<2020年度11月例会のお知らせ>

〈2020年度11月例会のお知らせ〉

2020年11月28日(土)午後16時より(詩部門のみ14時30分より)
分科会(演劇・表象部門を除く)のみの開催となります。オンライン(Zoom・事前申込制)で開催いたします。
詳細は、11月16日頃、支部HPに記載しますのでぜひご確認ください。
会員以外の方の参加も歓迎いたします。

 

分科会

 
 

近代散文

 

エマソンのアメリカニズム再考

“The American Scholar”を読む

冨塚亮平(慶應義塾大学・院)

 

<発表要旨>

 1837年8月31日、Ralph Waldo Emersonは数多くの聴衆を前に、 “The American Scholar”と題された講演を行った。この講演はこれまで、アメリカが過去に欧州から受けてきた影響を脱して独自の知的伝統を確立しはじめる、Oliver Wendell Holmesが「アメリカの知的独立宣言」と呼んだことに象徴されるような傾向の先駆けとして評価され、読み継がれてきた。
 それに対して本発表では、個人主義、グローバリズムのいずれにも帰着しないようにも思われる、エマソンが国家やコミュニティに対して抱いていた両義的な感覚に焦点を当てる。まず、過去や欧州に対する矛盾する両極端な態度を保持し続けた本講演に見られるエマソンの思想を、Sacvan Bercovitchの整理に沿って跡づける。次に、Stanley Cavellが提唱した「エマソンの道徳的完成主義」の思想を、Bercovitchの議論とも関連づけながら検討する。Cavellは、Friedrich Nietzscheの記述に卓越を目標とするエリート主義的な完成主義を見出したJohn Rawlsの立場へと反感(aversion)を向けることを一つの契機として、固定された目的・完成を目指さない、より民主主義的な思想としてエマソンの思想を捉え直した。この必ずしもリベラリズムとは重ならない民主主義のあり方を、続いて本発表は“The American Scholar”の具体的な記述の中に探ろうとする。
 「身近なもの、卑近なもの、平凡なもの」(the near, the low, the common)を讃えようとする本講演におけるエマソンの記述及び、それを肯定的に取り出したCavellの議論が結果的に権威や超越性を帯びてしまう危険性にも注意を促した上で、最後に本発表は、Branka Arsićがエマソンから引き出した「奇人」(the eccentric)の位置をめぐる記述に注目する。コミュニティ内部の規範や同調圧力には決して屈さず、しかし同時にコミュニティ内部の周縁にとどまろうとする「奇人」たちが、それぞれ「独立した国家」(a sovereign state)のように接しあうことではじめて実現する「可塑的なアメリカニズム」の可能性を、エマソンのテクストによる呼びかけに対する現時点での応答として示し、暫定的な結論とする。

 

現代散文

 

The Catcher in the Ryeのテクストに潜在する「戦場の物語」

佐藤耕太(大東文化大学・非)

 

<発表要旨>

 J.D. Salingerは第二次大戦のヨーロッパ戦線に出征し、その熾烈な戦火を生き抜いた。伝記作家Kenneth Slawenskiによれば、サリンジャーは1944年6月にノルマンディー上陸作戦、同年6月から12月にかけてヒュルトゲンの森の戦い、また同じ12月にはアメリカ軍史上最も多くの犠牲者を出したバルジの戦いに参加し、その道のりで敵味方を問わず無数の兵士たちの死を目の当たりにした。
 連合国側の勝利によってアメリカに帰国したのち、サリンジャーはThe Catcher in the Rye (1951)やNine Stories (1953)などの話題作を立て続けに発表する。そうした作品でサリンジャーが多感で繊細な若者を描き続けたことは広く知られているが、そこには「戦争の話題」も執拗に織り込まれている。The Cather in the Ryeひとつを取っても、主人公Holdenによる原子爆弾やA Farewell to Armsへの言及、彼の兄D.Bの従軍経験者としての一面 (ノルマンディー上陸作戦に参加している)、ラジオ・シティーで上映されている戦争映画、さらには丘の上に置き去りにされた独立戦争で実際に使用されたという大砲など、物語の端々に戦争のモティーフが登場する。しかし留意されたいのは、サリンジャーは戦争の話題を扱いながらも、彼自身が経験し目撃した「戦場の生々しい光景」に関しては終始沈黙を貫いたという点である。つまり、井上謙治が指摘しているように、「サリンジャーは戦争それ自体について書かなかった」のだ。
 本発表の要諦は、そうした作者の意図に反する形で、サリンジャーのテクストに「戦争それ自体」が描かれているいきさつを解明するところにある。具体的には、「アナグラム」「シニフィアンの連鎖」「シニフィアンの横滑り」「換喩」といった理論的装置を取り入れてThe Cather in the Ryeのテクストを精緻に分析・考察することで、第一章冒頭のフットボールの試合を描くテクスト言説に「戦場の光景」をめぐる二次的・潜在的言説が内包されている様子を浮き彫りにしてゆく。

 

詩(1)

 

The Poetry Deal

S.F. の桂冠詩人としての Diane di Prima

小川聡子(共立女子短期大学・非)

 

<発表要旨>

 ビート派の女性詩人ダイアン・ディ・プリマ (1934-2020) は、2009年にサンフランシスコの桂冠詩人に選出された。50年代からニューヨークで精力的に活動していたがサンフランシスコに移住しておよそ40年、ベイエリアでの業績と貢献を認められての任命であろう。2014年にSan Francisco Poet Laureate Series No.5 として発表されたThe Poetry Deal(『詩との契約』)には、詩のための詩、いわゆるメタポエムが多数見受けられる。桂冠詩人となったことは必然的に、詩とは何か、自分の人生にとって詩とは何だったのか、ということを自らに問う機会となったようだ。この詩集において、ディ・プリマはそれらの問いに明快な答えを提示している。
 冒頭に収められている桂冠詩人としての就任のスピーチでは、これまでの人生を振り返り、サンフランシスコの現状を涙ながらに批判しつつも今も光り輝く宝の数々を再確認し、この町への愛を高らかに歌う。いわば、これはサンフランシスコへの、そして詩そのものへのラブ・レターだ。ディ・プリマは、サンフランシスコの抱える様々な問題に、詩をもって立ち向かう決意を表明する。50年代に詩人達が詩で世界を変えていくのを体感したディ・プリマの言葉には重みがある。スピーチはこのように結ばれている。“Can Poetry do that? Do the arts have that power? It is my belief and my faith that they do. That it starts with the Word. With each and every painting. Jazz riff. Poem.”
 本発表では、The Poetry Deal という詩集からディ・プリマの詩学を丁寧に読み解きたい。

 

詩(2)

 

エリザベス・ビショップにおける「スロット・マシン」のモチーフについて 

鷲尾郁(明治大学・非)

 

<発表要旨>

 Alice Quinnが遺稿を精査、編集したElizabeth Bishop(1911-1979)の未出版作品集が2006年に出版されたのはビショップ研究においては重要な出来事であった(その詩篇の多くは後にLibrary of America版の作品集にも収められている)。なかでもパートナーとの親密な関係性をつづった草稿等がとりわけ注目されたが、同時にこの未出版詩群のもうひとつの重要な意義として、明らかに未完成、着想の断片と見なされるものに混じって、ほぼ最終形と思われる完成度の高い詩も数篇ふくまれているという点がある。本発表ではその種の詩篇から “The Soldier and the Slot-Machine”を取り上げて考察してみたい。The New Yorker誌に掲載を希望する一篇として編集者に委ねられた(しかし、最終的に掲載はされず)経緯をふまえると、自作の「完成」に厳しいハードルを設けていたこの詩人にとって、現在残されたかたちがひとまずの完成形であったとは言えるだろう。“I will not play the slot-machine”というリフレインが印象的なこの一篇は、語り口こそ素朴ではあるものの、「スロット・マシン」という特異なモチーフの選択、詩人のその他の詩との関連、さらには、1940年前後という執筆時期を考え合わせても興味深いポイントをふくんでいる。今回の発表では、詩人自身が描き文字通り「スロット・マシン」と題された(しかし、いわゆるスロット・マシンとはかなり異なる風変りな機器が描かれている)水彩画を補助線としてビショップの詩法を読み解いていくことにする。