〈2022年12月例会のお知らせ〉

〈 12月例会のお知らせ 〉

12月10日(土)午後2時より

慶應義塾大学三田キャンパス 西校舎516教室

*状況によりオンラインに変更する可能性がございます。
その際は支部HPでお知らせいたしますので、
事前にご確認くださいますようお願い申し上げます。

 

シンポジウム

 

「作家のキャリア」を研究すること──現在地とこれから

 

司会・講師:小島尚人(法政大学)

講師:伊藤淑子(大正大学)

  講師:坂根隆広(関西学院大学)

   講師:深瀬有希子(実践女子大学)

コメンテーター:折島正司(青山学院大学名誉教授)


    2022年の日本アメリカ文学会全国大会の東京支部発題シンポジウムのテーマにもなった「トランスベラム文学」は、文学史上の時代区分の制度をめぐる議論が熱を帯びる中で2015年にCody Marrsが提唱した概念である。アンテベラム期/ポストベラム期という強固な時代区分がもたらす視座の固定化に対するMarrsらの異議申し立ては、19世紀アメリカ文学史の再考を促しつつ、次第に世紀の枠をこえて、従来の時代区分に囚われない多様な時間軸を導入する研究の模索へと展開してきている。
    本シンポジウムでは、このような文学史の時代区分の再編成の潮流がもたらした帰結のひとつとしての「作家のキャリア」への再注目を取り上げる。作家研究が周縁化されて久しい米国のアカデミアにおいて、固定化された時代区分を越境するものとしての個々の作家のキャリアの意義が見直されている現状は興味深い。ただ、2022年に出版された最新の論文集においてもMarrsは “career studies”の必要性をあらためて主張しているが、そこで彼が言う「キャリア」とはどのようなもので、それを研究する具体的なアプローチとしてどのようなかたちがあり得るのかという点については、それなりに説明されてはいるもののやや茫漠としていることもまた事実である。
 そこで、本シンポジウムでは、まだ端緒についたばかりの以上の動きへの批評的応答を試みたい。19世紀から現代に至るまでの長いスパンの中からMargaret Fuller、Henry James、F. Scott Fitzgerald、Toni Morrisonの4人の文学者を取り上げ、「キャリア」研究の事例を提示しながら、個人作家を軸にしてアメリカ文学の研究をすることの意義と問題点を再考し、ひいては今後の可能性を多少なりとも展望できればと考えている。

 

 

超絶主義を超絶するフラーのキャリア

伊藤淑子(大正大学)

<発表要旨>

     本発表では、女性であることの制約に直面しつつ、超絶主義の空気のなかで社会進出と自己実現を模索し、実行したマーガレット・フラー(1810年5月-1850年7月)のキャリア形成の根源となったと思われる自己イメージを探りたい。フラーもキャノンの見直しによって再注目されることになった女性作家のうちの一人であるが、西部旅行記Summer on the Lakes, in 1843 (1844) によってニューヨーク進出の機会をつかみ、Woman in the Nineteenth Century (1845)によってアメリカのフェミニズムのパイオニアと目されるフラーの原動力を“The Magnolia of Lake Pontchartrain” (1841) と“Leila” (1841)に読みとりたい。どちらも編集者としてかかわったThe Dial (1840-44)にみずから掲載した短編であるが、文学的想像力と社会改革の構想を織りこんだこれらの作品を読みとき、社会制度や規範を超えて、同時代の超絶主義者たちのさらにその先に、あるいはべつの方向に、自己のロールモデルをみずから構築しようとしたフラーの葛藤を探りたい。
 そして、キャリアの道半ばにして海難事故で生涯を閉じたフラーを伝記や文学作品がどのように描いてきたか、考えてみたい。とくに、生誕二百年にあわせて出版されたJohn Matteson, The Lives of Margaret Fuller (2012)とMegan Marshall, Margaret Fuller: A New American Life (2013)が、記録のほぼ残っていないフラーの最期をどのように描いているかに注目し、作家の死後にも増幅していく作家のイメージも含めて、作家のキャリア形成について考察してみたい。

 

ジェイムズのキャリア転換期における「南部」の断続的回帰

小島尚人(法政大学)

<発表要旨>

     ヘンリー・ジェイムズの50年以上におよぶ作家としてのキャリアは、「国際テーマ」の第一期、「社会テーマ」の第二期、後期三部作が生まれる「円熟期」である第三期、そしてそれ以後の晩年の第四期という区分によって捉えられてきた。本発表では、これらのキャリアの区分の狭間に位置する転換期のいずれにおいても、南部ないしは南北戦争の主題がジェイムズにとって重要なものとして繰り返し立ち現れてくることを指摘したうえで、1880年代前半の短篇における南部表象が20数年後のニューヨーク版でどのように改訂されたかを検討する。それを通じて、1880年代前半のアメリカ帰省の際のワシントン滞在経験と、1904年から翌年にかけてのアメリカ周遊経験(ワシントン再訪と南部諸州の初訪問を含む)とが作中の南部の描かれ方にもたらした変容とその意味を明らかにすることを目指す。最終的には、1880年代と晩年という大きく隔たった時期のジェイムズ作品を、南部・南北戦争という主題の断続的回帰と変容という観点から論じる研究の可能性を示唆しつつ、Cody Marrsの言う「解釈学的カテゴリーとしてのキャリア」の研究の一例とはたとえばこういうものかもしれない、という検討事例を提供したい。

 

壊れものとしてのキャリア

フィッツジェラルドの後期エッセイを読む

坂根隆広(関西学院大学)

<発表要旨>

     フィッツジェラルドが1936年に発表したエッセイ、“The Crack-Up”は、“Of course all life is a process of breaking down”という有名な文章で始まる。ここでの“life”を「キャリア」と同一視するのは恣意的に響くかもしれないが、そうとも言いきれず、「生」と「キャリア」が異なりつつも微妙に重なりあう、その錯綜した関係こそが、「崩壊」三部作をはじめとする後期エッセイ群の主題だともいえる。これら一連の文章は、「作家としてのキャリア」をどのようなものとして提示しているのだろうか。その問いを考えることは、フィッツジェラルドによる、作家としての倫理をめぐる思考、あるいは作家であることをめぐる深く倫理的な思考をたどることを意味するだろう。そういった思考の展開が必然的に要請するところの、特異な時間感覚や自己と他者の関係、「ヴァイタリティ」という概念、負債や恐慌のアナロジーなどについても検討し、最終的には、これらのエッセイで提示される「キャリア」をめぐる考察が、(しばしば主人公の「キャリア」を主題化する)フィッツジェラルドの小説を読み解くうえでどのような意義を有しうるか、彼の実際の「キャリア」のありかたとどのように呼応するのか(あるいはしないのか)、といったことについても一定の結論を出したい。

 

モリスンが編む、モリスンを編む

文学史というキャリア

深瀬有希子(実践女子大学)

<発表要旨>

     本発表では、文学史を編む、文学史に編まれるということに長くかかわってきた編集者・作家・批評家トニ・モリスン(1931年2月-2019年8月)の活動を振り返りたい。モリスンは、1960年代はランダムハウスの編集者として黒人文学の出版に尽力、1970年代に作家デビュー、1980年代に国内の文学賞を受賞後、1993年にノーベル文学賞を受賞、そして2012年には大統領自由勲章を受章という華々しいキャリアをたどった。そうしたモリスンの道のりが、同時に展開していたアフリカ系アメリカ文学史の流れとどのように交差していたかを改めて見ていきたい。
     日本国内では、奇しくもモリスン逝去の直前に出版された『「他者」の起源―ノーベル賞作家のハーバード連続講演録』(The Origin of Others 2017年、翻訳2019年)がよく読まれている。本発表では、同じく2019年に出版されていたThe Source of Self-Regard: Selected Essays, Speeches, and Meditationsを紹介したい。本論評集を手がかりにして、モリスンが文学史を編む、そして文学史に編まれることにかかわる様を、ほかの黒人作家との直接的または間テキスト的関係性とともに確認できればと思う。このように言えば、ヘンリー・ルイス・ゲイツ・ジュニアがThe Signifying Monkey(1988年)で示した黒人作家の系譜図を思い浮かべるむきもあろう。その図を再構成するとまでは言わないものの、そこでは左端に位置するモリスンを中心の方にすこし動かしながら、文学史に名を連ねること、文学史というキャリアについて考察できればと思う。

 
 

忘年会

 

運営委員会で協議した結果、昨年度に引き続き、中止といたします。