〈2022年3月例会のお知らせ〉

〈 3月例会のお知らせ 〉

3月26日(土)1時半より

オンライン(Zoom・事前申込制)で開催いたします。
会員以外の方の参加も歓迎いたします。

参加申し込み方法は、3月中旬にHPにてお知らせします。

 

研究発表

 
 

荒野のアルケミスト

ジョン・ウィンスロップ・ジュニアと錬金術のニューイングランド

 講師:佐藤憲一(東京理科大学)

 司会:佐藤光重(慶應義塾大学)

 

 17世紀前半に大多数のピューリタンがニューイングランドに移住したのは、専ら「魂の浄化(purification)」を期してのことであった。しかし、ジョン・ウィンスロップの長子、ジョン・ウィンスロップ・ジュニアにおいてはやや、事情が異なるようだ。数々の状況証拠から、ウィンスロップ・ジュニアがニューイングランドに渡ったのは、「物質の浄化(purification)」を期してのことであったと推測される。実際、彼が数多の化学実験器具やそれに関連する書籍をニューイングランドに持ち込み、父親に叱責されるのは、有名な話である。端的に言うと、ウィンスロップ・ジュニアはピューリタンである以前にアルケミスト(錬金術師)であった。それどころか、「アメリカの達人(an American Adept)」として17世紀の大西洋両岸にその名をとどろかせた偽名の錬金術師「エイレナエウス・フィラレーテス(Eirenaeus Philaletes)」の正体は、ウィンスロップ・ジュニアであったという説さえ、唱えられている。
 ウィンスロップ・ジュニアの錬金術的実践はいかなるものであったか。そしてそれはいかなる影響力のもとにあり、またいかなる波及性を有していたか。発表では、これまでとりわけ日本国内ではほぼ見落とされてきた資料/史料を取り上げることにより、ウィンスロップ・ジュニアによってニューングランドにもたらされた錬金術的知の枠組みのありようを浮き彫りにし、ピューリタニズムや千年王国論の陰で不当にも不可視化されてきた初期アメリカにおける知的伝統を、忘却の彼方から救い出したい。

 
 

分科会

 
 

近代散文

 

“It Is Not His Fault”

Horatio Alger Jr., Phil the Fiddler にみる福祉国家の萌芽

五井結基(白百合女子大学・院)

 

<発表要旨>

 南北戦争後、ニューヨークのスラム街ファイブポインツを中心に存在した、パドローネ(Padrone)と総称されるイタリア人の親方のもとで働かされる子どもの搾取がアメリカで問題視されるようになる。これをいち早く小説の題材にしたHoratio Alger Jr.(1832-1899)は、Phil the Fiddler: The Story of a Young Street-Musician (1872)を上梓し、イタリアの親元から引き離され、パドローネに冷酷な扱いを受ける子どもらを救済する必要性を訴えようとした。
 本作の主人公である12歳の少年Phil (あるいはFilippo )は、ニューヨークの路上でヴァイオリンを弾いて金銭を集め、それをパドローネが住む家に持ち帰り、稼ぎが悪ければ彼から鞭打ちを食らうという日々を送っている。パドローネのもとには、Philの他に40人の少年がいる。ある日Philは、ヴァイオリンが大破したことを契機にパドローネのもとから逃走する。パドローネは彼を取り戻そうと追手を出すが、Philは逃走に成功する。最後にPhilは中産階級の医者Drayton夫婦の養子になり、貧困から脱出する。
 一方で、Algerは、Philが運よく逃れたパドローネ制度下で、今も搾取され続けている数百の子どもがいることを語り、本作を締めくくる。この結末は、Algerものでは定番の、主人公の上昇物語という形式に単純に還元されることを拒む。本発表は、児童労働者の上昇と搾取の問題を同時に提示する両面価値的な結末を、本作に表出する福祉国家的展望ともに読んでいく。

 

現代散文

 

投壜通信の系譜

Paul AusterのIn the Country of Last Things における証言の問題

下條恵子(上智大学)

 

<発表要旨>

 本発表は、Paul Austerの小説In the Country of Last Things (1987)をEdgar Allan PoeやPaul Celanといった作家、詩人が形成してきた<投壜通信>の系譜に連なる作品として捉え、そうすることで前景化される証言の諸問題について検討するものである。この小説は主人公Anna Blumeが故郷の幼馴染みである「あなた」(“you”)に宛てて、貧困と無秩序に支配された街での体験を書き綴った手紙として提示される。そう提示するのは三人称の語り手であるが、この人物が「あなた」と同一人物であることを示す記述はなく、この手紙は未達の状態であることが暗示されている。実際、作中でもこの街と外の世界をつなぐコミュニケーションの不安定さは「海へと無造作に投げ込まれた手紙」(“messages thrown out blindly to sea”)という比喩を用いて表現されているのである。
 19世紀のアメリカにおいてPoeが “MS. Found in a Bottle” (1833)などで繰り返し描いてきた投壜通信のモチーフは、第二次世界大戦のワルシャワ・ゲットー地下史料として現実の中に立ち現れ、さらにはCelanによるブレーメン文学賞受賞講演を経て、災厄を経験しながらもその先へは生きて進むことが見通せない者の証言としての側面を際立たせることとなった。今回はこの文脈の中でLast Thingsを読解し、手紙執筆に対するAnnaの自己言及的な省察や「石」の比喩で描かれるFrickの発語問題、半端品に付加価値をもたらすBorisの饒舌さなどに注目しながら、それらが暗示する証言の不可能性や行為遂行性と言った要素について考察する。

 

 

フィリス・ホイートリーの処方箋

療養巡遊詩篇における環大西洋的政治学

小泉由美子(慶應義塾大学・非)

 

<発表要旨>

 1773年にロンドンで刊行されたフィリス・ホイートリーの『多彩な主題の詩集』には、二つの療養巡遊詩篇と呼べる作品が収録されている。一つは、ジャマイカから北米へ療養に訪れる婦人に宛てた作品、もう一つは、英国へ療養の旅に出る紳士に宛てた作品である。アメリカ医学の父として知られるベンジャミン・ラッシュによれば、同時代において「船旅による療養」の有効性が説かれていた。ホイートリーによる本詩篇群は単に同時代の療養巡遊を反映しただけの作品なのだろうか。ジャマイカ、北米、英国のもつ地政学的意義は、はたして等閑視されてよいのだろうか。
 かつてホイートリーの詩作品は白人文化への迎合として過小評価されていた。1988年になるとヘンリー・ルイス・ゲイツ・ジュニアが 1773年の『多彩な主題の詩集』を「アフロ・アメリカ文学伝統の誕生」として言祝いだ。一方、2021年の Early American Literature誌上でベツィー・アーキラは、ホイートリーを「コスモポリタン的アフリカン・ブリティッシュ詩人」と再定置してみせる。実際、1773年の “A Farewell to America”における彼女のアメリカへの姿勢は示唆的である。ホイートリーにとって、英国に抑圧を受けるアメリカは、奴隷制度を保持し、ホイートリーを含む黒人奴隷を抑圧するアメリカでもあったからだ。
 以上の視座から、本発表は二つの療養巡遊詩篇および “A Farewell to America”を中心に、ホイートリーを環大西洋的視座のもとアーキラに倣って「コスモポリタン詩人」として位置付け、これら三つの詩篇における「健康の修辞学」を考察する。これら作品群における「健康 health」をめぐる言説が「平等 equal」の強調を伴って示されることを辿りつつ、同時代の奴隷制度に基づく「病としての不平等」を鋭く批判してみせるホイートリーの環大西洋的政治学を考えたい。

 

演劇・表象

 

Betty Shamieh作 Roar にみる出自詐称の代償

有馬弥子(恵泉女学園大学)

 

<発表要旨>

 パレスチナ系アメリカ人劇作家、俳優であるShamiehはアラブとパレスチナの文化的ルーツを標榜しつつも、同時多発テロ後のアメリカの演劇シーンの中で民族的に断定的評価を下されることには抵抗感を示し、2008年にはThe Black Eyed & Architectureの序文で、より普遍的な、もしくは「アメリカ的な」テーマと対峙する作家と位置づけられることを目指した経緯について語っている。Shamieh自身のこのような葛藤は、中東の黒い九月事件と湾岸戦争を背景とした2004年初演のRoarに登場する5人のパレスチナ系人物のそれぞれ異なる立ち位置に既に反映されていた。登場人物のうち4人はパレスチナ系アメリカ人として経済的安定や文化的成功を得たいと抗い、出自詐称という極端な手段さえも厭わない者も描かれる。しかしRoarでは同時に、出自の否定や文化的欲求の抑圧が計りしれない負の代償をももたらすことが明確に表明されている。
 SelimはRoarに描かれる出自やその文化の否定と肯定の間の揺れ幅について、アメリカの演劇シーンにおけるアラブ、ことにパレスチナをめぐる文学上の検閲に制限され、混乱をきたした結果であると論じている。しかし本論では、Roarにおける描出は、家族間の確執や、芸術、殊に音楽がもたらす高揚感、連帯感、救済等々の普遍的題材を前景化する手法により、パレスチナ系の中東での苛烈な体験およびアラブ系のアメリカでの困難な境遇について、それらの地政学的な特殊性にもかかわらず、広範な観客層に訴える構造をなす劇作たり得ていることを検証する。Shamieh自身2012年には、二つの異なる文化のはざまに置かれることは、人間性の普遍的なテーマへの洞察を深めると述べるに至っており、この文学的主張はRoarにおいて既に成就していたと言える。