〈2022年5月例会のお知らせ〉

〈 5月例会のお知らせ 〉

5月7日(土)1時半より

オンライン(Zoom・事前申込制)で開催いたします。
会員以外の方の参加も歓迎いたします。

参加申し込み方法は、こちらから。

 

研究発表

 
 

家庭から市民社会へ

アンテベラム期アメリカの家庭性とセアラ・ヘイルの小説

 

 講師:増田久美子(立正大学)

 司会:田辺千景(学習院大学)

 

 19世紀アメリカの女性(とくに北部社会の都市部に生活する白人中流階級の女性)は、家事労働と家庭管理の担い手となることが本質的な役割とされ、その生き方にはさまざまな制約が与えられていた。女性と家庭を結びつける社会規範は「家庭性」(domesticity)と概念化されたが、それは19世紀アメリカ社会において種々の出版物によって大量に流通し、「男女の領域分離」論を支えるイデオロギーとなっていった。
 セアラ・ヘイル(Sarah Josepha Hale, 1788-1879)は、広範な読者層を擁していた女性雑誌『ゴーディーズ・レディーズ・ブック』の編集者および作家であり、おもに雑誌を通して女性の家庭管理への専念と献身を「真の女性らしさ」として礼讃・奨励しつづけた人物である。そのためヘイルは、女性を私的領域の存在と定めて公的領域から切り離し、女性の権利運動に抵抗した「反フェミニスト」とみなされ、また、19世紀白人中流階級家庭の「感傷的な」女性文化を醸成した保守的な人物であると評価されてきた。
 しかし、その従来像は近年再考されている。その理由のひとつに、ヘイルの小説に展開された「家庭性」の逆説的効果があげられる。女性を私的領域に閉じ込めていた「家庭性」とは、じつは公的領域への女性の主体的な政治参加を可能とする機会も提供していたのだ。小説テクストには、「女性市民」という新しい女性像の創造を目指したヘイルの企図があった。
 本発表では、アメリカ女性史や女性文学研究における「家庭性」と領域批評の展開を振り返りつつ、家庭性レトリックの逆説的効果という視点からヘイルの小説を読み、今後の研究課題につながりうる問題点などを考えてみたい。

 
 

分科会

 
 

近代散文

 

ジョージ・リッパードの都市人種暴動譚における地理的想像力

細野香里(東京都立大学)

 

<発表要旨>

 アンテベラム期の出版文化を語るうえで欠かせない存在でありながら、伝統的な文学史では一部を除き長らく軽んじられてきたGeorge Lippard (1822-1854)が、Beneath the American Renaissance (1988)の著者David S. Reynoldsによる評伝(1982)と作品集(1986)の出版によってアメリカ文学研究の表舞台に出るに至ったことはつとに知られている。2015年にはNineteenth-Century Literature誌において、カリフォルニア大学ロサンゼルス校教授Christopher LoobyによりLippardの代表作The Quaker City (1845)の特集号が組まれた。本発表では、このような再評価の途上にあるLippardの、1849年10月にフィラデルフィアで起きた人種暴動(the California House riot)を主題とした中編小説The Killers (1850)を取り上げる。
 本作品はLippardが編集者を務めたQuaker City Weekly紙に1849年12月から連載され、翌1850年に架空の出版社名を冠して刊行された。前年の暴動勃発直後に匿名で発表された作品Life and Adventures of Charles Anderson Chesterをもとにしつつ、筋書きの加筆・改変がなされている。都市における人種・階級間対立という主題、悪役の放蕩紳士のモチーフ、複数のプロットが同時進行する構成など、The Quaker Cityとの共通点を多く持つものの、作品の分量やプロットの複雑さは抑えられており、その分、作者の問題意識がより直截に表明されているといえる。
 The Killersについて特徴的なのは、フィラデルフィアでの人種暴動という極めて局所的な出来事を主題としながら、物語のクライマックスに至るまでの筋書きに、同時代の違法奴隷貿易やキューバ併合の目論見を織り込んでいる点である。作中において、都市での人種間対立へ向けられた視線が、アンテベラム期の合衆国を取り巻く地政学の諸問題へと拡大される瞬間を辿りながら、Reynoldsによって急進主義者と評されたLippardの主張を再検討したい。

 

現代散文

 

強固な壺と脆いテクスト

Galactic Pot-Healer に見る Philip K. Dick の手工業観と現実観

岩本遼(慶應義塾大学・院)

 

<発表要旨>

 1969年に発表された『銀河の壺なおし』Galactic Pot-HealerはPhilip K. Dickの多数の著作の中でも、重要度が低いと見なされてきた一作である。タイトルにもなっているPot-Healerである主人公Joe Fernwrightが、惑星Plowman’s Planetにおける神の如き存在Glimmungの求めに応じてすべてを崩壊させる海に沈んだ大聖堂の引揚げ事業に参画し、種々の専門家たちと共にその難題に挑戦するというプロットの本作は、ユング心理学における集合的無意識と創作についての寓話を創造しようとしてできなかった失敗作であると考えられており、またディック自身も後年のインタビューにおいて失敗作であることを認めている。
 しかし、本作はただの失敗作としては切り捨てられない。本作には常に更新され続け、過去・現在・未来のすべてを記録する「本」が登場し、引揚げ事業の失敗を予言するが、主人公たちはその予言に反して聖堂の引揚げに成功する。「本」はThe Man in the High Castle (1962)の作中作The Grasshopper Lies Heavyに呼応し、Dickの中心的テーマと言える「現実」の真偽という問題を浮かび上がらせている。加えて本作はThe Man in the High Castle、Flow My Tears, The Policeman Said (1974)、Valis (1981)などのDick作品に頻出する手工業製品のモチーフが、大々的に作品のタイトルとして取り上げられている唯一の作品でもある。
 本発表では、本作を「現実」を考えるDickの作品群の一つに位置づけ、「本」に代表される概念的で疑わしい現実と、エントロピーが増大し続ける海に沈みながらもその形を保っていた大聖堂の「壺」に代表される、手工業的営為によって生み出された具体的で強固なモノとの対比を中心にGalactic Pot-Healerに描かれるDickの現実観を明らかにすることを目指す。

 

 

フラヌールとしての後期ミナ・ロイ

サロンの華から街のゴミ拾いへ

宮本文(専修大学)

 

<発表要旨>

 英国生まれのMina Loy(1882-1966)は、ドイツやイタリアで美術教育を受け、その後詩作を始め、1910年代から20年代にかけてイタリアの未来派のサロンやニューヨークのモダニストたちのサロンで脚光を浴び、常に華やかな存在であった。しかしながら、ニューヨークを離れてパリに居を移し、そしてナチス・ドイツの脅威から1936年再びニューヨークのバワリーに戻ってきた時には、かつての華やかな交友関係をほとんど断ち、貧困の中で創作活動を続けるもほぼ忘れ去られていた。バワリーはその当時貧しい人々が住むエリアで、Loyは街でガラクタを集めながら(ごく少数のかつての友人を除いては)人知れずオブジェを作っていた。本発表ではバワリー時代に書かれた詩集Compensations of Poverty(1942-49)に収められた詩をいくつか取り上げ、Loyが匿名性を獲得することによって、光の当たらない忘却と閑却にある「月世界」に没入し、同時にその暗闇をランプのように仄かに照らす詩人・オブジェ作家として円熟していく様を見ていく。
 Loyの初期の詩はサロンでの自らの恋愛やセックスをスキャンダラスに冷笑するものが多く、生殖や母性、自己決定といったテーマがメインに扱われていた。一方、その頃からインダストリアル・デザイナーとしてランプシェードを製作・販売し、月のごとく隠れたものを照らしだすことに関心があったことがうかがえる。(Loyの4冊の詩集には「月の案内人」(Lunar Baedeker)という文言がタイトルに含まれている。)ここでは、Walter Benjaminが “Das Paris des Second Empire bei Baudelaire”(「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」、1937-38成立)においてフラヌールに重ねたもう一つのイメージである「屑拾い屋」(chiffonier/ragpicker)を援用し、Loyがフラヌール/屑拾い屋として匿名的な詩人の声を確立していったことを確かめたい。

 

演劇・表象

 

B.F. スキナーの Walden Two における個人主義と教育

杉本裕代(東京都市大学)

 

<発表要旨>

 徹底的行動主義(radical behaviorism)で知られる心理学者B. F. スキナーは、小説 Walden Two (1948)によって、自らの理論が理想的に実践される様子を提示した。この作品は、Walden Twoと呼ばれる自給自足のコミュニティを舞台とし、そこを訪れる心理学者、哲学者、若き軍人、そして女性がユートピアについて議論を交わす。若かりし頃英文学を学び、一時期は小説家も志していたスキナーの渾身の作品は、ソローへのオマージュでありながら、個人や自由意志の概念において独自の解釈を提示している。彼の心理学者としての存在感が増すにつれ、本作品も広く読まれるようになり、批判含みの議論を呼んだ。
 スキナーは広く人間行動全般に対して考察を深め、1970年代初頭まで多くの著作を発表した。しかし、たとえば、言語習得プロセスに関して、スキナーの著作Verbal Behavior (1957)がチョムスキーの格好の批判対象となったことが象徴するように、その理論モデルは時代とともに影を潜めるようになった。
 とはいえ、スキナーの発想が実社会で応用され、現在まで活用されている例もある。本発表では、そうしたスキナーの実績の一つである教育理論に注目する。プログラム学習の考案者でもあるスキナーのWalden Twoにおける教育や学校に関する記述を考察し、文学的想像力から、どのような教育を構想され、そして、実際のアメリカ社会で制度化されていったのかを辿る。スキナーがソローの世界観をどう解釈したのか、そのねじれや亀裂をふまえつつ、冷戦期のアメリカ社会でその解釈が一定の説得力を持つに至った状況を考察したい。

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