〈2018年度5月例会のお知らせ〉

〈5月例会のお知らせ〉

2018年5月26日(土)午後1時30分より
慶應義塾大学 三田キャンパス
南校舎443教室

 

研究発表

 
 

エマソンの善意と弱点
エッセイ“Compensation”を読む

堀内正規(早稲田大学)

司会:折島正司(青山学院大学名誉教授)

 

 エッセイ“Compensation”は、思想家としてのエマソンの最大の弱点を示しているという点で、そのキャリアの中でも独自の位置を占めている。あたらしい「道徳哲学(moral philosophy)」の試みとしてエマソンはこのエッセイをEssays: First Series(1841)において、ある意味で満を持して発表したと言っていい。しかしエマソン批評史においてこのエッセイを肯定的に評価することはStephen E. Whicher(1953)やJonathan Bishop(1964)のような代表的なエマソニアンであっても困難だったし、現代のエマソニアンの代表者の一人Lawrence Buellも、単著Emerson(2003)において、エマソンがfaithの跳躍のために持続的な苦闘としてのthoughtの営みを断念してしまった例として、あっさりとこのエッセイの一箇所を引いているだけだ。優れた先行研究のほとんどが、このエッセイを正面から論ずることを避けてきた。そして私自身もまた、昨年出した単著『エマソン 自己から世界へ』において、現代におけるエマソンの読み直しの「可能性の中心」を論じたのだが、そこでは一箇所でだけ、それも批判的に“Compensation”に言及するのみだった。つまり私にとってもこのエッセイは「鬼門」なのである。

 今回ありがたい機会をいただいて発表をするにあたって、あえてエマソン思想における最大の難所とも根本的な弱点とも言える“Compensation”を真正面から論じてみよう。と言っても、目の醒めるような(オセロで黒が一挙に白に変わるような)肯定的な論じ方ができるというのではさらさらない。むしろ、上記の著書においてある意味で素通りしてきたこのエッセイを、自分がどう読むかを示すことで、その本の裏側で表面に現れていなかったエマソンの「ダメ」な面を、この際に自分でもしっかり摑んでおこうというのである。それは『エマソン 自己から世界へ』を読んでくださった(少数の)方々に対する、一種の応答責任を果たすことであるようにも思うのだ。

 エマソンには、「この世には決定的に運が悪い人がいる」という考えをどうしても受け入れることができなかった。また人間が、不条理に人生行路で「敗れた」まま生を終わることがあっていいとは思えなかった。子どもっぽい理想主義と評するなら、そうとも言える。つまり彼には「善意」があった。キリスト教信仰なしで、この世の倫理的な矛盾や絶対的とも見える不公正を否定することができるのか(反シモーヌ・ヴェイユ)。教会の教え(ドグマ)に潜むルサンチマンを許さず(ニーチェ)、理屈(ロジック)の整合性より前に、現実に人びとが生きる場(人生)において、エマソンが若い日々から認知してきた正負のバランスの在りようを言語化し、読者をいかに励ますか――“Compensation”においてエマソンはその課題に全力で答えようとした。だがその営みにはおそらく根本的な認識上の間違いや次元の混同がある。それが何であるかを明らかにし、他者たちの生の毀損に対するエマソンの視野の限界を認め、最終的に個としての自己(self)の、ハンドリングの仕方という点でのみ、すなわち「自己の学び」と「大人になること」のエマソン的な形を見ることによって、肯定的な様相を浮き彫りにしよう。私の大好きなメルヴィルの『ピエール』において、若いキリスト教的な理想主義者がキリストの「山上の垂訓」に魅せられた結果、この世界は間違っていると感じる、と述べられる件がある。大人が間違った現実と折り合いをつけるための方便を、語り手は「護符的な秘密(talismanic secret)」と批判的に呼んだ。メルヴィルから見ればエマソンの倫理哲学の試みはお目出度い自己欺瞞と映っただろう。しかしペシミズムのままでいいと言えるのか? エマソンは個が世界と折り合いをつける道筋を、諦観としてではなく、自分にとって真実と言えるような形で追求したかった。その思想は全体としては肯定できない。それでも、言語パフォーマンスとしてのこのエッセイの有効性とでも言うべきもの、それが有効である生の範囲とはげましの意義は、やはり存在する。そこをちゃんと拾い上げることによって、私はエマソニアンとしての自分の責任を果たそうと思う。聴いてくださる方が、もしも50個程度のパラグラフから成る“Compensation”に目を通してきていただけるならば、エマソンのエッセイを読むとはいかなることかを、具体的に明瞭にわかっていただけるだろう。

 
 

分科会

 
 

近代散文

死を見ること
Poeの“The Facts in the Case of M. Valdemar”におけるゴシック美学の変容

福島祥一郎(東京電機大学)

 

<発表要旨>

 しばしばhoaxに分類され、またある面でPoe自身も読者を煙に巻くような書き方、態度を示しているため、Edgar Allan Poeの“The Facts in the Case of M. Valdemar”(1845)はそうした文脈で語られることが少なくない。しかしながら、hoaxの文脈、あるいは後のH. P. Lovecraftやホラー映画への影響関係という文脈だけには収まらない特異さ、異質さがこの物語にはある。

 本発表ではそうした異質さについて、Poeの批評家としての側面から迫ってみたい。1839年以降Poeは政治・社会批判を物語上でも展開し、次第にその色を強めていくが、それはアメリカ社会における対象の浅薄な認識の仕方への批判、ある種の認識論的批判であった。「見ること」について極めて自覚的であったPoeは、その「見ること」の欺瞞性を鋭く意識していた作家でもある。“The Facts in the Case of M. Valdemar”において、Poeはゴシック的な意匠を借りて当時のセンチメンタリズムや科学的合理主義へ警鐘を鳴らすが、その一方で、Valdemarの死の物質的な描出はゴシックにおけるサブライム美学の陥穽を批判的に描き出しているようにも思われる。Eureka(1848)までつながる“Mesmeric Revelation”(1844)の形而上的な想像力とは対照的な、“The Facts in the Case of M. Valdemar”における死の客体化について考えてみたい。

 

現代散文

ダンス・ウィズ・ペイン
Save Me the Waltzにおける自己像の語りなおし

羽場百合愛(津田塾大学・院)

 

<発表要旨>

 ゼルダ・フィッツジェラルドは、アメリカ国内においては著名なカルチャー・アイコンかつフェミニズム・アイコンであるにもかかわらず、彼女の著作に注目した文学的研究は、マシュー・ブルッコリやデボラ・パイクを除き、ほとんど行われていない。スコット・フィッツジェラルドの哀れな妻としてのみ注目され、伝記・映画・音楽など多岐にわたり物語化され続けてきたため、キャラクタライズされた作家像だけが取り上げられ、偶像として消費されてきたともいえる。

 70年代におけるゼルダ再評価の際には、彼女の作品が「口語的、感覚的」文体であるとしてスコットの作品と差別化されたが、これは近年ジョアナ・ラスらによって指摘されている通り、文語的な男性作家のキャノンの文体に対し、女性作家の文体をいわばアマチュア的であるとみなすことで、「文学的副流」として作品を位置づけてしまう恐れがある。現にアカデミズムにおけるゼルダ作品は、スコット作品を理解するためのサブ・テクスト的役割を付与されてきたことは否めない。ゼルダはその作品もろとも、常に副次的なものとして扱われ、より大きなナラティブに回収されてきた作家であるといえる。

 今回の発表では、ゼルダ作品再読の試みとして、半自伝的な長編小説である『ワルツは私と』(Save Me the Waltz, 1932)を取り上げ、作品内におけるバレエの表象に注目したい。この作品後半で主人公が熱中するバレエは、肉体的苦痛を伴って描かれながらも、芸術・死・自由など、様々なイメージに変換されている。踊りという記号を手がかりに、ゼルダがどのように自身を語り直し、期待される役割を脱却しようとしたのかを考察していきたい。

 

E. A. PoeとPaul Simonの “Silence”
Thomas Hoodの詩を手がかりとして

宇佐教子(首都大学東京・非)

 

<発表要旨>

 Simon & GarfunkelのアルバムWednesday Morning, 3 A.M.(1964)に収録された“The Sound of Silence”は、哀調を帯びたメロディと多義性のある歌詞内容により、広く受け入れられてきた。Paul Simon(1941-)は、“the sound of silence”が暗示するところを明らかにはしていないし、またこの概念がどのように生まれたかについて言及してこなかった。

 サイモンの“the sound of silence”に類似する世界は、Thomas Hood(1799-1845)の詩に見られる。フッドは“Sonnet: Silence”(1823)において、“Silence”は自意識と孤独の産物としており、これは、サイモンの「互いの声を共有することはない歌」が“the sound of silence”の中で聞かれるという状況に近い。

 また、T. O. Mabbottは、フッドの“Sonnet: Silence”と“Sonnet: Death”(1823)は、ポーの“Sonnet—Silence”(1839)に影響を与えたとしている。ポーはフッドの二つの詩を題材として、生と死という二つの“Silence”が一つの命の中に存在し、死を迎えるとその対立は統合された“Silence”となるとした。ポーの詩では“Silence”は、フッドやサイモンが言及する“Silence”よりも更に抽象度が高く、生命の起点と終点の象徴として使用されるが、フッドとサイモンの詩において“Silence”は、外界とのつながりよりも自分の世界に閉じこもる人々の精神的な傾向を暗示する。本発表では、三人のそれぞれの詩世界における“Silence”の違いを考察しながら、時間と空間を超えた“the sound of silence”に耳を傾ける。

 

演劇・表象

育児とメロドラマ
『クレイマー、クレイマー』における感情と新自由主義

関口洋平(明治学院大学・非)

 

<発表要旨>

 離婚率が50%を超えた1970年代の終わりに公開された映画『クレイマー、クレイマー』(1979)は父親の育児を肯定的に描く一方、キャリアウーマンとして自立する母親を断罪し、第二波フェミニズムに対するバックラッシュの嚆矢となる作品として理解されてきた。本発表では、そのようなジェンダー力学をより広範な歴史的文脈に位置付けるべく、新自由主義的な主体の誕生を告げる作品として『クレイマー、クレイマー』を再検討し、家庭と仕事の葛藤を人的資本・企業家精神といった観点から考察する。シングル・マザーの「選択」がスティグマ化される一方で、シングル・ファーザーの「選択」はどのようにして正当化されるのだろうか?父親にとって家庭が「牢獄」でなく自由を体現する場となるのは何故だろうか?また、ウェンディ・ブラウンの言うように新自由主義が女性の役割を二分化するのであれば、その構図の中で父親はどのように位置づけられるだろうか?

 また、本発表ではリンダ・ウィリアムズのメロドラマ論に依拠しながら、この映画における登場人物・観客の感情(移入)の様相を考察する。メロドラマはしばしば母性と関連付けられて理解されてきたが、この映画において道徳的な正義を体現するのは父親である。『クレイマー、クレイマー』においては感情に欠けた母親と法が父親のイノセンスを誤認する一方で、育児の痛みに耐える父親の美徳が観客のパセティックな感情移入を促し、父子の日常は言語を超越した感情を体現するメロドラマ的なタブローとして表象される。以上のような観点から、本発表では新自由主義というイデオロギーとメロドラマという文化的なモードの関係について考えてみたい。