〈 11月例会のお知らせ 〉
11月9日(土)1時半より
慶應義塾大学三田キャンパス 南校舎 445 教室
*状況によりオンラインに変更する可能性がございます。
その際は支部HPでお知らせいたしますので、
事前にご確認くださいますようお願い申し上げます。
シルヴィア・プラスとヴァージニア・ウルフの「死」と「変身」
講師:小川 公代(上智大学)
司会:ハーン 小路 恭子(専修大学)
ヴァージニア・ウルフ作品、とりわけ『灯台へ』に影響を受けたシルヴィア・プラスは、自伝的小説『ベル・ジャー』や「メアリ・ヴェントゥーラと第九王国」において、父権的な社会で抑圧される女性の苦しみを描いている。『ベル・ジャー』の主人公は、プラスのように名門女子大学でその文学的な才能を発揮するが、母、教授、編集者など、いくつもある将来の可能性を変幻自在に生きることがかなわない現実に絶望し、精神不安から精神病院で療養生活を受けることになる。プラス自身もイギリスの詩人テッド・ヒューズとの結婚生活が破局を迎え、最終的には死を選んでいる。他方、プラスがまだ大学生のとき創作した短編「メアリ・ヴェントゥーラと第九王国」は、母親であるミセス・ヴェントゥーラに急きたてられて汽車に乗る主人公が脱走に成功する物語であり、寓意的には「結婚」を選ばない女性が描かれるが、いずれの作品にも女性の激しい葛藤が浮かび上がる。『灯台へ』の第一部では、ラムジー夫人、夫のラムジー氏、子どもたちに加えて、別荘に招かれた賓客が一緒に過ごしているが、第二部になると、第一次世界大戦では将来有望視されていた長男が戦死し、ラムジー夫人自身も急逝し、娘もお産で命を落としている。本報告では、女性の「死」が影を落としているウルフの『灯台へ』とプラスの小説や詩作品を中心に考察したい。ラムジー夫人が息子ジェイムズに読み聞かせる童話「漁師と女房」では、妻が皇帝になったり、法王になったりするが、この「変身」のテーマがプラスとウルフを結びつけるイメージとなっている可能性も探る。
信仰か偽善か、あるいは嘲笑か?
Herman MelvilleのOmooにおけるタヒチの人々の改宗と「模倣」
篠碕優人(慶應義塾大学・院)
<発表要旨>
ハーマン・メルヴィルの作品における宗教と信仰をいかにとらえるか。いささか古典的であるといわざるを得ないこの問いは、哲学者チャールズ・テイラーがA Secular Age(2007)にて提唱した近代社会の世俗化論と共振する形で、近年再び注目を集めている。
このような潮流の中でメルヴィル作品における信仰の問題に立ち返る際に、彼の原体験を成す南海作品群を見逃すことはできない。しかし、彼が1847年に上梓したOmooは、ポリネシア・タヒチ周辺でのキリスト教化が進んだ共同体についての描写に富んでいるにもかかわらず、刺激的な冒険譚にして処女作であるTypee(1846)や瞑想的な神学を多分に含んだMardi(1849)と比較して、信仰をめぐる議論の俎上に載せられることが少ない。
そこで、本発表では同作に登場するタヒチの人々による「改宗」(conversion)と「模倣」(mimicry)という現象を、ポストコロニアル理論を補助線として分析したうえで、ポリネシアの島民たちがいかに自身の文化とキリスト教的な生活に折り合いをつけ、西洋のキリスト教との自他境界を越境して行ったのかを論じる。まず、Typeeが19世紀の福音主義指導者たちによって純然たる「真実」の完全なる無視であると批判されたことを念頭に置きつつ、「真実との厳格な結びつき」(a strict adherence to fact)への情熱を誓った本作の序文を再検討することで、タヒチの住人に関するメルヴィルの語りの真実性を分析する。加えて、タヒチの人々の独自の信仰生活と「改宗」の描写を、ガウリ・ヴィシュワナータンらの改宗論を導入しつつ精読する。さらに、彼らの「改宗」を分析していく中で立ち上がってくる島民たちの「模倣」と「偽善」(hypocrisy)という抵抗のあり方を議論することで、序文にてメルヴィルが構築した「真実」という言説の背後にタヒチの人々の主体性が介在する可能性について探りたい。
分科会開催無し
詩が生まれる場所
Emily Dickinsonの牧草地
吉田要(日本工業大学)
<発表要旨>
本発表はEmily Dickinsonの詩および書簡文における牧草や牧草地に焦点を当てる。日が照り、花が咲き、蝶が舞い、蜂がうなり、鳥が鳴き、風が吹きぬける牧草地は、彼女の詩の多くの舞台となっている。また、牧草が刈り取られて納屋に収納される様も、少数ながら詩に書き表されている。それら一連の「牧草詩」があることに加え、書簡文を見てみると、ディキンスンが日常的に牧草に触れていた姿が浮かび上がってくるだけではなく、牧草を愛でる様子までも確認できる。語り手が牧草にあこがれる詩があるのも十分にうなずけるだろう。
ディキンスン作品における牧草や牧草地はこれまでも考察の対象になってきたが、論全体を構成する要素となっているものはないのではないだろうか。この発表では、牧草地が詩の舞台設定として多様な描かれ方をされていることにも触れるが、着目するのはあくまで牧草と牧草地である。牧草の刈り取りや収納が描かれた詩と書簡文はもとより、牧草まわりの作業を担う労働者たちの存在にも目を配り、ディキンスンが日常でいかにそれら・彼らと関わり合い、詩へと昇華させたのかを探ってみたい。そのうえで、牧草を収納する営為が、彼女が詩を生み出して保管する作業とも連動していることを提起する。本発表は総じて、牧草や牧草地が彼女の詩を生み出す「場」となっていたことを論じるものである。
親を知らない子テクスト
Suzan-Lori ParksのFucking AとThe Scarlet Letterのねじれた関係性
田所朱莉(信州大学)
<発表要旨>
権威化された文学史と歴史に対して懐疑心を持つSuzan-Lori Parksにとって、劇場は「歴史的出来事創造の孵化器」である。Parksによる文学史/歴史の再解釈と創造は、Nathaniel HawthorneのThe Scarlet Letter(1850)にもおよび、姉妹作In the Blood(1999)とFucking A(2000)は、非識字者の黒人女性Hesterが子殺しに至る過程を描き出す。
Fucking Aの着想が、The Scarlet Letterを読まない状態で得られたのに対し、In the BloodはThe Scarlet Letterを読みながら執筆を進める途中、Fucking Aから分裂する形で誕生した。いわば、In the Bloodが、親から生み出された子テクストであるのに対し、Fucking Aは「親を知らない子テクスト」である。Fucking AとThe Scarlet Letterとの関連性が主人公の名とAの文字に留まるためか、Fucking Aにおける文学史書き換えについて、説得力ある論考は見られない。しかし、子が親を知らないというねじれた関係性を作り出すことで、親テクストから子テクストが生み出されるというアダプテーションの原則が崩されているとは考えられないだろうか。
本発表では、The Scarlet Letter以外の親たちにも着目しながら、Fucking Aと親テクストの関係性を分析する。具体的には、HawthorneのHesterについて黒人説を唱える先行研究も参照しつつ、現在と過去が相互作用していくダイナミズムとParksの劇作効果を明らかにし、本作品を文学史そのものの書き直しを目論む作品として位置づけ直す。