〈 12月例会のお知らせ 〉
12月9日(土)午後2時より
慶應義塾大学三田キャンパス 北館ホール
*状況によりオンラインに変更する可能性がございます。
その際は支部HPでお知らせいたしますので、
事前にご確認くださいますようお願い申し上げます。
場所のリアリティ
アメリカ社会とソーシャル・デザイン
講師:遠藤朋之(和光大学)
講師:川端康雄(日本女子大学 名誉教授)
講師:権田建二(成蹊大学)
司会・講師:杉本裕代(東京都市大学)
概念や理念をなんらかの意図を携えながら、事物や制度に変換することを広義のデザインとするならば、文学作品にもまたデザインの産物と言えるだろう。そして、その時のデザインとは、いわゆる作者の意図に留まらず、読者をはじめとして作品の影響を受容するものたち、そして、時代の文脈、場所のポリティクス、といった複合的な視点で考えることで初めて浮かび上がってくる。
本シンポジウムは、住宅地開発や家屋の室内空間など場所にまつわる文学作品に加え、詩作のプロセス、そして、ユートピアを描くことのコンテクストを論じる。理念を現実世界で展開すること――デザインすること/されること――をめぐって、文学作品または文学者がテキスト上で/実際に、どんなリアリティと交差しているのかを検討する。
建国の歴史をたどるまでもなく、アメリカ社会は、今日に至るまで、理念を具現化することに邁進してきた。デザインをキーワードに文学作品を論じてみることは、過去の事実の確認ではなく、その作品が生まれる/読まれるときのリアリティを追体験するプロセスであり、それは現代の私たちが向かい合う問題を考える契機ともなるだろう。
詩における “Design” 、つまり “Form” を考える
遠藤朋之(和光大学)
<発表要旨>
詩における “design”となれば、まずは “iambic pentameter” に代表される英語詩の “form” 「定型」が思い浮かぶ。しかし20世紀前半にEzra Pound が主導した “Imagism” を嚆矢とする自由詩以降、詩の「定型」はそれ以前の「定型詩」とは全く異なるものに変化し、英語詩における “form” は多様化していった。パウンドは The Pisan Cantos (1948) において、“To break the pentameter, that was the first heave” (Canto LXXXI)と、英語詩における “iambus” のくびきを解いた Imagism の達成を語る。さらにパウンドの後続詩人の Charles Olson が詩論 “Projective Verse” (1950) に引いた盟友 Robert Creeley のことばには “FORM IS NEVER MORE THAN AN EXTENSION OF CONTENT” [sic] とある。両者は同じことを語っている、つまり、詩における “form” は “iambus” や脚韻という決まった形式に内容を合わせるのではなく、詩人の語りたいことに内在する形態をことばの配列によって表す、ということだ。自由詩における “form” とは、語義矛盾ではあるが、「詩の内容を体現した一回性の形式」となった。この「一回性の形式」が意味するのは、 “S+V” という英語における主語主導の文法構造によらないことばの配列、従来の「定型」への絶えざる接近と逸脱、音による意味の生成、そしてとりわけ、名詞主導によって作られるあらたな詩作品だ。本発表においては、この「一回性の形式」が典型的に見られる詩、そしてとりわけ名詞主導によって構成される詩を、Ezra Pound、William Carlos Williams その他の詩人の作品で検証し、さらに Gary Snyder の詩においては、詩の “form” のみにとどまらず、スナイダーの考える世界のあるべき “form” 、つまり世界の “design”までが作品として具現化されていることを確認したい。
「どこにもない場所」の労働・余暇・コミュニティ
エドワード・ベラミーとウィリアム・モリス
川端康雄(日本女子大学名誉教授)
<発表要旨>
1888年に刊行されたEdward Bellamyのユートピア小説Looking Backward 2000–1887で主人公Julian Westが1887年のボストンから入り込んだ世界は113年後、西暦2000年のボストンで、そこは19世紀末の都市が抱えていたさまざまな社会問題が完全に解消されたひとつの理想都市となっている。貧困にあえぐ者も不正を働く者も存在せず、合理化が貫徹した統治形態のなかに全市民が整然と統合されている。この文学ジャンルの定式どおり、新参者たる主人公がこの未来都市の中身について知者から詳細な説明を受けるというかたちで、全資本を国家が統合した「ナショナリズム」体制下のボストンの「ゆたかな」社会像を描き出し、作者にとってのあるべき社会モデルを打ち出すことが小説の主眼となっている。この小説の同時代におけるインパクトは甚大で、出版直後に米国内でベストセラーになったのみならず、米国各地に160を超える「ベラミー・クラブ」が設立され、小説に描かれた社会体制の実現を目的とした運動が広く進められた。日本でも最初の翻訳がすでに1903(明治36)年に出ている。
同書はイギリスでもセンセーションを引き起こした。初期の読者のひとりが、当時社会主義運動に精力的に関わっていたWilliam Morrisだった。多くの同志たちがLooking Backwardを肯定的に評価するなかで、モリスは書評を書き、労働の動機をもっぱら「飢餓の恐怖の解消」に求めることは誤りだとし、その小説で展開される労働観に疑義を呈した。さらに、ベラミーの未来図に触発されて、1890年に彼が所属する社会主義団体の機関紙The CommonwealにNews from Nowhereを連載した。19世紀末の主人公の「私」が一夜眠りから覚めると様変わりした未来のロンドンに入り込んでいるという、もうひとつのユートピア物語である。
本発表では、これら二つのユートピア世界を比較対照しつつ、それぞれの社会のヴィジョンがいかなるデザイン思想のもとに構築されているかを考察してみたい。
デザインされた人種分離
メッカ・アパートとグウェンドリン・ブルックスのゲットー
権田建二(成蹊大学)
<発表要旨>
アメリカの黒人に対する居住地の人種分離 (residential segregation) の研究において、多くの研究者は、それが意図的・計画的なものであることを強調する。これはよく考えてみると奇妙である。というのも、黒人を白人の生活空間から排除することが—法制化されているものであれ慣習的なものであれ—偶然の産物であることは考えにくいからだ。しかし、例えば、黒人を一定の区域に追いやるゲットーなどは、差別的な動機によって生まれたわけではないとされる。これは、黒人を白人の居住地から排除することが、一義的には白人居住地の不動産の資産的価値を守るという市場原理に結びついた経済的な動機に基づいているとされてきたからである。
本研究では1960 年代に社会的な問題となった黒人のゲットー成立に至る居住地の人種分離の歴史を概観し、シカゴのメッカ・アパートという建物をその具体例として、その建設からゲットー化、そして取り壊しまでの歴史を眺めてみたい。1892年に建設されたこのアパートは、この手の集合住宅の先駆けであり、1893年のシカゴ万博においては、来場者のためのホテルとしても使われ、時代を象徴する建築物でもあった。しかし、その後、南部からの黒人への大移動による住宅不足や、そもそも黒人地域に隣接しているという立地条件などが重なって、メッカはいつしか黒人の住民の居住地と化していく。最終的にはイリノイ工科大学のキャンパス拡張と周辺地域のスラム解体のため、この建物は取り壊されてしまう。
さらには、このような歴史を辿ったこのアパートをテーマに1968年にグウェンドリン・ブルックスが発表した「メッカにて」という詩において、黒人のゲットーがどのように表象されているかを確認したい。このアパートの黒人住民の人間模様を描くこの詩は、一見すると、かつては時代の先端を走っていた輝かしい存在だったメッカという建物が荒廃し、スラムへと没落していったという、都市衰退の言説を裏づけているように思える。しかし、「ゲットーの人々を描くことに私は魅了されるのです」と語ったことがあるこの詩人にとって、メッカを描くことは、社会の堕落や腐敗を描くことではなく、黒人の現実を表象することだったのである。
「家庭」を文学的に描くことのジレンマ
家庭小説とホーム・エコノミクスの差異
杉本裕代(東京都市大学)
<発表要旨>
家庭小説とよばれるジャンルといえば、アメリカにおいては、(その起源をどこにおくかは多様な議論を生んできたが)おおむね1850年代から1920年代までに出版され、女性や子ども、同時代の家庭を舞台にした作品群が連想されることが一般的だろう。そう考えてみると、1920年代は家庭小説の終焉の時期といえるかもしれない。
一方、家庭小説と密接な関係があったホーム・エコノミクス(家政学)の系譜においても、1920年代は、第二次大戦後の学問的な高まりにくらべれば、低迷の時期であると論じる研究もある。1920年代は、社会の中で、女性たちの仕事をときに科学的に合理化し、快適な人生をもたらそうとする熱気は、家庭を研究するホーム・エコノミクスとして顕在化するのではなく、むしろ、テイラー主義といった合理的システム論とむすびつくようになった。
1920年代前後の家庭小説は、こうした合理主義の波に対して一定の警戒感を示している。本発表では、E. J. RathによるToo Much Efficiency (1917)など、現在ではあまり語られることのない、家庭小説終焉期の作品を概観しながら、個人の生活が工業化や合理化に対してどのような振る舞いをとったのかを概観し、戦後アメリカ社会との連続と断絶を検証する。また、ホーム・エコノミクスは、やがて冷戦文化のなかで、「アメリカの家庭」を文化外交の前線に押し上げるべく再び活況を取り戻した。一方、家庭小説はジャンルとしては衰退し、1980年代を迎えるまでアメリカ文学史の表舞台に登場することはなかった。この差異はどこからくるのか。家庭小説の終焉が意味することを考えてみたい。
2023年度は、忘年会を開催させていただきます。
詳細は、こちらのページをご覧ください。