた異教徒のフランク・アルパインはモリスのその姿に心を動かされユダヤ教に改宗するため、二人の間に疑似的な父子関係を見る研究も多く存在する。しかし、彼は本当に悲劇的な境遇のなかでそれでも信念を貫く「聖人」的な人物であったのだろうか。たしかに利益にならない長時間労働をモリスが行っているのも事実ではあるが、そこにはむしろ信仰とは異なる行動原理が働いてはいないだろうか。
 本発表では、モリスの経験した「愚かな不幸」に注目しながらモリスの行動原理についての再考を試みる。それにより、他作品でホロコーストの問題や移民の苦難を描いたマラマッドが、それとは違う形の悲しみをいかに表象しようとしていたのかを明らかにし、同時にモリスの人物像および、モリスとフランクの関係について新たな視座を提供したい。
 

 

21世紀のアメリカ詩

抒情と政治

田中裕希(法政大学)

 

<発表要旨>

 21世紀のアメリカ詩はどこへ向かっているのか。現代詩研究の対象となるのは評価の確立された重鎮の詩人であることが多いため、これからのアメリカ詩の方向性が掴みにくい。本発表では若手・中堅の詩人に注目することで、アメリカ現代詩がどのような傾向を帯びてきたのか見ていく。
 近年のアメリカではBlack Lives Matterのような政治的な動きと連動するかのように、BIPOC詩人(Black, indigenous and people of color)が台頭し、差別や暴力を受ける当事者の立場から書く詩が主流になりつつある。つまり「私」の感情を表現するためには、公の存在を語らずにはいられない、抒情性と政治性の融合を図る動きである。その根幹にあるのは、個人の世界に根ざす従来の抒情詩では、暴力や政治的分断といった現実を表現できないという問題意識だ。こうしたアメリカ詩の現状、またアメリカ詩壇で近年起こったことを概観したあと、若手詩人Solmaz SharifとDerrick Austinの詩を例にとり、大きな傾向が実際の作品にどのように反映されているのか紐解いていきたい。

 

演劇・表象

 

ケアするシェパード、ケアされるシェパード

The One InsideSpy of the First Person

矢口裕子(新潟国際情報大学)

 

<発表要旨>

 サム・シェパードが死の前後に出版した二編のフィクション、The One InsideSpy of the First Person(ともに2017)は、The Motel Chronicles(1982)の系譜に連なる自伝的・詩的散文であり、姉妹作(または兄弟作)と呼ぶべき一つの物語を形成している。老病死というある意味であまりに普遍的(かつ今日的)なテーマと、家族の解体というあまりにアメリカ演劇的かつシェパード的なテーマを扱う二作を、シェパードがシェパード演劇及びシェパードという演劇体に対して書いた結末であると、発表者は考えている。
 が、今回はそちらのいわば主筋は深追いせずに、二作を考える上で副筋といえるケアの問題に焦点をあてる。ALSという難病を得たシェパードは、家族や親密な他者によるケアとサポートを受けて最晩年の生を生き、最後の二作品を完成した。マッチョなカウボーイという自らのパブリック・イメージ、バトラーが近年の個人主義批判において想定する、「他者を必要とせず一人で立つ男性主体」の対極を生きたのが、シェパード最後の日々だった。
 話はそこで終わらない。 The Motel Chronicles に多くの写真を提供し、往復書簡集Two Prospectors及びドキュメンタリーShepard and Dark (ともに2013)の主人公であるジョニー・ダークは、シェパードの友人であり義理の父でもあった。ダークの妻、つまりシェパードにとって義理の母であったスカーレットは失語症を患い、A Lie of the Mind(1985)のベスのモデルになったという。最晩年のシェパードの周囲に出現したポスト・ファミリーにおいて、シェパードはケアされる立場だったが、その40年近く前に経験していたもう一つのポスト・ファミリーにおいて、彼はケアする側だった。最後の二作を経て振り返る時、Lieのベスは、暴力の加害性と被害性を内面化し、ケアする立場とケアされる立場を経験することになるシェパードが、予言的に造形した人物像と思えてくる。