〈2024年3月例会のお知らせ〉

〈 3月例会のお知らせ 〉

3月23日(土)1時半より

慶應義塾大学三田キャンパス 南校舎 445 教室

*状況によりオンラインに変更する可能性がございます。
その際は支部HPでお知らせいたしますので、
事前にご確認くださいますようお願い申し上げます。

 

研究発表

 
 

Hannah Webster FosterのThe Coquetteにおける視点の問題

講師:野口啓子(津田塾大学)

司会:生駒久美(東京都立大学)

 

 建国期のアメリカで人気を博した「誘惑小説」の一つ、Hannah Webster FosterのThe Coquette (1797)は、副題に「事実に基づく小説」とあるように、実際に起きた若い女性の悲劇を物語化したものである。批評家のキャシー・デイヴィッドソンが初期アメリカ小説のほとんどが教育目的をもっていたと指摘するように、この小説もヒロインの悲劇についていたずらにセンセーションを煽るよりも、これを教訓とし、無分別でロマンティックな感情に流されて誤った道へ走ることのないよう若い女性読者に警告する物語となっている。
 主人公エライザ・ウォートンは、たしかに、最後には自らの過ちを認め、その身を神に委ねているが、しかしその一方で、彼女の(一人称語りの)手紙を注意深く読むと、そこには共和国の娘としての自由への強い想いや、結婚という制度そのものに疑問を投げかける視点がある。本発表では、二人の求婚者の間で揺れるエライザの懊悩から彼女の社会や社会制度への批判を読み取ると同時に、対照的な二人の求婚者、ボイヤーとサンフォードの視点からみたエライザ像を比較することで、この書簡体小説が孕む視点の問題に言及したい。

 
 

分科会

 
 

近代散文

 

「ロマンス」の崩壊

『ブライズデイル・ロマンス』における共感

田島優子(上智大学)

 

<発表要旨>

 ナサニエル・ホーソーンは全ての長編作品において「共感」(“sympathy”)という語を多用している。共感の概念は18世紀のアダム・スミスらによる道徳哲学の流れを汲むが、ホーソーンが執筆活動を行なっていた19世紀半ば、アン・ダグラスの言う「女性化」したアメリカ社会においては、共感はほとんど文化の一部と化していた。また当時、女性解放運動や奴隷解放運動といった社会改革が活況を見せるが、改革者らはその活動において戦略的に人々の共感に訴えていたことが指摘されてきた。『ブライズデイル・ロマンス』においても、現に語り手カバデイルは隣人同胞間の共感的要素に社会実験ブライズデイルの目的を見出している。本作はブルック・ファームという社会実験の場をモデルとして取り上げているのみならず、ホリングズワスという博愛主義者や、ゼノビアという女性解放論者を描いており、「共感」の主題は重要な意味合いを持っている。
 注目すべきなのは、ホーソーン作品において、共感がしばしば女性的な能力、想像力として描かれるという点である。例えば冒頭で生来の優れた共感能力を発揮するホリングズワスは「どこか女性的なところ」があるとされる。そして作品終盤で恋人に捨てられた女性、ゼノビアの見せる激しい嘆きの身振りは、単なる理念としての共感とは異なる、現実味を帯びた深い共感へとカバデイルを導く。ゼノビアという女性が垣間見せる葛藤は、カバデイル/ホーソーンの物語を、象徴と寓意による自閉的なロマンス的世界から、「現実」の中へと引きずり出すことになる。
 本発表では、ゼノビアという女性登場人物のもたらす共感に着目することによって、最終章、語り手のプリシラへの想いの告白の場面の意味を再考するとともに、ロマンスとしてのカバデイルの物語が最終的には瓦解することを明らかにしたい。

 

現代散文

 

寓話としての都市

フラナリー・オコナーWise Bloodにみる模倣と形骸化

佐藤優果(慶應義塾大学・院)

 

<発表要旨>

 フラナリー・オコナーが1952年に発表したWise Bloodは、広告に囲まれ、ものを消費させられ、神を信じない人々が住まう架空の都市トーキンハムが舞台となっている。アトランタをモデルに造形されてはいるものの、不自然なほどに記号化された場所で、ヘイゼル、イーノック、サバスら若者たちは、キリスト教的なもの、映画、家族など憧憬の対象となるものを自らの生において再現しようとし、それぞれの方法で他者と関係を築こうとするが、そのほとんどは失敗に終わる。
 そのトーキンハムという都市を象徴するような存在が警察である。本発表では、警察の存在に着目し、寓話化された都市で模倣と形骸化がどのように行われているのかを提示する。形式的にパトロールを行い、規律を市民に強制し、ヘイゼルの殺人という罪そのものを感知することができない警察官が本作にはたびたび登場するが、先行研究において、その存在はそれほど注目されてこなかった。警察という役割を演じているだけかのような彼らの仕事ぶりは、中身と外見とが一致しない、空回りした模倣を試みる作中の人々の極地とも言える存在である。ヘイゼルがトーキンハムで見た、上下運動を繰り返す機械仕掛けの広告のように、この都市の警察は目的意識もないままに、うわべだけのパトロールを続ける。
 「車を持たない人には免許は必要ない」とヘイゼルの車を土手から突き落としたように、現実をルールに合わせるよう無理強いする警察は、なぜ頻繁に現れるのだろうか? オコナーのキャリアの初期に書かれたとはいえ、ちぐはぐで過度に虚構的な存在がひしめきあう本作において、トーキンハムという都市は神を忘れた虚栄の市であるだけではなく、根源的な理由を知り得ない掟の前に広がる、正義が不在中の場所であることを考究したい。

 

 

神話を生きる

Diane di Prima のLoba という神話の諸相

小川聡子(共立女子短期大学・非)

 

<発表要旨>

 ビート派の女性詩人でサンフランシスコの桂冠詩人でもあったダイアン・ディ・プリマ(Diane di Prima, 1934-2020) がその生涯をかけて書き続けたのが『ロウバ』(Loba, 1978,1998) という長編詩である。1971年に狼の夢をみたことがきっかけとなり、この詩篇は書きはじめられた。その狼はエズラ・パウンド (Ezra Pound) の詩 “Piere Vidal Old” に出てくる雌狼にちなんで Loba と名付けられた。Loba は詩人のペルソナであり、母であり、ミューズであり、女神であり、守護神でもある。すべての詩はLoba から「受け取った」ものであり、その言葉はLoba を通して詩人に語られる。様々な神話や物語、伝説上の女性の元型が登場するが、それらの神話や物語は、研究したというよりも、「生きた」ものだ、とディ・プリマは述べている。神話を「生きる」とは、どういうことなのだろうか?また、私たちが今神話を読むことにどんな意義があるのだろうか?
 アラスカに生きるものたちを写真と文章で記録した星野道夫は、晩年極北の先住民たちが共有するワタリガラスの神話を追いかけていた。神話には、科学の知が語りえないこと、私たちと世界とのつながりを語る力がある、としてこのように述べている。「ホモサピエンスの物語にまだ時間が残されているならば、もう一度、そして命がけで、私たちの新しい神話をつくらなければならない時が来るのかもしれない。」(Arctic Odyssey 7)
 Loba は命がけで紡がれた私たちの時代の神話である。ディ・プリマがどのように神話を生きたのか、狼の神話や伝説、物語なども交えながら考察してみたい。

 

演劇・表象

 

ポール・ストランドとタオスの<アメリカン・ルネサンス>

貞廣真紀(明治学院大学)

 

<発表要旨>

 1920年代、Mabel Dodge LuhanのLos Gallosは多くのモダニストに活動の拠点を提供した。20世紀初頭にはサンタフェにはすでに画家のコロニーがあり、20年代半ばにはMary Austinが移住して先住民やイスパノの文化保存に取り組んでいたが、ルーハンはサンタフェからは一定の距離を保ち、タオスに独自のアーティスト・コロニーを作ることを目指していた。もともとグリニッジ・ヴィレッジにサロンを開いていた彼女は、スティーグリッツ・サークルのMarsden HartleyやJohn Marin、Georgia O’Keefeらを次々に呼び寄せ、タオスのモダニズムを開花させることになる。本発表では1929年から32年にかけてタオスを訪れたPaul Strandを中心に取り上げ、Ansel AdamsとMary Austinの共作Taos Pueblo(1930)とも比較しながら、今日批判されることが決して少なくないニューメキシコの風景写真を改めて考えてみたい。