〈2021年度5月例会のお知らせ〉

〈2021年度5月例会のお知らせ〉

2021年5月8日(土)午後1時30分より
オンライン(Zoom・事前申込制)で開催いたします。
会員以外の方の参加も歓迎いたします。
参加申込の詳細は、こちらをご確認ください。https://www.tokyo-als.org/2021/04/2021may_online/

 

研究発表

 
 

アメリカ西部の文学的磁力

講師:結城正美(青山学院大学)

司会:波戸岡景太(明治大学)

 

 アメリカ西部は、フロンティア、アウトロー、自由、アメリカンドリームなど数々のコンセプトを纏って神話化されてきたが、20世紀末以降、神話と現実の乖離を可視化し、その乖離の意味するところを研究する動きが顕著にみられる。この動向は、アメリカ合衆国の領土拡張以前の西部への着目や、西部の白色化=白人化によって周縁化ないし無視されてきた〈複数の西部〉の発掘をはじめ、多様な展開をみせている。また、惑星思考の思想的源泉がシエラネヴァダで再定住を実践する詩人Gary Snyderにあるという研究者の証言にもとづけば、アメリカ西部は、地域という枠を超えて、人新世をめぐる人文学的議論の重要な参照点になっているともいえる。
 本報告では、前半で、こうした西部文学の見直しの動きを概観する。それを踏まえて後半では、Joanna Pocock, Surrender: The Call of the American West (2018)を考察する。Fitzcarraldo Edition Essay賞を受賞したこの作品では、オオカミの再導入、気候変動、再野生化、エコセクシュアリティといったよく知られる問題が取り上げられているが、著者の複眼的な思索と語り口はネイチャーライティングの新たな段階を予感させるものである。ロンドン在住アイルランド系カナダ人作家によるこの作品をアメリカ文学として読むことの是非もあわせて検討したい。

 
 

分科会

 
 

近代散文

 

The Portrait of a Ladyにみる無-限定性について

加茂秀隆(一橋大学・非)

 

<発表要旨>

 「世界は無限である」、かつてこう宣言し、中世以前、彼岸の神の属性であった無限性を此岸のものとし、世界の無限の成長と前進、進歩と発展という今日のイデオロギーの嚆矢となりうる思想を唱え、火炙りとなった者がいる。この人物、Giordano Brunoの思想を近代という時代を何よりも画するものとJames Joyceは評し、此岸の被造物への関心、共感と憐れみにその特質を見る。そして、この思想はドイツ・ロマン主義にも合い通ずるとも言われる。
 Henry JamesがIsabel Archerを物語の結末で帰す先が、Brunoが没した地、Romeである。M. Merleの奸計に陥ったのだと知った後、彼の地の廃墟にて歴史における人類の苦悩に彼女は想いを致す。そして、彼女の幼少期の愛読書が、Transcendentalismの彼への影響であろうが、父Henry Sr.の論敵であるドイツ哲学であった。無論、ドイツ思想へのBrunoの直接的影響はなく、Isabelの運命はBrunoのそれを念頭に置いたものではないが。こう眺めてみると、同作品の記号のこの偶然の布置が「世界の限定性の無さ」を暗示しているようにみえる。
 この布置のサインに即して、無-限定性の視点から同作品を読み込んでみたい。制約を受けずに生きたいと望むIsabelは銀行家の遺産を受け継ぎ、その富に相応しい生き方を望む。そこには自身の死期を意識したRalph Touchettによる知られざる遺産の贈与があり、彼の死後の想いが託されている。銀行家の資本の本質である、Brunoの思想に淵源に通ずるMarxの言う剰余価値、更にSwedenborgの精神と物質の照応思想のロマン主義的色彩の濃い解釈と、これらは関連づけられうる。そして、彼女は欧州を旅し、Gilbert OsmondやM. Merleとの出会いにより彼女の富の私有が危険に晒され、その後、義理の娘へのその富の贈与をIsabelは考える。この物語の中に、世界の生成の限りの無さを追う。更に、物語の終局でのIsabelの行動の中に垣間見える、無限定性から限定性への捩れの一端にも触れたい。

 

現代散文

 

「名誉」と「優しさ」

Eudora Welty, Delta Weddingにおける南部プランテーション社会の規範

杉浦牧(東京大学・院)

 

<発表要旨>

 「アメリカ南部文学」の伝統的な枠組みにおいてユードラ・ウェルティの作品は、フォークナーに代表されるような南部男性作家たちと比較して、人種や社会と個人との相剋といった遠大な主題を欠いたものとして捉えられてきた。それゆえ、近年のウェルティをめぐる批評的潮流はそうした理解への応答を旨として形成されており、とくにジェンダー研究を中心とする様々な論点から、ウェルティが家庭という領域を通じて問題化した歴史や社会の様相を読み直してゆく作業が主流となった。
 本発表もこうした流れを踏まえ、ウェルティの長編小説Delta Wedding(1946)においてどのような回路を通じて社会が問題化されているか検討するものである。この小説は、広大な綿花農場を所有するフェアチャイルド一族の娘であるダブニーと農場の監視員であるトロイ・フレイヴィンとの結婚前後の数日間を、さまざまな女性の視点人物を通した叙述によって描いている。中でも小説を通して印象付けられるのが、家族の者たちによるさまざまな思慕の対象となるダブニーの叔父、ジョージ・フェアチャイルドの存在に仮託されているように見える、「フェアチャイルド家」としての集合的アイデンティティのあり方である。本発表では、小説の中でジョージをめぐるキーワードとなる「名誉」と「優しさ」という特質に着目する。視点人物である女性たちの目を通したジョージのふるまいは、ときに一族の名誉を担う勇敢さとして、ときに彼自身の特異な人格として受け止められる。彼の行動の原理となるものが何なのかは、それぞれの女性たちの視点、そして家族・共同体との距離感によって複雑化されているのである。こうした事態を分析することで、失われつつあるものとしての南部プランテーション社会における伝統的な価値規範が、その中に生きる個人に対して取っていた位置づけについて、ジェンダー的観点から再考することを目指す。

 

 

ロバート・フロストのメタポエムズ

笠原一郎(東京工業大学・非)

 

<発表要旨>

 ロバート・フロストが残した体系的あるいは理論的な詩論は少ない。ときおり代表的な散文が研究に取り上げられることもあるが、それらはかなり謎めいており、明確な理解をすり抜ける類のものである。そのかわりとして今回の発表では詩の中で詩に言及していたり、詩または詩作のメタファーと解釈できる彼の作品を考察し、フロストの詩論の一端として読んでみたい。切り口としては、長い詩の伝統の中で特に自己言及的な、言い換えれば詩についての詩として用いられることも多い形式であるソネットを取り上げ、そこから導き出されたテーマに関連すると思われるストーリー的な詩を合わせて論じる。扱う予定の詩は、初期から“The Oven Bird”と“Hyla Brook”及び“A Fountain, a Bottle, a Donkey’s Ears and Some Books”、後期から“On a Bird Singing in Its Sleep”と“Etherealizing”及び“The White-Tailed Hornet”である。結論めいたことを言えば、初期作品群からは特にイギリス詩から流れる伝統の中の自分の位置、後期作品群からは古典的、ロマン主義的自然観で詩を書くことは困難であるという意識、そして全体を通してはフロストの「遅れて来た者」という感覚が見えてくるだろう。

 

演劇・表象

 

リエナクトメントの人種主義技法

『国民の創生』とウォーグラフの血脈

鈴木俊弘(桜美林大学・非)

 

<発表要旨>

 近代映画がアメリカの人種主義作品群から形成された事実は、この文化媒体全体の消せない罪として記憶されている。なかでもD.W.グリフィス監督の『国民の創生』(1915)は、極度に単純化した「勧善懲悪スペクタクル」のプロットを敷き、「白肌」と「黒肌」の対立という人種に基づく視覚的な差異を物語の浮沈と重ね合わせていく技法によって、悪魔的な人種差別表現と熱狂的な観客を生み出した。ゆえにこの作品は映画の暗黒史の十字架を背負うべき作品のひとつとして、いまも告発と断罪を宣告され続けている。
 ところが「正義=味方」に白人俳優を起用し、「悪=敵」に「黒人役」俳優(黒人エキストラや、ブラックフェイスの白人俳優)を起用するという視覚的二分法は、じつは米西戦争や米比戦争の「戦争映画」(ウォーグラフやウォースコープと呼ばれ人気を得た再現映画)にて発明され、多用された技法であった。もし『国民の創生』を19世紀末から20世紀初頭に扇情報道と戦意高揚目的で作られた「戦争映画」群の落胤と捉えてみるならば、『国民の創生』の人種差別表現の源泉を同時代アメリカ文化の文脈に落とし込むことができるだろう。合衆国が19世紀末から帝国主義国家として世界各地に領土膨張する途上で遭遇した人間集団は、つねに「有色人種」として認識され、「外敵」(異質な者)とは、なべて人種的な他者(黒肌の人びと)として想像されたが、そのような露骨な帝国主義=人種主義発想の噴出孔は「戦争映画」の銀幕に穿たれていたからである。
 本発表は米西戦争期から数多く製作されていった「戦争映画」が、アメリカ社会に戦争の実写映像とその代理たる創作映像の境界を脳内消去して享受する観客を産み、しだいに創作映像が実写映像を代理するようになる文化的な反転現象を提示する。それが「映画に記録されなかった戦争」である南北戦争の視覚的記憶を映画表現で補完したいという初期映画業界の欲望と出会い、南北戦争を主題にする創作映画が「歴史のリエナクトメント」として機能していくことを論じたうえで、その具体的な表出点として『国民の創生』とその人種主義表象を位置づけたい。