〈6月例会のお知らせ〉
6月24日(土)午後1時30分より
慶應義塾大学三田キャンパス 南校舎445教室
*状況によりオンラインに変更する可能性がございます。
その際は支部HPでお知らせいたしますので、
事前にご確認くださいますようお願い申し上げます。
男性性研究への応答
フォークナー、間主観性、ハラスメント、スパイ小説
司会・講師:山根亮一(東京工業大学)
講師:新納卓也(武蔵大学)
講師:河野真太郎(専修大学)
講師:平塚博子(日本大学)
2022年のAmerican Literary History に掲載されたChristopher Breuのレヴュー・エッセイ、“Rethinking Masculinities Studies”によれば、現在におけるmasculinities studiesは1980年代、90年代の勃興期におけるそれと比べてはるかに多様化、複雑化している。すなわち、社会的構築物としての男性性概念の成型過程を記述するだけではなく、フェミニズムやポストコロニアリズムなどの文化政治的分野と共振しながら、男性性研究はジェンダー・ヒエラルキーに付随する広範かつ多様な社会矛盾の是正に積極的に取り組むようにもなってきた。この流れを踏まえて前掲ブリューが着目した近年の文学・文化研究は、たとえば、都市と田舎の価値観をまたぐ中西部モダニズム文学における男性性(Andy Oler)、1950年代アメリカの消費社会的文脈において不安定化した男性性(Clive Baldwin)、そしてクイア理論、クリップ理論を適用することで新たに表出する反体制的、あるいは反医療制度的男性性(Cynthia Barounis)を照射するものである。2019年から2020年のあいだに提出されたこれらの議論は、それぞれに具体的な地域性や歴史性を視座とし、現在の男性性研究においてもなお多大な影響力を持つR. W. Connellがかつてhegemonic masculinityと呼んだ一枚岩的な男性性規範を巧みに相対化していると言えるだろう。こうした流れに呼応し、さらに男性性というポジション、実践パターンを多様化、深化させる視点を提供するために、本シンポジウムはモダニズム期から21世紀に至るまでの様々な地域やジャンルにおける小説、映画を時系列順の各発表を通じて吟味する。
『響きと怒り』ジェイソン・セクション再読
新納卓也(武蔵大学)
<発表要旨>
ウィリアム・フォークナーの『響きと怒り』に語り手として登場するコンプソン家の兄弟クエンティンとジェイソンについて、この二人がともに「男らしさ」にこだわり、それを行動にうつそうと試みながら失敗するさまが繰り返し描かれていることは、つとに指摘されてきた。このうち、兄クエンティンが実演しようとする「男らしさ」は、身内女性の名誉を守り、またそれを汚した者への報復を辞さない南部紳士の伝統的な行動規範に基づくものである――ただし、妹の処女を奪った男に対峙するものの「女の子のように」気絶してしまう――とひとまず理解できる。またそうした彼の振る舞いが思い通りにいかずに近親相姦幻想にしがみついて自死するという展開は、この小説を消えゆく南部への愛惜をこめた悲劇に仕立てようとしたフォークナーの意図にもかなっていると言えそうだ。
それではジェイソンはどうなのか。兄同様に失われたものの回復をめざそうとする彼を支えるのもやはり「男らしさ」へのこだわりであり、彼のパフォーマンス性の高い言動からは、南部の伝統的ジェンダー規範や家父長制が参照枠となっているさまが読みとれる。しかしながら自死したクエンティンの一八年後のジェファソンに生きるジェイソンは、新南部という歴史的文脈のなかで、同時に「男らしさ」の更新をおこなっているように思われる。本発表では、複雑な造型がなされた(それゆえに魅力的な)ジェイソンの人物像について、「男性性」という本シンポのキーワードを軸に考察をおこなってみたい。
ジェンダー・ヘゲモニーの隙間に
『映画狂時代』における間主観的な語りについて
山根亮一(東京工業大学)
<発表要旨>
1962年度の全米図書賞受賞作、Walker Percyの『映画狂時代』(The Moviegoer, 1960)は、William HoldenやMarlon Brandoなど多くの映画俳優に言及しているにもかかわらず、男性性の物語としては十分に考察されてこなかった。これまで彼の叔父でありベストセラー小説家のWilliam A. Percyや、ノーベル文学賞作家ウィリアム・フォークナーらが興した地域主義文学の潮流、南部ルネサンスの終焉を知らせる次世代南部小説として知られてきた『映画狂時代』は、クライヴ・ボールドウィンが論じる1950年代アメリカ消費社会における男性性、つまり組織的人間として範疇化されることを女性化されることと同義としてとらえる反動的男性性の論理をいくらか踏襲しながらも、結局は自らが生まれ育ったニューオーリンズ共同体のなかで生きていくことを選択する語り手ビンクスの人生を描く。この白人男性の一人称語りが持つ性質は、実存主義や社会科学に通じたこの作家が批評家として論じた間主観的象徴論を基盤としており、そのため、彼にとっての男性性は一方でまさに映画俳優たちが示すヘゲモニー的なものとして、つまり広まった社会規範として自らの身に降りかかるものであるが、他方でどこか外部的なもの、他人事にすぎないものでもある。本発表の目的は、このように明確な輪郭や所在を持たない男性性の在り様に着目し、このジェンダー的範疇の有効性それ自体を再考することである。男性性研究の勃興期からR. W. コンネルやEve Kosofsky Sedgwickらが示したように、男性性とは必ずしも男性だけに関わるのではなく、女性やLGBTQ、さらに人種、階級、民族性などの様々な属性や物質的要因と交差し得るものであるとすれば、どの程度においてこの範疇を維持し続けるべきかをあらためて問い直す必要がある。
男性性研究と文学研究を橋渡しする
ハラスメントとヒムパシーを超えて
河野真太郎(専修大学)
<発表要旨>
今回のシンポジウムのお題を与えられて改めて考えてみると、男性学・男性性研究の成果と文学研究は十分に架橋されていないことに気づいた。男性学や男性性研究は歴史的に、フェミニズムへの応答として生じ、深められてきた。具体的にはまずは第二波フェミニズムへの応答として、それらは1970年代あたりに生じた。だとすれば設定すべき疑問は、1990年代の第三波フェミニズム、そして現在進行中の第四波フェミニズムに、男性性研究は、そして文学はどのように応じてきたのだろうか、というものである。さらにはそれを考えるには第三波、第四波、そしてそれらに重なりつつカテゴリーを別にするポストフェミニズムとは何かを同時に考える必要がある。また、それらのフェミニズムへの反応は、反省的な男性性研究だけではなく、反応=反動的なミソジニーもある。これらの全体を考える作業は、まだ始まったばかりである。
本発表では、第三波と第四波フェミニズムのあいだの断絶ではなく連続性に注目して、そのフロー(wavesではなくflowとして捉えられたフェミニズム)に男性がどのように反応してきたのかを考えてみたい。そのフローの重要な要素の一つは、ハラスメントの告発型のフェミニズムである。これに対してはミソジニーや「ヒムパシー」(ケイト・マン)で応える反応が目立ってきたし、本発表で扱ういくつかの文学作品や映画作品はその文脈で読めるだろう(マメット『オレアナ』、『ディスクロージャー』、『恋愛小説家』、クッツェー『恥辱』など)。であれば、それとは違う応答のあり方はどのようなものであり得るだろうか。本発表での理想的な到達点はそこである。
『アメリカンスパイ』における人種・ジェンダー・男性性
平塚博子(日本大学)
<発表要旨>
『アメリカンスパイ』(American Spy)はアフリカ系女性作家ローレン・ウィルキンソン(Lauren Wilkinson 1984-)のデビュー作である。2019年に出版されベストセラーとなった本作は、NAACPイメージ・アワードの新人賞、エドガー賞、アンソニー賞の最優秀新人賞他にノミネートされ、バラク・オバマ元大統領が本作を夏の読書リストに含めるなど、注目を浴びた。
『アメリカンスパイ』は、冷戦が続く1980年代にブルキナファソのカリスマ的な革命家トマ・サンカラの政権転覆と親米政権樹立の任務に就く、アフリカ系女性FBI捜査官マリー・ミッチェルを描いたスパイ歴史小説である。警察組織という男性社会を生きるマリーにとって、ジェンダー(そして人種)はキャリアを左右する問題として付きまとう。さらにマリーの物語に加えて描かれる、公民権運動時代に警察官となり人生を翻弄された父親とその世代アフリカ系アメリカ人警察官の物語は、男性性を強調する警察組織や国家が抱える矛盾も前景化する。『アメリカンスパイ』は、一般的に男性性を強調するジャンルであるスパイ小説という枠組みを使いながら、伝統的な男性性という概念に問いを投げかける作品となっている。
本報告では、アメリカの警察の歴史や近年の男性性研究を踏まえつつ、『アメリカンスパイ』におけるジェンダーと人種について考察する。その上でこの作品が提起する男性性をめぐる問題について考えてみたい。
ヘンリー・ソローとコンパニオンプランツ
ピューリタニズムの農耕史
山口敬雄(東京福祉大学)
<発表要旨>
ソローの文学において、ピューリタン的な予型論を見て取ることはそう難しいことではない。アメリカとイスラエル国との並行関係を示唆するようなレトリックは随所に散見されるからだ。ただし、ソローの予型論は、いわば予型と対型との対応関係を旧約聖書と新約聖書との関係にのみ見るのではなく、聖書と自然との関係性に対応させる点にその特徴があることはこれまでの研究から明らかにされてきた。現象の意味や作用を摂理の原因・結果という枠組みに位置付けるという点では同様であるものの、ソローにおいてはピューリタニズムの厳格な精神主義が同時に自然の摂理・法則に適ったものとされる。
『ウォールデン』「マメ畑」の章においては、「種子用のマメばかりに気を配って人間の新しい世代を生み出すことには、なぜ全く無関心なのか」とソローは現状を憂い、嘆き、叱責する。いわゆる「エレミヤの嘆き」とアメリカの自然の賞賛は、ソロー文学においてどのように語られたのか。北米先住民がピルグリム・ファーザーズに伝授したとされる、トウモロコシ、マメ、カボチャの三姉妹栽培法を手掛かりに、ソロー文学が物語るアメリカを探りたい。
*現代散文分科会は、シンポジウムを継続いたします。
ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの声をきく
“The Red Wheelbarrow”
山本毅雄(国立情報学研究所名誉教授)
<発表要旨>
William Carlos Williams (以下WCW) は、朗読の際しばしば、“Listen!”と「声をきく」ことの重要性を強調している。しかしWCWの “The Red Wheelbarrow” の朗読は、7回分が保存されているが、息継ぎのあり方や各音節の強調・非強調のリズムを比較すると、読み方がきわめて多様で一見したところ統一性がなく、しかもWCWの朗読全体として、他の朗読者たち(Allen Ginsberg, Langdon Hammer)とも大きく異なった特異な読み方になっている。これはどうしたことだろうか?
この研究では、上記の朗読に加えてWCWの他の詩の朗読や、他の詩人の自作朗読・それらの詩の他人による朗読など、総計200件あまりの朗読音声の統計解析をもとに、WCWの詩学を推測する。“No iambic pentameter”はWCWのモットーであったが、この詩の読み方は、WCWが(少なくともこの詩については)iambic pentameterに限らず footそのもの、すなわち、詩行(verse)を基本とする定まった詩的韻律自体を拒否し、「口語表現であればどう読んでもよい、どう読まれてもよい、それでも面白いものが詩だ」と考えていたことを示唆している。
種々の読み方によって、詩のなかで照明の当たる部分が変わってくる。それによって、想起される風景も、また強調される音の響きも変わる。WCWはこれらを一つの詩の重層的な表現と意識し、さらに改行のもたらす視覚的リズム(これは意味と峻別される)を、いわば直交軸をなす美的表現として加えた全体を、Cubism 絵画に対応する一つの「詩作品」としたのではなかろうか。
葬儀屋から見るコミュニティ
August WilsonのTwo Trains Running におけるWestの役割
中山大輝(茨城大学)
<発表要旨>
アフリカ系アメリカ人劇作家August Wilsonは、20世紀の黒人民衆史を、10年ごとに1作、全10作で描いたThe Pittsburgh Cycleを完成させたが、Two Trains Runningは、Wilson のサイクル第6作である。1960年代のヒル地区を舞台に据えたことや、Wilson自身がインタヴューで認めていることからも、本作をめぐっては、同化主義と分離主義をめぐる葛藤や、サイクル劇の最重要人物Aunt Esterの影響を分析した論考が多い。それゆえに、葬儀屋Westについては、あまり本格的に論じられてこなかった。
本発表は、死の表象、特にWestならびに、彼が営む葬送業の役割に着目して、Two Trains Runningを読みなおすものである。Prophet Samuelの盛大な葬儀が語られる冒頭からは、本作において、アフリカ系アメリカ人同士の貧富の差が拡大しているさまが窺える。重要なことは、アフリカ系アメリカ人の死や葬儀が、コミュニティの住民たちのモラルを問題化する点である。劇中で語られるWest宅への強盗や同胞の死が、コミュニティ内における黒人犯罪の悪化を示すことを踏まえれば、本作において、同胞の死に対する住民の責任が、重要な問題として浮上すると思われる。
Westをめぐっては、上記内容を念頭に、黒人犯罪の悪化による葬送業の利益増大が指摘できる。しかし、はたしてWestの役割は、そのような「がめつい葬儀屋」だけなのだろうか。本発表では、葬送業を中心とした死の表象に着目してTwo Trains Runningを読みなおし、「コミュニティの荒廃化と住民のモラルの低下」という問題を提示したうえで、その問題の解決に、住民のみならず、葬送業がいかなる役割を果たすのか、議論を深めていければと考えている。