〈2023年9月例会のお知らせ〉

〈9月例会のお知らせ〉

9月16日(土)午後1時30分より

慶應義塾大学三田キャンパス 南校舎435教室

*状況によりオンラインに変更する可能性がございます。
その際は支部HPでお知らせいたしますので、
事前にご確認くださいますようお願い申し上げます。

    

研究発表

 
 

  シルヴィア・プラスは誰のものか? 

シルヴィア・プラス・エステート vs. 「ファン」

 

 講師:渡部桃子(東京都立大学名誉教授)

 司会:朝比奈 緑(慶應義塾大学名誉教授)

 

 シルヴィア・プラスの作品とその人物像の解釈をめぐって、「シルヴィア・プラス・エステート(遺産管理財団)」と、「ファン」と呼ばれる・・・・人々――伝記作家、研究者、詩人、作家なども含める――の大半が、「見解」を異にしていること、場合によっては激しい「対立」状態に陥ったことはよく知られている。本発表では、その「対立」の軌跡をたどり、21世紀になってからの状況の変化についても述べてみたい。
 その変化は、無論エステートの変化だけ・・によってもたらされたわけではない。21世紀になってからのプラス・アーカイヴの「増殖」が、プラスの作品・人物像の多面的解釈を可能とし、さらにはプラスに関する情報発信に特化したウェブ・サイトやtwitterなどのソーシャルプラットフォーム、さらには Plath Profiles(2008~)のようなオンライン・ジャーナルなどの出現もあいまって、プラス研究の変容をうながした。そして最終的にはエステートと「ファン」の対立も(解消はされないものの)鎮静化していくようである。このような変化を可能にした「ファン」たちの主な著作も紹介したい。
 また時間が許せば、このアーカイヴ増殖のおかげで「発見」され、出版されたと称される・・・・短篇小説、「メアリ・ヴェントゥーラと第九王国(“Mary Ventura and the Ninth Kingdom”)」が実際はどのように発見され、またプラスの作品の中でどのように位置づけられるか考えてみたい。

 
 

分科会

 
 

近代散文

 

屋根裏で語ること

Incidents in the Life of a Slave Girl 再読

加藤惠梨香(シンシナティ大学・院)

 

<発表要旨>

 Harriet A. Jacobsの Incidents in the Life of a Slave Girl (1861)においてLinda Brentは、奴隷主Dr. Flintから身を守るために、自由黒人である祖母の家の屋根裏に身を潜める。屋根裏はシェルターとして機能しているものの、暑さや寒さをしのげる場所ではなく、そこに生息する無数の “red insects” は針で皮膚に縫い込まれたような傷跡を残す。
 本発表ではLindaがなぜおよそ7年もの間、不自由な生活を余儀なくされる屋根裏に留まったのかを考察する。屋根裏はある意味安全ではないシェルターであり、逃亡奴隷Lindaが留まるこのような両義的な空間はJacobsの作家としての意識を考えるヒントになる。
 Lindaが身を潜めるもう一つの場所に “Snaky Swamp” がある。この沼地は maroons(アフリカ系の逃亡奴隷たち)が形成したmaroon societyと見られる。こうした共同体は奴隷貿易が行われていた時代からカリブ諸島やラテン・アメリカの森や沼地に点在し、アメリカでは17世紀から形成された。Maroon societyは本来のところ農耕生活を基盤とし、必ずしも好戦的ではなかったが、のちに略奪や反乱を企てる脅威として認識されるようになった。例えば当時ヴァージニア州とノース・カロライナ州の間に形成されていたthe Great Dismal Swampは、Harriet Beecher Stoweの Dred: A Tale of the Great Dismal Swamp (1856)において反乱を企てる危険な共同体として描かれている。
 奴隷制廃止論者のStoweとは相容れない見解を持つ「元奴隷」作家Jacobsが描くLindaは、沼地で黒人が晒される危険を認識し、自分を匿う場所として屋根裏を選択する。その後の屋根裏の滞在にJacobsは何を描こうとしていたのだろうか。
   

 

現代散文

 

パラノイアと修復

トマス・ピンチョン『ブリーディング・エッジ』における21世紀の陰謀論

榎本悠希(明治大学・非)

 

<発表要旨>

 本発表は、Thomas PynchonのBleeding Edge (2013)を扱い、パラノイアの21世紀的な批評的意義を検討する。
 Pynchon作品において陰謀論やパラノイアというテーマは聞き慣れたものだが、彼の半世紀を超えるキャリア全体を鑑みれば、そのあり方は常に同じだったわけではない。例えば、代表作Gravity’s Rainbow (1973)におけるパラノイア的想像力は、第二次世界大戦の背後で秘密裏に進行するグローバル資本主義の結託を見抜き暴く。複雑な現実に一本の筋を通す。ここでは表層的な現実の奥底を貫くPatrick O’Danielが言うところの「垂直的」想像力が、その見抜きを支えている。しかし、9.11を舞台とするBleeding Edge では、そうした「垂直的」に背後を見抜く想像力は、その同時多発テロの背後にある陰謀を暴くには至らない。あるいは、9.11に対してブッシュ政権の陰謀説を今更唱えたところで、それは我々読者に斬新な視点を与えるものではない。では、ポスト冷戦期としての21世紀のパラノイアには、如何なる意義があるのだろう。
 本発表はこれを考える上で9.11の時期と同時並行的に書かれたEve Kosofsky SedgwickのTouching Feeling: Affect, Pedagogy, Performativity (2003)を補助線としたい。Sedgwickもまたポスト冷戦期の批評を考える際、Paul Ricœurの言う「懐疑の解釈学」に触発された物事の裏側にある権力やシステムを暴き立てる批評を批判し——それを「パラノイア的読解」と呼称した上で——それに対するオルタナティヴとしての異質で過剰な情動を引き受ける「修復的読解」を提示した。「パラノイア」から「修復」へ。Sedgwickが晩年に提示した指針はその後、「ポストクリティーク」としてRita Felskiを始めとする様々な批評家に波及する。そこではパラノイア的な暴きたての読解は既に埋葬されたかのようである。
 本発表は、上記の理論を補助線としながらも、あくまでパラノイアに拘る。裏側を暴く読解と情動を引き受ける読解、その双方の隙間にこそ、21世紀的なパラノイアの在り処があるはずだ。

 

 

人間と動物の接点としての身体

『プルーフロックとその他の観察』について

坂元美樹也(ヨーク大学・院/英国)

 

<発表要旨>

 T. S. Eliotの“The Love Song of J. Alfred Prufrock”は、さまざまな動物(的イメージ)が、語り手による内的独白の進行に伴って現れる詩である。たとえばロマン派の詩が鳥を神秘的でしばしば不可知なものとして扱う傾向にあるのとは異なり、この詩は(ときに登場する動物がプルーフロックの夢想する自己像であっても)それぞれの動物の挙動をよく「観察」している。と同時に、詩の中ではプルーフロックという人間もまた「観察」対象となっている。ただし、アナロジーはそれだけではないかもしれない。プルーフロックがやってやろうと口にする、肉体の老化を自覚して悩む中年男性のアイデンティティとはかけ離れた身体的なしぐさの数々には、――本詩の引喩先の一つであるAndrew Marvellの “To His Coy Mistress” 終盤で、語り手が高らかにうたい上げる愛の行為が猛禽類のそれになぞらえられているのと同じように――なにか動物と呼応するものがあるようにも思える。
 本発表では、人間と動物の接点を詩集で描かれる身体表象のうちに探っていくが、なかでも「匂い」の機能について、比較的時間を割いて考察したい。“Is it perfume from a dress / That makes me so digress?” とプルーフロックが自問するように、プルーフロックの “digression” は、匂いやそれを感知する身体と少なからぬ関連があるかのように示唆される。プルーフロックにとって――あるいは人間と動物をめぐる詩人の詩的実践にとって――、匂いとは何を意味するのだろうか?
 バラの香りに言及しつつ「感受性の分裂」を論じた「形而上詩人」、嗅覚で世界を認識する犬の視点を取り入れたVirginia Woolfの Flush: A Biography、そして匂いを主題にしたフランス象徴派詩の数篇にも参照の幅を広げつつ、詩集における匂いやその他の身体表象が、いかに「わたし」の身体に潜む動物(性)の問題に開かれるかを本発表で論じたい。

 

演劇・表象

 

Taking Turns (2017)

非言語コミュニケーションとケアをめぐるグラフィック・メディスンの方法論

中垣恒太郎(専修大学)

 

<発表要旨>

 MK Czerwiec, Taking Turns: Stories from HIV/AIDS Care Unit (2017)は「グラフィック・メディスン」の代表作に位置づけられるグラフィック・メモワール(マンガによる回想録)である。グラフィック・メディスンとは2007年にこの作者を含む医療従事者・教育者によって提唱された概念であり、医学、疾病、障がい、ケア(提供する側および提供される側)を包括的に捉え、マンガをコミュニケーションのツールとして積極的に取り上げたり、マンガの制作を通して気持ちや問題を共有したりする活動の総称である。医療の専門性が高まり数量化による一般化が進む中で零れ落ちてしまいかねない「個」のあり方に目を向ける点に特色があり、日本の闘病エッセイマンガに相当するマンガによる回想録を軸としている。また、グラフィック・メディスンの提唱者6名による研究書Graphic Medicine Manifesto (2015)の理論的支柱を文学研究者が支えていることからも、文学研究の応用可能性をこの取り組みに探ることができる。
 Taking Turnsは、1994年から2000年までHIV/エイズ専門病棟に看護師として従事していた作者による回想録であり、さらにさまざまな関係者への聞き取り調査に基づいた、1990年代のエイズ・パニックの時代を再検証するオーラル・ヒストリーの記録としての側面も併せ持つ。死に瀕していた患者たちとの交流、医療従事者と患者の境界線を越えてしまうのではないかという葛藤、絵を描くことを通して心の安寧を取り戻していった体験など医療従事者の繊細な心情が淡々とした筆致で描かれている。グラフィック・メディスンとは言葉で捉えきれない複雑なコミュニケーションのあり方をグラフィックの表現により探る試みであり、本作もまた、日本のマンガ表現と比して過剰なほどの言葉を費やしながらも言葉で捉えきれないケアをめぐる多彩な心の揺れ動きに焦点を当てている。
 本発表では、Taking Turnsを通して、非言語コミュニケーションとケアをめぐる観点からグラフィック・メディスンの方法論と文学研究の応用可能性を展望する。