〈2020年度3月例会のお知らせ〉
2021年3月27日(土)午後1時30分より
オンライン(Zoom・事前申込制)で開催いたします。
詳細は、こちらをご覧ください。https://www.tokyo-als.org/2021/03/2020march_online/
会員以外の方の参加も歓迎いたします。
ダム建設公共事業とコロンビア川表象史
ニューディールから冷戦まで
講師:馬場聡(日本女子大学)
司会:山口和彦(上智大学)
コロンビア川を擁する太平洋岸北西部一帯は、地域を潤す豊かな水資源に恵まれている。とりわけ、カスケード山脈の西側にあたるオレゴン州西部はコロンビア川の中・下流域に加え、スネーク川やウィラメット川に代表される数々の支流が流れ、コロンビア川水系に潤う「緑の大地」と呼ぶにふさわしい。もっとも、これまでコロンビア川水系が手つかずのままの「自然な」状態であったわけではない。ニューディール期以降、治水や電力供給を目的として、この水系には無数のダムが建設されてきたし、マンハッタン計画のプルトニウム精製拠点、ハンフォード・サイトもこの流域に位置している。本発表ではこの地域の河川開発表象の変遷を追うことで、ナショナリズムに回収される地域の状況やそれに対抗する言説について考えてみたい。前半では合衆国政府が手掛けたダム建設プロモーション映画、Hydro: Power to Make the American Dream Come True (1939) とそのリメイク版The Columbia: America’s Greatest Power Stream (1949)について検討する。後者においては全編にウディ・ガスリーの書き下ろし楽曲が挿入されている。ニューディールから冷戦という時代の変化を踏まえて、政府の公共事業と急進的フォークシンガーとの奇妙な組み合わせについて考察する。後半ではコロンビア川水系の開発を描いたさまざまな文学作品に目を向ける。特に太平洋岸北西部における冷戦期公共事業という文脈からKen KeseyのOne Flew Over the Cuckoo’s Nest (1962)を読み直すことで、ローカルな自然と先住民文化が、ナショナルな公共事業によって潰えてしまう状況への批判について考えてみたい。
肖像から読むPierre
ダゲレオタイプ時代の視覚と時間性
大西慧(早稲田大学・院)
<発表要旨>
Herman MelvilleのPierre; or, the Ambiguities (1852)は「肖像」に溢れた作品だ。Pierre祖父の崇高化された肖像画、父親の分裂をきたした二枚の肖像画、作品も終わりに差し掛かった展覧会の場面にて描かれる“Beatrice Cenci”の複製画と曖昧性を具現化したかのような“No. 99. A stranger’s head”等の視覚表象から成る一連の肖像群は、作家Melvilleの肖像に対する関心を物語るだけでなく、本作品を「ギャラリー」ともいえる空間に仕立て上げている。
“Young America in Literature”と題される章のなかでMelvilleは、ダゲレオタイプ(daguerreotype)発明以前と以降の「肖像」のあり方を比較している。Melvilleは、肖像と時間性の問題に目を向け、従来の肖像画がモデルに「不朽の名声を与える」(“immortalize”)のに対し、ダゲレオタイプを使用した肖像写真はモデルを「一日化する」(“dayalize”)と述べ、肖像画と肖像写真の間に一線を引く。Melvilleの肖像論に依拠したSusan Sontagは、On Photography (1977)のなかで、「写真のイメージは進行中の人生あるいは歴史を物語る断片である。そして、一枚の写真は、一枚の絵とは異なり、他の写真が存在することを暗示する」(130)と述べている。しかし、Sontagが倣った肖像画と肖像写真の区分とは裏腹に、Pierre内で描かれる肖像画の数々は、Melville自らが定立したはずの肖像論を否定し、肖像写真の特質、すなわち、流れゆく人生や歴史を切り取り表象するといった特質を備えているように思われる。Pierreが描く肖像群は、ダゲレオタイプ時代の産物であるのかもしれない。
本発表の主眼は、Pierreにおける「肖像」と「時間性」(「人生あるいは歴史」)の関係性をダゲレオタイプ言説から再考することにある。発表者は、先行研究においてほとんど看過されてきた本作品と(Melvilleの)家族写真の関係に光を当てつつ、いかにしてPierre一家の「肖像」群が、個人のそして世代をまたいだ歴史をコンテクストに「脱神格化され」(“deimmortalize”)、Pierre親子それぞれの罪を表出するかを明らかにする。最終的に、本発表は、本作品の副題でもある「曖昧性」(“the Ambiguities”)を視覚と歴史認識の連関から再解釈を図る。
Sex and the Cityに見られる女性の生き方についての一考察
大塩真夕美(目白大学)
<発表要旨>
1996年にアメリカで出版されたSex and the City(邦題『セックスとニューヨーク』)は、1994年から96年にかけてキャンディス・ブシュネルが『ニューヨーク・オブザーバー』紙に連載したコラムをまとめたものである。ニューヨークの女性のリアルな姿を描いたその内容に、女性たちは喝采を送り、男性たちは衝撃を隠すことができなかった。『オブザーバー』紙時代から大変な人気であった同書は、その後、1998年からテレビドラマシリーズとなり、だれもが知るストーリーとなっていく。
『セックスとニューヨーク』出版から23年後の2019年、ブシュネルは、この続編と位置付けられるIs There Still Sex in the City?(『25年後のセックス・アンド・ザ・シティ』)を出版した。この約20年間、ニューヨークではアメリカ同時多発テロを筆頭に多くのことが起こり、街もそこに住む人たちにも変化があった。本発表では、ニューヨークの様々な側面が変化する中で、ブシュネルが描き出すニューヨークの「ファビュラス」な女性たちの何が変化し、何が不変であるのかを考察する。
狂気と絶望
Robert Frostの詩を生み出すもの
狭間敏行(創価大学・非)
<発表要旨>
もっぱら自然を背景として人間の営みを謳うRobert Frostは、1913年に牧歌詩人を彷彿とさせて第一詩集A Boy’s Willを出版する。続けて翌年に彼は第二詩集North of Bostonを著すが、こちらはシェイクスピア劇を彷彿とさせる対話調でブランク・ヴァースの作品を中心に構成される。第一詩集で人々に歓迎的に迎えられた、どちらかというと人間の生を自然への憧憬とともに謳った風合いと大きく異なり、こちらの詩集には荒涼とした自然の中に生きる人間たちの、決して牧歌的とは言えない錯綜した内面が醸し出される。そしてこうした複雑な人間心理こそ、フロストの多くの詩に見られる現代詩人としての本領であると考えられる。本発表では、この詩集に収録の“A Servant to Servants”を中心に分析する。内面に人生への諦めを抱え、日々の生活への疲労から狂気を募らせつつある女性の独白詩である。その際、後期に差し掛かった彼の作品群のうち、特に彼が自身の生きる世界を俯瞰しようと試みて著したと思われるA Further Rangeから抽出した、彼の詩論と言えるフレーズと対照する。キャリアにおいて一貫して保たれたフロストの詩に備わる特質、特に絶望感が彼の詩において基底音となっていることについて、senseとsound両面から考察を加えたい。
楡の木陰の埋められた所有欲
サム・シェパードとユージン・オニールの家族劇に見る継承の問題
高橋典子(白百合女子大学・院)
<発表要旨>
1924年初演のユージン・オニール(Eugene O’Neill)作『楡の木陰の欲望』(Desire Under the Elms)と1978年初演のサム・シェパード(Sam Shepard)作『埋められた子供』(Buried Child)の二作品には,どちらも冒頭に楡の木の描写があり,後者の家族劇は50年あまり先立つ前者の作品を下敷きにしていると目される。しかし,これらの演劇に登場する女たち――オニール作のアビー,シェパード作のハリー――では,この木に対する感じ方,とらえ方が大きく異なっている。木の存在を自分の体内に取り込み,あたかもそれを我が子として産み落としたかのようなアビーと,近親相姦の末に生んだ子を夫に殺され,葬った土から生え出た植物を,まったく自分とは関わりのない存在ととらえるハリーとの相違は,農園の土地家屋を我が子のもの,ひいては自分のものにしようとする前者と,男たち(夫,息子,孫)の間でのみ行われる相続を,輪の外で傍観する後者の,「所有意識」の違いをも表しているように見える。家族の葛藤というテーマが,家に暗い影を落とす楡の木に表象されるという,この家族劇二作品の共通項を出発点として,それぞれの時代の社会的背景とともに,そこに見えるジェンダー観を視野に入れながら,家というものにまつわる所有と継承の問題について比較考察する。