〈2019年度5月例会のお知らせ〉
2019年5月18日(土)午後1時30分より
慶應義塾大学 三田キャンパス
研究室棟A・B会議室
Value, Valuta, Valutaschweine
資本主義と〈モダン〉の黎明
講師:吉田朋正(首都大学東京)
司会:杉本裕代(東京都市大学)
第一次世界大戦後、母国にない文化的価値を求めて欧州へと旅立った“lost generation”の若者たちは、信じがたい物価変動と通貨価値の騰落に喘ぐヨーロッパ社会を発見する。「いにしえの地ヨーロッパ、古くからの価値を有していたあの大陸は、そいつをすっかりなくしたばかりだった。あるのは〈価値〉ならぬ〈価格〉ばかり、国から国、地域から地域へと移るたびにそれは変化し、時々刻々と変動しているようだった」(M. Cowley, Exile’s Return)。Cowleyが描いたその光景を起点として、当発表ではモダニズムの黎明がいわゆる「危機の20年」(E. H. Carr)、つまりヨーロッパからアングロサクソン国家へと世界の中心が動いた大転換期の始まりでもあったという事実について、いくつかの面から再考を試みたい。
ワークショップ「Transbellum American Literatureをめぐって」
小島尚人(法政大学)
<発表要旨>
近年、19世紀アメリカ文学研究における時代区分の再考が盛んにおこなわれている。南北戦争による断絶を過度に強調するantebellum/postbellumという時代区分の問い直しを求めるマニフェスト“Against 1865: Reperiodizing the Nineteenth Century”(2013)の著者のひとりCody Marrsは、その単著Nineteenth-Century American Literature and the Long Civil War(2015)において、transbellumという概念を打ち出した。Marrsの問題提起は多くの研究者に刺激を与え、彼が盟友Christopher Hagerとともに編集した論文集Timelines of American Literature (2019)では、20人を超える研究者たちが、従来の時代区分に囚われない多様な時間軸にもとづくナラティブを紡いでいる。
本ワークショップでは、Marrsの提起したtransbellumという概念の要点を紹介するとともに、そのアプローチが切り拓きうる研究の可能性について、批判的な視座も失わずにいつつ検討してみたい。
*近代散文分科会は事情により上記のワークショップに変更になりました。
アメリカン・ドリームという酔夢
The Vegetable, or from President to Postmanに見るアルジャー・コンプレックス
横山晃(テキサス大学ダラス校・院)
<発表要旨>
本論では、F. Scott Fitzgeraldの作品The Vegetable, or from President to Postmanの主人公 Jerry Frostのキャラクターを通して、1920年代におけるアメリカン・ドリームの受容について考える。本作はアメリカン・ドリームをアイロニカルに描いたと考えられているが、Fitzgeraldがそのような態度をとった原因を、作家個人のレベルだけではなく、1920年代における同時代的な反応、という観点からも同時に考察する。
Frostはアメリカ合衆国大統領になりたかったもののその夢を諦めた、と妻であるCharlotteに伝える。密造者から買った紛い物の酒を飲んだ後、Jerryの元には彼にだけ見える群衆がやってきて、扉を開けるとMr. Jones と名乗る男性によってJerryは共和党の大統領候補に指名されたことを伝えられる。ただし、大統領を目指すことは十戒の一つであると言うように、Jerryにとって成功=アメリカン・ドリームとは追うものではなく、成し遂げるべき理想として彼を追い立てるものであることが暗示されている。このJerryの心理を、1925 年8月出版の The New Yorker でGilbert W. Gabriel が執筆した「アルジャー・コンプレックス (“The Alger Complex”)」と題されたエッセイから考察する。実際、Fitzgeraldの作品に見受けられるHoratio Algerの影響はしばしば指摘されるが、本作のタイトルが示すように、大統領から郵便配達員になるJerryは、rags-to-richesの物語を逆方向にたどっている。
アメリカン・ドリームの受容の変遷を考える上で、さらに女性の映画スターの台頭が果たした役割についても併せて考察する。1910年代以降、Mary Pickfordに代表されるスターは、アメリカン・ドリームをシンデレラ・ストーリーによって叶えていったが、Jerryのキャラクターと作品のプロット分析を通して、アメリカン・ドリームがどのようなジェンダー構造を有していたのか、本作の冒頭に言及される Little Lord Fauntleroy を参照しながら明らかにしていきたい。
エズラ・パウンドとマーシャル・マクルーハン
視覚・聴覚・電気
勝田悠紀(東京大学・院)
<発表要旨>
フェノロサの論文 “The Chinese Written Character as a Medium for Poetry” とそれに影響を受けたエズラ・パウンド(1885-1972)は、西洋の詩の再活性化を目指す詩論のなかで漢字(表意文字)に注目し、これとアルファベット(表音文字)との関係を、視覚、聴覚という二つの感覚を軸にして論じている。パウンドはまた、それ以前から電磁気学に基づくイアナロジーを用いており、「ヴォーティシズム」や表意文字をめぐる詩論において、「電気」は特別な位置を与えられている。
パウンドに四半世紀遅れて生まれたメディア理論家マーシャル・マクルーハン(1911-1980)は、文芸批評家として出発し、ジョイスやポーと並んでパウンドに深い関心を抱いていた。マクルーハンがパウンドに送る書簡ではCantosの芸術的達成などへの言及が中心だが、アルファベットと印刷技術による視覚中心主義の西洋に、電気時代がついに聴覚を含む感覚複合的な社会をもたらすと説くマクルーハンの議論は、パウンドの詩論と大きな枠組みを共有している。
本発表では、ヨーロッパに渡ったアメリカ詩人とカナダのメディア理論家とを上記のような視点から突き合わせることで、パウンドの詩論および詩作品(特に初期からHugh Selwyn Mauberley)、文学とメディア理論の関係、アメリカ詩史における「電気」の位置といったトピックに関して、どのような示唆が得られるかを考える。
主観性/主体性の逆説
フランシス・フォード・コッポラ『カンバセーション‥‥盗聴‥』(1974)における聴覚の問題
山本祐輝(立教大学・研究員)
<発表要旨>
映画において、人間の聴覚はどのように表象されうるのか。この問題について考えるにあたり、本発表は、多様な音の実験が行なわれていた1960年代後半から1970年代前半のアメリカ映画のなかでも、録音と聴取を主題とした稀有な作品であるフランシス・フォード・コッポラ監督の『カンバセーション‥‥盗聴‥』(The Conversation、1974)を論じる。本作において、盗聴のプロフェッショナルである主人公ハリーは、ある男女の会話の録音を依頼される。彼は特殊な音響機器を駆使して録音された会話の復元を試みるなかで、その男女が命を狙われている可能性に気づき、不安に苛まれていく。
先行研究のみならず、本作の音響と編集を担当したウォルター・マーチ自身も発言しているように、おおむね、この映画はハリーの「視点」ならぬ「聴取点」(point of audition)に制限された語りによって物語られていると言えるかもしれない。だがいくつかのシーンにおいて、必ずしも聴取点の概念では説明することができないような、歪な音が聞こえてくる。それは物語世界の空間においてたしかに鳴り響いていながら、同時にハリーの感情や精神によって増幅され、ねじ曲げられているという、複雑な仕方で映画のサウンドトラック上に存在しているのである。
この発表ではまず、音と映像の詳細な分析を通じて、「聴取点サウンド」とはまったく異なる性質を持った主観的な音が使用されていることを指摘する。その上で、このようなハリーの主観性(subjectivity)の表出が、物語における彼の主体性(subjectivity)を保証するどころか、それを掘り崩してしまうという事態を論じる。そのことの意味を、終盤にかけてあらわれるハリーの独特な身体イメージや、物語の鍵となるある台詞との関係において明らかにする。