〈2023年1月例会のお知らせ〉

〈 1月例会のお知らせ 〉

1月21日(土)1時半より

慶應義塾大学三田キャンパス 南校舎 446 教室

*状況によりオンラインに変更する可能性がございます。
その際は支部HPでお知らせいたしますので、
事前にご確認くださいますようお願い申し上げます。

 

研究発表

 
 

アンビエンス/環境詩学を通してブレンダ・ヒルマン、

和合亮一、アン・ウォルドマン、C.D.ライトを読む 

講師:高橋綾子(兵庫県立大学)

司会:山中章子(日本工業大学)

 

 環境詩、環境詩学に関して本格的に討議されるようになるのは、エコクリティシズムの確立から15年程要し、英文学者のアンガス・フレッチャーの『アメリカ詩のための新理論—— 民主主義、環境、想像力の未来』(2004)においてであろう。そこで環境詩学とは「周囲や世界を取り巻いている感覚をくみ上げる方法、つまりアンビエンスの感覚」、つまり、人間、非人間に関わらず、その周辺との相互関係によって生じる感覚によるものであると述べ、ようやく、アメリカ詩における環境詩学が一定の方向性をもってきた。
 アメリカ詩において、環境詩は従来の nature poem が有する射程を広げつつ、細分化していると言える。つまり、詩人たちが彼らの生活の周辺の世界との関係性を取り上げ、個人の問題を超えて普遍的な問題や価値を問題視し、また同時に彼らが環境との関わりによって詩言語を有機的或いは無機的に変化させている。同時に、環境詩学はエコクリティシズムの指標となる場所の感覚、生命中心主義、環境正義、エコフェミニズムなどの指向を有している。 
 一方日本に目を向けると、世界的には災害詩をエコクリティシズムから論じる事例はあるにもかかわらず、東日本大震災以後の日本の災害詩とエコクリティシズム及び環境詩学が接続されていない点にも漠然とした疑問をもった。この疑問に加え、ポストモダンの詩人たちがエコメミーセス(エコロジカル疑似物)を通し世界との感覚を表象することに対して、環境詩学というアプローチで解決できないかと考えたのが拙書『アンビエンス—— 人新世の環境詩学』執筆の動機である。本発表では、福島の現代詩人和合亮一に加え、ブレンダ・ヒルマン、C.D.ライト、アン・ウォルドマンの作品をとりあげ考察する。

 
 

分科会

 
 

近代散文

 

19世紀アメリカン・スピリチュアリズムと女性解放運動

進歩主義とジェンダーの軛

稲垣伸一(実践女子大学)

 

<発表要旨>

 1848年ニューヨーク州ロチェスター近郊の村に住むフォックス姉妹宅で起こった心霊現象をきっかけに、アメリカでは人間の死後の霊と人間とが交信できると信じるスピリチュアリズムが流行した。スピリチュアリズムを信奉した人々の多くは、調和した理想的な天上の世界に霊が住むと信じ、そこに住む霊からのメッセージを得ることにより、地上においても天上のような理想社会を建設することを目指した。そのためスピリチュアリストは社会矛盾を解消しようと様々な社会改革を指向し、その一つが女性の地位向上であり女性解放だった。本発表では、急進的社会改革を目指した19世紀アメリカン・スピリチュアリズムを女性解放運動との関係で考察する。
 スピリチュアリズムの急進性は、多くのスピリチュアリストが共有したと言われる結婚制度廃止論と結びついた「フリー・ラヴ」思想に認められる。その一例として、スピリチュアリストであるMary Gove Nicholsは、女性の身体への関心から水治療を実践し、また結婚制度を批判した。フリー・ラヴァーであるニコルズが示したように、スピリチュアリズムは過激な社会改革思想を内包していた。しかしその反面、スピリチュアリズムがアメリカで流行した背景には、社会が構築した19世紀のステレオタイプ的女性像に多くの女性霊媒が合致していた、という事情があったことも指摘される。つまり女性解放運動家が自らの思想を発信することに苦心する中、女性霊媒たちはいわゆる「女性らしさ」を演出することによって社会から受け入れられたとも考えられる。このようなスピリチュアリズムの急進的あるいは進歩主義的とも言える側面と、それとは相反する側面とを、ニコルズの自伝的小説 Mary Lyndon (1855) やHenry Jamesの The Bostonians (1886) を援用しながら考えていきたい。

 

現代散文

 

「男のいない世界」

Flags in the Dust における「母」と「娘」

萱場千秋(立教大学・院)

 

<発表要旨>

  Flags in the Dust (1973) は、William Faulknerが構築したヨクナパトーファ世界の起点となる名家、サートリス家にまつわる物語である。戦いを好む男の血筋として名を残してきたサートリス家は、しかし、物語現在1919年、女によって維持されている。始祖である故サートリス大佐の妹ミス・ジェニーは、家長オールド・ベイヤードの身辺の必要を満たしつつ、自暴自棄の帰還兵ヤング・ベイヤードを情け深く支えている。また、ヤング・ベイヤードと結婚したナーシサは、不安定な夫に寡黙に寄り添い、男児を出産する。
 本発表では、「母」そして「娘」としての女性像に注目することにより、衰退しゆく南部家系を支える女の問題を明らかにする。23歳で未亡人となったミス・ジェニーは、「よそ者としておろした根が暴力的に断ち切られた」とあるように、娘時代から苦労を強いられてきた。彼女がナーシサに結婚を促すのは、サートリス家存続の狙いがあったといえど、何より両親のいないナーシサの幸せを心から願っていたからである。他方、「男にこそ不幸の根がある」と言うナーシサは、南部の父権的構造を半ば直観的に察知し、結婚を拒絶してきた。だが、ヤング・ベイヤードの看病の合間、応接間に足を運んだ彼女は、ミス・ジェニーの不屈の姿を想い、無意識に涙を流す。「母」の忍耐を理解したとき、ナーシサは結婚を受け入れたのである。ここには、互いを想うゆえにこそ父権制を反復させる行動をとってしまう、母娘の関係性が描かれている。
 物語は最終的に、ナーシサによる息子の名付けにより、2人の母娘の関係性を決裂させる。サートリス家伝統の名の拒絶は、父権制への抵抗となる一方、「母」たるミス・ジェニーの生き様をも否定することになるからである。言い換えれば、ナーシサが求めてきた「男のいない世界」の実現は、母娘の連帯の喪失を伴っているように描かれている。こうした点を踏まえ、同作に描かれる南部に生きる女の生のあり方を読み取りたい。

 

 

冷戦と自然

エリザベス・ビショップの A Cold Spring を読む

金澤淳子(東京理科大学)

 

<発表要旨>

 エリザベス・ビショップの A Cold Spring が出版されたのが1955年。1947年から1955年までの詩が収録されている。ロバート・ローウェルに宛てた手紙で、ビショップは詩集出版に向けて書き溜めた詩について語り、自身のことを “I’m really a minor female Wordsworth.”と書いている。確かにビショップの自然描写には「自然愛好者」の眼差しを認めることができるのだが、一見、牧歌的な風景には不自然な仕掛けに出会う。
 この詩集の詩を書いていた時期は、ビショップにとって公私ともに苦労の多い時であった。1949年から1950年には議会図書館詩学顧問職の公職に就いている。冷戦期のビショップが政治の中枢ワシントンでいかに緊張を強いられたかはスティーヴン・アクセルロッド、カミーユ・ローマンの研究に詳しい。ビショップが精神分析医ルース・フォスターに宛てた書簡では、幼少期の暗い体験を語り、体調不良、アルコール依存、自己嫌悪に苦しむ姿がある。本発表では表題詩 “A Cold Spring”を中心に取り上げながら、A Cold Spring のなかで描かれる自然と、背後の不穏な時代との関わりを探りつつ、この時代に“minor”な「女性」詩人として自然の主題を取り上げることの意味を考察する。

 

演劇・表象

 

労働の尊厳を求めて

アメリカ中産階級を再考する

中川智視(明治大学・非)

 

<発表要旨>

 昨今、マイケル・サンデルのThe Tyranny of Merit(邦題『実力も運のうち』)をはじめとして、グローバル・エリートの振る舞いに疑問を呈する論考があいついで出版されている。
 この問題をより深く考えるうえで避けて通れないのが、アメリカの中産階級のあり方なのではないかと発表者は考えている。この中産階級は一枚岩の存在ではない。用語の適切さはともかくとして、上位層と下位層に分けることができる。その内部にも、さらなる区分がある。そしてこの区分を生じさせるさまざまな要因も、押さえる必要があると言える。職業や収入も、むろんその要因に含まれるであろう。あるいはグローバリズムへの賛否も挙げられるだろう。
 フランシス・フクヤマは、中産階級を把握する観点が社会学と経済学で異なっていると、Political Order and Political Decay(邦題『政治の衰退』)の中で指摘している。そこで彼は、前者の視点のほうが重要であるという見解を示す。彼はこれを「政治的観点」としているが、発表者はこれをむしろ文化的観点であると考えている。アメリカの中産階級は上位層と下位層問わずに、いずれも根底の部分である文化的価値観を共有している。それがいったい何なのかを考えてみたい。
 以上の観点から、本発表ではまず、サンデルらが論じるグローバル・エリートに対する批判の系譜を探る。それから上位と下位の中産階級の相違点を検討して、両者が共有している文化的価値観を続けて考える。ついで19世紀前半アメリカが建国の途上にあったころに遡って、中産階級が上位と下位に分化するところの起源を考察してみたい。