〈 9月例会のお知らせ 〉
9月28日(土)1時半より
慶應義塾大学三田キャンパス 南校舎 445 教室
*状況によりオンラインに変更する可能性がございます。
その際は支部HPでお知らせいたしますので、
事前にご確認くださいますようお願い申し上げます。
ピークォット族の作家William ApessとLydia Maria Childの共振
先住民の歴史と諸権利を巡って
講師:小澤 奈美恵(立正大学)
司会:小倉 いずみ(大東文化大学名誉教授)
本発表の前半ではピークォット族の作家William Apess (1798-1839) を紹介し、後半では先住民問題の観点から、Lydia Maria Child (1802-1880) との比較を行う。
Apessは、メソディスト派の牧師として、自伝やマシュピー・ワンパノアグ族の諸権利獲得運動の記録、フィリップ王戦争で滅ぼされたワンパノアグ族の首長フィリップ王メタカム再解釈の書などを残した。アメリカン・ルネッサンスの時代には、ヨーロッパに対抗する国民文学創造の要請の中で、「消えゆくインディアン」を表象する小説が多く創作された。しかし、Apessはピークォット族として「消えゆかないネイティブ」としての存在を主張した。
Childに関しては、The First Settlers of New England, or, Conquest of the Pequods, Narragansets and Pokanokets: As Related By a Mother to Her Children (1829) を取り上げる。植民地時代のピューリタン対先住民の戦争史を共和制国家アメリカからの新たな視点で読み直し、インディアン強制移住法問題を照射するChildの見解を明らかにし、Apessの主張と共振する側面を示していきたい。Childは、母と二人の娘との対話形式の物語の中で、先住民を共存できる対等の人間として描き、人種の多様性を認める新たな次世代を育成しようとしていた。
このように、自由を奪われていた先住民と女性の間には同じ諸権利への欲求が共有されており、そこには現代の多民族国家アメリカにつながるリベラル思想の源泉がある。「消えゆくインディアン」の時代の流れの中で、自ら声を上げた先住民作家と、先住民の権利とその文化的価値を認めた女性作家を取り上げることで、白人男性作家に偏るアメリカン・ルネッサンスの地平の拡張を試みる。
緑の文字
The Scarlet Letterにおける植物表象と父子関係
石川志野(慶應義塾大学・院)
<発表要旨>
北米有数の果樹園芸家であった叔父Robert Manningの影響もあり、植物に造詣が深かったNathaniel Hawthorneは、作品内に多くの植物を描きこんでいる。The Scarlet Letter (1850)においても、獄舎の前の薔薇、墓場の醜い雑草、へスターが赴く深い森の木々など、さまざまな場面で植物が登場する。近年、ホーソーンと自然、植物については高い関心が寄せられており、The Scarlet Letterにおける植物表象の研究は、19世紀の園芸学に内在していた、人間のモラルと植物の関連性を作品分析に役立てたものや、へスターの耕す庭と彼女の堕落をアナロジーで論じたものなど、さまざまな角度からの検討が加えられてきた。
このような批評の流れを汲み、本発表では、The Scarlet Letterの植物表象に改めて注目し、そこに親子関係を読み込むことにより、新たな作品読解の可能性を探る。最初に、子である新大陸のピューリタン社会と、父とみなすことができるイギリスとの関係を、ベリンガム総督の庭の植物の様相から考察する。次に、チリングワースとパールの植物との付き合い方を概観し、それぞれのキャラクターの再解釈をおこなった上で、彼らの血のつながりはないが擬似的な父子関係について論じる。そのうえでホーソーンにとって植物が、単なる表象の対象物としての意味を超え、文学上の重要なレトリックとして機能していたことを考えてみたい。
New Women as Ancient Flappers
Shaw’s Caesar and Cleopatra in Fitzgerald’s The Beautiful and Damned
Mauro LO DICO (Nihon University)
<発表要旨>
F. Scott Fitzgerald (1896-1940) exploded onto the American literary scene in the early 1920s with his lively depictions of notorious flappers, the Jazz Age’s version of New Women. Some of the best examples come from his second novel, The Beautiful and Damned (1922), whose protagonists Anthony Patch and Gloria Gilbert are based on the most decadent couple in history, Mark Antony (83-30 BC) and Cleopatra (69-30 BC), hence the fictional characters’ forenames (the cleo in Cleopatra means “glory” in Greek) and the book’s title. By analyzing various historical, filmic, theatrical, and, especially, literary sources, this interdisciplinary study reveals how Gloria and her friends Muriel Kane and Rachael Jerryl are modelled after the Egyptian queen and her attendants Iras and Charmian, particularly as they are all portrayed in Caesar and Cleopatra (1899) by G. Bernard Shaw (1856-1950), one of Fitzgerald’s favorite authors. Gloria’s carefree lifestyle derives from the comedy’s sixteen-year-old Cleopatra who, when she presents herself before men in public, for instance, elicits the disapproval of her anachronistically Victorian-like chief nurse Ftatateeta: “You want to be what these Romans call a New Woman.” The equally young and fun-loving Iras and Charmian are also the dramatic precursors to Muriel and Rachael, who enjoy themselves so dissolutely at Anthony and Gloria’s wild house parties. Much as Shaw satirized the misunderstandings that arose from the so-called First Wave of Feminism through his explicit use of antiquity’s most dynamic lady, Fitzgerald criticizes the New Woman’s superficial successor, the flapper, by more subtly alluding to Cleopatra via Gloria. The novelist’s agenda was both publicly and personally motivated. Since the United States was emerging in the first decades of the twentieth century as the undisputed global superpower, such changes in the new world order were beginning to impact America on many levels, including socially, such as the introduction of the headstrong flapper. Belonging to this new subculture, after all, was none other than Fitzgerald’s own spouse Zelda Sayre (1900-48) who, like the beautiful, independent, and ambitious Cleopatra, was by no means a traditional wife, and their marriage from the beginning was thus strained because of their different expectations concerning conjugal life in the ever-changing Progressive Era (1901-1929). Ultimately, Fitzgerald had conflicting views about flappers, seeing them as femmes fatales, attractive yet dangerous women in a period of which he was a passionate partaker and at the same time a firm critic.
パレスチナ系アメリカ詩人たちのジャーナル的視点
ネオミ・シーハブ・ナイのThe Tiny Journalistとは誰か?
小泉純一(日本福祉大学)
<発表要旨>
存命中の作家を研究対象とする醍醐味は読者が作家と同時代を共有できる点にある。パレスチナ系アメリカ人の詩人Naomi Shihab Nyeの場合、パレスチナの現状抜きに彼女の作品を語ることはできない。特に2023年以降のガザの惨状を聞くにつけ、彼女の作品はジャーナル的な傾向が強く、それが作品の力となっていることを実感する。2019年に刊行されたThe Tiny Journalistはある少女に捧げた詩集であると同時に、ジャーナリストであったナイの父とこの少女、そして自分を繋ぐ磁場を作り出している。トランプ政権においてアメリカはエルサレムをイスラエルの首都と認め、武器の提供においても親イスラエル色を強めていた。そんな時期に出版されたこの詩集は、そのようなアメリカ政府に対し、もう一つの視点を示すデモンストレーションにも思える。詩集のタイトルに POEMSと書かれているのだが、従来の彼女の作品と比べると非詩的作品も含まれており、詩集全体として作品の意味を捉えるべきなのだろうと思える。また、ガザの人たちとナイのようにアメリカに住む者、ガザの状況を見守る世界中の人たちと、それを夜空から見守るお月様の関係を傍観者的に捉えるのか、積極的に捉えるのかが読者に委ねられている点で緊張感を孕んだ作品とも思える。パレスチナ、ガザの惨劇が継続する今、パレスチナ系作家の作品を読む意義は時代が求めるものでもある。
分科会開催無し