〈3月例会のお知らせ〉
2019年3月23日(土)午後1時30分より
慶應義塾大学 三田キャンパス
研究室棟A・B会議室
ジェイムズ・フェニモア・クーパーのアメリカの語り方
Littlepage三部作を中心に
講師:若林麻希子(青山学院大学)
司会:野口啓子(津田塾大学)
Littlepage三部作(Satanstoe [1845], The Chainbearer [1845], The Redskins [1846])は、ジェイムズ・フェニモア・クーパー晩年の歴史小説であり、フレンチ・アンド・インディアン戦争中の1758年から1845年に至る合衆国アメリカの歩みを、Littlepage家四代の視点から描き出している。辺境人Natty Bumppoを主人公として展開するLeather-Stocking五部作と時代背景を一部共有するものの、Littlepage三部作が語りの中心に据えるのはニューヨークの地主階級であり、その物語はアメリカにおける民主主義的理想の頽廃に警鐘を鳴らす国家言説として評価されている。本発表では、Littlepage三部作がニューヨークを舞台にした地方主義文学であるその原点に今一度立ち返ることによって、国民文学創生期のアメリカにおける地域主義的葛藤に光を当ててみたい。ニューヨークという伝統的に多元主義的価値観に特徴づけられた地域を舞台に、クーパーは如何なる「アメリカ」というヴィジョンを打ち出すのか?その語りのあり方を解き明かすことによって、ナショナリズム高揚の時代に内在する地域主義の問題に考察を加える予定である。
女性にとってのアメリカン・ルネサンス
Caroline Wells Healey Dall, Transcendentalism in New Englandを中心に
伊藤淑子(大正大学)
<発表要旨>
19世紀なかばの超絶主義を中心とする文学現象を「アメリカン・ルネサンス」と呼び、その名を定着させたのは、およそ1世紀を隔てたF. O. Matthiessenの American Renaissance: Art and Expression in the Age of Emerson and Whitman(1941)であるが、それは突然に現れた画期的な出来事というより、積み重ねられた論考の集大成ととらえるべきものであろう。すでに19世紀に、同時代的に、その現象を説明しようとする数々の試みがあったことは、Charlene Avalloneが “What American Renaissance? The Gendered Genealogy of a Critical Discourse”(PMLA, vol. 112, no. 5, 1997)で論証しているが、思潮のうねりのなかで、それがのちの時代に向けて大きな変化を生みだしていることをアメリカン・ルネサンス期の作家たちは当事者として実感していたといえるだろう。
その時代を共有したからこそ、Margaret Fullerは超絶主義的な精神の高揚と拡大を謳うことによって、アメリカにおける女性の権利の主張に文学的な表現を与えることができたといえる。そして女性の権利の主張とそのレトリックは、Fullerに続く女性たちに受け継がれていく。女性たちの言説の系譜をたどる試みは、いまさかんに行われていることである。
本発表は、これらの研究成果をふまえながら、アメリカ文学のキャノンが男性中心に形成されていくなかで、一方で時代思潮をみずから形成するという自負をもち、しかしながら一方では女性であることによる制約と抑圧に直面しなければならなかった女性たちにとって、アメリカン・ルネサンスとはどのような意味をもち、それにどのように対峙したのかをCaroline Wells Healey Dallを中心に考える。Fullerの海難事故を受けて、代わりに女性の権利集会の運営に当たったPauline Davis、そしてDavisが始めたThe Unaを継承したDallという系譜を軸にとりながら、DallのTranscendentalism in New England(1897)を女性によるアメリカン・ルネサンスに対するアイウィットネスの一つとして読み解きたい。
農家女性たちの声
Now in Novemberが提起する問題
山﨑亮介(一橋大学・院)
<発表要旨>
1930年代に、主に工場労働に従事させられる労働者たちの困窮と資本主義による搾取の様相を描いた同時代の作品が多く登場するなかで、同じ時期を生きた農業に携わる労働者たちやその家族を作品のテーマにした小説も描かれた。それらの作品で舞台となる農地のほとんどはもはや緑豊かな田園風景ではなく、管理が困難な土地の不毛性と常に隣り合わせである。僅かな収穫が見込めるときでさえ、実った作物は市場システムに収奪されてしまい、いかに農家たちが自分たちの接する農地との関係性から切り離されてしまったかが提示されている。本発表において着目するジョセフィン・ジョンソンの第1作目の小説である Now in November (1934) もこの文脈に位置付けることができるだろう。
ジョンソンは決して多くの小説を世に送り出したわけではないが、本作品は1935年にピュリッツァー賞を受賞したことで作者の代表作として知られる。作品の詩的な文体や登場人物たちの繊細な内面を細やかに描いた形式が当時の書評においては大きく評価されたが、他方で、その後労働運動に取り組んでいく作者自身の反資本主義的精神が色濃く反映された第2作目と以降の仕事は厳しい評価を受けたことも同じく明らかになっている。しかし前述したように Now in November には当時の農業労働者たちが抱えた労働の問題に留まらず、階級的差異や人種差別、そしてジェンダー規範に根ざした社会的抑圧が描きこまれているのであり、主に1990年代前半から今日までに、本作品を再評価する先行研究が登場してきている。
本発表では、本作品において描かれている農業労働者たちが資本主義的諸関係のなかに組み込まれていく過程について考察しながら、同時にその過程がどのように物語の中心にいる農家女性たちとその労働に影響しているのかという点について論じていきたい。
Robert Frost’s Scared Mind
ダークネスが包含するもの
狭間敏行(創価大学・非)
<発表要旨>
不可解な現象や言動に接し、我々はしばしば恐れ・Scareという感情を抱くことがあるかもしれない。理解が及ばぬ存在を前にして、不快感を抱くのは取りも直さず、知・把握という営みが人間に備わった根源的な本能であることを証していよう。牧歌的に瑞々しい自然との邂逅を謳い我々を誘う “The Pasture” などの詩群も印象深いが、一方でフロストには、自然や人間などの不可解な他者を念頭に、把握を試みる詩群も多い。その試みに成功し、晴れ晴れと人知を肯定する詩はほとんどない。むしろ把握を試みている自己へ内的にフォーカスする詩や、把握することの困難さを前に逡巡する詩群が目立つと言える。
フロストがキャリアの中盤に発表した詩集 A Further Range 収録の作品 “Design” では、薬草の茂みに蛾、捕食者としての蜘蛛、本来は青々としているはずのこの草も含め全ての事物が白く描かれる。観察者はこの光景に、自然の営みを貫いているだろう一種の真理を垣間見て慄然とし、それを“design of darkness”と表現する。全面的に「白く」統一されている光景の中で、この不可視なはずの真理が担う暗色は対照をなしてはいる。ではこの相反する色はまさに対立するイメージを持ちうるものか、はたまた、補強し合う観念を表現しているのか。ここでフロストは目前にある事象の向こうの、知の対象としての真理を「ダークネス」と見立てることにより、知り、または把握するという、他者であり世界(時には相対化した自己でもあろう)への向き合い方をどう描こうとするのか。その他数編の「知る」営みを謳い、あるいは「恐れ」の心理を描く作品群にも目を向けながら、本発表ではフロストが詩世界で扱う「人知」について、語り手たち一人間側のありようへ焦点を当てながら考察していきたい。
光の政治学
リチャード・フライシャー『マンディンゴ』における色調と身体
早川由真(立教大学・院)
<発表要旨>
リチャード・フライシャーが監督した『マンディンゴ』(Mandingo, 1975年)は、1957年に出版されたカイル・オンストットによる同名の小説を映画化したもので、南北戦争以前のアメリカ南部における奴隷制の実態を描いたフィクションの作品である。ファルコンハーストという架空の農場を舞台に、奴隷制に囚われた人々を浮かびあがらせたこのフィルムは、グロテスクなまでに克明な人種差別の描写や、大胆な性と暴力の描写によって様々な議論を引き起こした。公開当時は低評価に終わったが、アンドリュー・ブリットンやロビン・ウッドら一部の批評家による再評価を経て、現在では一種のカルト・ムービーとして認知されつつも、奴隷制の問題を描いた傑作としてしばしば議論の対象になっている。しかしながら、先行する論文や批評テクストにおいては、この作品のより根源的な要素であると思われる光と身体の関係についてはほとんど論じられてこなかった。蓮實重彦による「淀んだ茶褐色の根本的な逸脱性」という短い指摘はあるが(『映像の詩学』)、本作品の特異性はまさに白さや黒さへと還元されない微妙な色調の領域にあるのだ。その微妙な色調は、キャラクターの同一性という、映画的身体を規定する原理的な問題とも密接に関わるものである。
映画における身体は、現実の身体や、演劇において舞台上に立つ身体とは、まったく異なる存在である。それは、なんらかのキャラクターである以前に、映写機から投影され、波や粒子としてうつろう光の像であるはずだ。本発表が明らかにするのは、『マンディンゴ』における微妙な色調でうつろう光の像たちが、白や黒といった記号に収斂され、同一性を備えていくプロセスである。分析を通じて、この作品における肌の色、性、さらに生命をめぐる問題が、まさに光の描く身体のポリティクスによって提示されていることが浮かびあがってくるだろう。