〈2019年度1月例会のお知らせ〉
2020年1月25日(土)午後1時30分より
慶應義塾大学 三田キャンパス
研究棟AB会議室
エドマンド・ウィルソンと「ロシア」
講師:岡本正明(中央大学)
司会:大矢健(明治大学)
エドマンド・ウィルソンの文業はじつに多岐にわたっており、それは、「博学多識、縦横無尽、百花繚乱」とも評すべきものである。その「総体」に分け入ってゆくためには、さまざまな方法が考えられる。年代順、ジャンル別、等々……。本研究発表では、そのなかでも、「地域別」というアプローチ方法の一例として、「エドマンド・ウィルソンとロシア」というテーマを通してウィルソンの文学的世界に光を当てたい。
考察のプロセスは以下の通りである。発表の前半では、ウィルソンとロシアのかかわりについて概観する。後半では、ウィルソンとロシアのかかわりから生み出された作品のなかから、『フィンランド駅へ』をとりあげ、それを今日的な観点から論じる予定である。
そして最後に、本発表の「付録」(補足的な説明)として、ウィルソンのロシアへの旅の概要を、主に旅行記『ふたつの民主主義国を旅して』と彼の1930年代の日誌を拠り所として、レニングラード(サンクトペテルブルグ)とモスクワを中心に(写真や映像等を交えて)紹介するつもりである。
The House of the Seven Gablesに見られる都市の形成
文学研究とマテリアル・カルチャーの交差するところ
佐野陽子(成蹊大学・非)
<発表要旨>
マサチューセッツ州セイラムにあるThe House of the Seven Gablesを訪れたことのあるアメリカ文学研究者は多いだろう。その中に同じ疑問を抱いた方がいらっしゃるかどうかわからないが、発表者が何度目かにこの家を訪れて、そこに作られた「Hepzibahのcent-shop」を見たときに疑問に思ったのは、「このcent-shopは当時の建築などの歴史的資料に基づいて再現されたものなのだろうか」ということだった。そこで、The House of the Seven Gablesのキュレーターに問い合わせてみたところ、20世紀初頭に、ミュージアムの創設者Caroline Emmertonに頼まれて家の復元を担当した建築家Joseph Everett Chandlerは、この「Hepzibahのcent-shop」を再現する際には、HawthorneのThe House of the Seven Gablesの中のcent-shopの描写を真似て、それにColonial Revival styleとEmmertonのヴィジョンを取り混ぜており、それ以上の資料は参照しなかったとのことだった。
「それでは、どこかに当時のcent-shopの雰囲気がわかる歴史的資料や場所はないのだろうか」というのが、次の疑問だった。キュレーターは知らないとのことで、そこからcent-shop探しが始まり、思わぬところに見つけることになる。
本発表では、文学研究にマテリアル・カルチャーの手法も多少取り入れながら、The House of the Seven Gablesを都市の形成という視点から論じる。都市が発展していく過程には、鉄道網の整備や市場の拡大、様々なテクノロジーの発達や文化の発展などがあるが、この作品の中でも19世紀の都市の形成を垣間見ることのできる場面や「モノ」(家や店、汽車や銀板写真など)が数多く見られる。その中でも、今回は特に、上記のcent-shopと汽車に注目して、The House of the Seven Gablesに見られる都市の形成について考察していきたい。
真実の中の嘘、嘘の中の真実
スタインベックの作品における弱者
大須賀寿子(明治大学・非)
<発表要旨>
真実のなかに嘘がひそんでおり、嘘のなかにこそ真実がこめられていることも多い。それでは、ジョン・スタインベックの作品では、嘘はどのように機能しているのだろうか。彼の作品では、第三者による嘘の証言がきっかけとなって、登場人物たちの夢の実現が不可能になるか、あるいは彼らは大きな精神的なダメージを受けてしまう。また、彼の作品では女性によって語られた嘘により、男性たちが夢の実現を妨げられるという構図が見られる。たとえば、『二十日鼠と人間』(1937)では、ある女の虚言により、ジョージとレニーは農場を追われて新しい農場で働くことを余儀なくされる。また、『エデンの東』(1952)では、キャシー・エイムズの嘘によって多くの男性が身の破滅に至る。『エデンの東』の語り手でもあるスタインベックによって、キャシーは「生まれながらの怪物」や「嘘つき」であると描写されているが、彼女は真実を見抜く能力が高い人間であると考えられる。さらに、時には登場人物の語る嘘は秘められた真実以上に大きな力を持っており、真実以上に登場人物自身を語るものになっていき、とくに弱者としてみなされる人物にとっては、嘘はナラティブの方法の一つになっていく。
本発表においては、スタインベックのいくつかの作品を取り上げて、嘘と語りの関係を考察し、作中でどのような効果をもたらすのであるかを分析していきたい。
どちらでもない場所で「声」をさがす
Gloria E. Anzaldúa “To live in the Borderlands means you”を読む
山中章子(日本工業大学)
<発表要旨>
本発表では、グロリア・アンサルドゥア (Gloria Anzaldúa, 1942-2004)の詩 “To live in the Borderlands means you”の語り手の声を通して、異なる言語(英語・スペイン語・ナワトル語)の混交が「ボーダーランズ」で生き延びる手段となり、「新しいメスティーサ」という二者択一ではない新たなアイデンティティを形成する一助となっている点を考察する。
この詩が収録されているBorderlands / La Frontera: The New Mestiza (1987)は、主にアンサルドゥアの故郷テキサス訛りのスペイン語“Tex-Mex”と英語の二言語にナワトル語を織り交ぜながら書かれ、散文と詩で構成されている、いわばハイブリッドなテクストである。本書には、チカーナ・レズビアンとして葛藤してきたアンサルドゥアの自伝的要素を中心に、アメリカとメキシコの国境地帯、人種や民族、言語、ジェンダー、セクシュアリティ等の様々な境界線にまつわる問題が、重層的に取り上げられている。献辞に「国境の両側にいるすべてのメキシコ人に」(“a todos mexicanos / on both sides of the border”)とあるが、書名にある複数形の「ボーダーランズ」や女性形の「メスティーサ」が示唆するように、本書はこれまで声を奪われてきた女性たちの連帯や、国籍や人種をも超えたハイブリッドな社会の在り方を模索し、チカーナ/ノ文学の形成に影響を与えた。
アンサルドゥアは1992年の講演で、「新しいメスティーサ」たちは「トロイのラバ」となって白人アカデミズムの牙城を内側から崩さなければならないと鼓舞し、多文化主義は先住民の文化を紹介するだけの「快適ゾーン」に収まるべきではないと訴えた。ヒスパニック系が最大のエスニックマイノリティとなり、英語とスペイン語の混交が特別なことでなくなりつつある現在の視点から、異なる言語を混交させ声を紡ぎだし、「快適ゾーン」を乱す彼女の詩的実験性を示したい。
トランプ時代のアメリカ演劇
Lynn Nottage作Sweat (2017)を中心に
竹島達也(都留文科大学)
<発表要旨>
2018年6月のトニー賞の授賞式において、ミュージカル部門で最優秀作品賞を受賞したThe Band’s Visit (2017)の 製作者たちは、トランプ大統領に対する敵意や憎悪をはっきりと表明し、会場を沸かせた。音楽担当のDavid Yazbekがレバノン系、劇作担当のItamar Mosesがユダヤ系というエスニシティーを考慮すると、The Band’s Visitには、数度の中東戦争を通じて険悪になっていたアラブ世界とユダヤ世界との融和や関係改善を目指している面があっただけに、特に2018年5月においてトランプ政権がイスラエルのアメリカ大使館をテルアビブからエルサレムへ移転することを決定したことが許しがたい暴挙に映ったことは容易に想像がつく。この出来事は、アメリカ演劇が今までもアメリカ社会や時代の鏡であったが、トランプの時代においてはその傾向がさらに強まってきていることの証左であるとも言えよう。
当発表では、リベラルなアメリカの風土に激震をもたらし続けているトランプ時代の時代相を、アメリカ演劇がどのようなストラテジーで捉え、表現しているかについて考察・解明することを主要な目標とする。中心的に取り上げる作品は、アフリカ系の劇作家で2度のピューリツァー賞の受賞歴があるLynn Nottage (1964-)の代表作で、2017年度のピューリツァー賞演劇部門を受賞したSweat (2017)である。Sweatは、アメリカで最も経済的に貧しい地域の一つである、ペンシルベニア州のラスト・ベルトの町を舞台に、工場労働者である「忘れ去られた人々」の惨状を赤裸々に描いたもので、まさに「トランプ時代のアメリカ演劇」とも言える戯曲である。