〈2017年度1月例会のお知らせ〉

〈1月例会のお知らせ〉

2018年1月27日(土)午後1時半より
慶應義塾大学 三田キャンパス
研究室棟A・B会議室

 

研究発表

 

ポスト公民権運動の時代とモリスン文学

『タール・ベイビー』(1981)から愛の三部作への展開

講師:西本あづさ(青山学院大学)

司会:森あおい (明治学院大学)

 

 『タール・ベイビー』(1981)は、第一作『青い目がほしい』(1970)出版後も長く編集者、教師、シングルマザーとして奮闘しながら執筆を続けてきたトニ・モリスンが、自らを本格的な作家と位置づけるようになって最初に発表した小説である。モリスン作品の中でもとりわけ高い評価と人気を誇る前作『ソロモンの歌』(1977)と次作『ビラヴド』(1987)の間に挟まれたこの第四作は、従来、モリスン文学における逸脱、あるいは少なくともモリスン文学のキャノンの中では周辺にある作品と見なされ、批評家たちが論じたがらない作品の筆頭であった。

 本発表では、そうした従来の批評に抗して、いかに『タール・ベイビー』が、その後のモリスン文学のもっとも豊饒な時期──当初「愛の三部作」として構想されていた『ビラヴド』、『ジャズ』(1992)、『パラダイス』(1997)、さらには2006年にルーブル美術館で開催された「異邦人の故郷」展にまで及ぶ展開──が取り組むことになる主題をすでに混沌と孕んでいたか、その意味では、作家が出発点で自らの文学的構想を思考する場として、モリスン文学の中できわめて重要な位置にあるかを明らかにし、『タール・ベイビー』を起点に据えたモリスン文学の解釈を試みる。

 『タール・ベイビー』は、公民権運動が輝かしい成果とともに失望や焦燥感をも残して終息し、ブラック・パワーの主張が政治と権力に歪められ追いつめられる中、やがてアフリカ系アメリカ人社会内部にさらなる格差を招くことになるレーガン政権が誕生したまさにその年に出版された。そこには、旧来の権力のヒエラルキーを内包したまま合衆国に誕生した不完全な人種融合社会で、加速するグローバル化と消費主義の波に浸されつつあった出版当時、作家が感じていた切迫した危機感──先人が差別と暴力に抗して生み出してきたアフリカ系アメリカ人の「文化的なまとまり」の輪郭が曖昧になり、価値が多様化して、民族の「精神の拠り所」が次世代に伝わらなくなるのではないか──が寓話の形式を借りて表現されている。まさにそうした危機感の中から、その後のモリスンが取り組むことになる、民族の失われた過去を再発見し歴史を再構築する「文学的考古学」のプロジェクトが生まれ、「愛の三部作」構想の最初の二作『ビラヴド』と『ジャズ』が生み出されたといえよう。

 他方、出版から35年余が経過した現在、その時間プリズムを通して『タール・ベイビー』を再読すれば、そこには『ビラヴド』や『ジャズ』につながる要素ばかりではなく、『パラダイス』から「異邦人の故郷」展へと向かう後期モリスン文学の展開を予感させる要素もすでに書き込まれていたことが判明する。発表の後半では、『タール・ベイビー』と『パラダイス』の比較を通して、モリスンが、『ビラヴド』から『ジャズ』で試み「愛の三部作」として完結するはずだったアフリカ系アメリカ人の歴史の再構築のプロジェクトが、『パラダイス』では一部断念され修正されて、アフリカ系アメリカ人固有の経験が時空を超えた人類の共通体験としてのディアスポラ的状況という枠組みの中で描きなおされていることを論じる。さらに、『パラダイス』から「異邦人の故郷」展を経た後に回顧的に生まれる『タール・ベイビー』の新たな読みの可能性についても言及したい。発表に当たっては、現在継続中のトニ・モリスン・ペーパーズの調査からの成果も一部盛り込む予定である。

 

分科会

 

近代散文

追憶のナラティヴ

The Blithedale Romanceにみるホーソーンの歴史意識

内田裕(中央大学・院)

<発表要旨>

 Nathaniel HawthorneのThe Blithedale Romance(1852)は、作品に内在する多くの特異性から長きにわたり様々な批評の対象とされてきた。なかでもMiles Coverdaleの語りの性質にはいまだに新たな解釈が示され続けている。

 事実Coverdaleの語りには不可解な点が多く散見される。すべてが経験された過去の出来事に対する回想録でありながら、彼が示すそれらへの評価が作品を通して大きく変化するのだ。建国期から19世紀にわたるアメリカの正史構築の動きに対して批判的視線を向けたことで知られるNathaniel Hawthorneだが、1850年代という国家分裂の危機が迫る時期に、語り手人物の回想と、不可解なプロットの展開というモチーフによって彼が意図したものとはなんだったのであろうか。

 本発表では、作品そのものが語り手Coverdaleの回想により構成されている点に注目することで、プロット上の欠陥とさえみなされてきた描写に対して新たな解釈を試みる。なかでも回想するという行為が回想する者におよぼす影響の描かれ方について考えることで、作者の考える歴史意識について考察する。

 

現代散文

カーソン・マッカラーズとリベラルな夢

フリークスと少女たち

佐々木真理(実践女子大学)

<発表要旨>

 カーソン・マッカラーズ研究は、1950年代から60年代にかけての、フィードラーやハッサンによる、思春期の少年少女の孤独と愛を中心に読解を試みるものから始まり、80年代以降は、フェミニズム理論やクィア理論による、南部における女性らしさの規範という問題や、セクシュアリティの多様性を分析する批評が続いた。21世紀に入って、そのようなマッカラーズ研究の流れを大きく転換させることとなったのが、ディスアビリティ理論の確立である。もちろん、それまでも、マッカラーズ作品に頻出する、いわゆるフリークスたちについての考察は試みられてはきたが、ディスアビリティ理論という新たな視点は、マッカラーズ研究にさらなる広がりをもたらした。本発表では、そのようなディスアビリティ理論による成果を確認することで、そこから見えてくるマッカラーズ研究の今後の可能性について検討を試みたい。

 

悪趣味な音楽

レミュエル・ホプキンズ「ギロチーナ」(1796–99)を読む

小泉由美子(慶應義塾大学・院)

<発表要旨>

 コネティカット・ウィッツの一人で、本職は医師であったレミュエル・ホプキンズ(1750–1801)は、1796年1月4日付の『コネティカット・クーラン』誌において、「ギロチーナ——十番目の詩神によるアニュアル・ソング」を発表、瞬く間に人気を博す(以後、1799年まで毎年同誌に「ギロチーナ」掲載)。本作は、フランス革命を背景の一つに発明・実用化された処刑器具「ギロチン」を題材とし、その化身「ギロチーナ」を十番目の詩神として呼びかけながら、そのギロチンの刃が人間の首を規則的に断ち切る瞬間にその「音楽」を聴く。この詩想は一見したところ「悪趣味」に映るかもしれない。しかし、この悪趣味な詩学の解剖を通じて見えてくるのは、本作が、1790年代における環大西洋的想像力の落とし子にほかならない事実である。以上の視点より、本発表は「ギロチンの音楽性」を明らかにしたうえで、本作で言及される黒人天文学者ベンジャミン・バネカーとトマス・ジェファソンの往復書簡、および1790年代の連邦派と共和派の対立を補助線としながら、ポスト独立戦争期におけるアメリカの叙事詩の「内側」を詳らかにしたい。

 

演劇・表象

身体と物語ること

Flannery O’Connor作品からWonder Womanの女性身体表象を考える

杉本裕代(東京都市大学)

<発表要旨>

 オコナー作品の批評に、冷戦期文化の再考とあいまって、新しい解釈の余地が生まれている。彼女の物語に特徴的である、冷笑というにはあまりに絶望的な人物描写や物語展開は、南部ゴシックの系譜に位置づけられ、また、彼女の人生と信仰に由来する絶望とそれへの抵抗の現れだとされてきた。こうした状況に変化を与えた論考として、ひとつには、Jon Lance BaconによるFlannery O’Connor and Cold War Culture(2005)があるだろうし、もうひとつには、Mark McGurlのProgram Era(2011)があることは周知のことであろう。

 本発表では、オコナーが学生時代にcartoonを描いていたことに注目しながら、彼女の代表的短編“Good Country People”(1955)を取り上げる。同時代のアメリカン・コミックの身体表象、とりわけ、女性キャラクター、ワンダー・ウーマンの身体が神話化/男性化される過程を参照し、それが後に第二派フェミニズムのアイコンとなった現象を視野にいれつつ、現代の文脈におけるオコナー批評の可能性を論じる。矛盾や亀裂、欠損という事象を、絶望や冷笑、そしてアイロニーという解釈だけで片付けられるのか、オコナーが描いた女性身体の意味合いを考えてみたい。