〈 6月例会のお知らせ 〉
6月28日(土)1時半より
法政大学市ヶ谷キャンパス 大内山校舎Y405教室
*状況によりオンラインに変更する可能性がございます。
その際は支部HPでお知らせいたしますので、
事前にご確認くださいますようお願い申し上げます。
トラウマの記憶と演劇的表象
抑圧・暴力・転覆
講師:村上陽香(千葉工業大学)
講師:古木圭子(奈良大学)
司会・講師:辻佐保子(静岡大学)
コメンテーター:戸谷陽子(東京国際大学)
個人の、あるいは集合的な、さらには世代を超えて継承されるトラウマへの対処にあたり、証言(testimony)が他者による真摯な目撃(witness)を経て、より広範な文脈へ再定位され、ワークスルー(work through)を目指すというプロセスがある。これは臨床において実践的であると同時に、政治的かつ倫理的な意義も帯びている。なぜなら、トラウマが個人的な不運や失敗、あるいは欠陥として矮小化され看過されることで、証言に至らないケースが少なくないことは経験からも示唆されるからである。したがって、トラウマを言葉や身体に乗せて他者に提示し共有する一連の営みは、語り、聞き、引き受け、継承するための方法をいかに想像/創造しうるかという問いへと繋がり得る。こうした背景から、1990年代以降、広義の文学研究においてトラウマは重要な鍵概念として研究が積み重ねられ続け、たとえば2020年にはThe Routledge Companion to Literature and Traumaが刊行されている。
他方、演者と観客が同一の時空間を共有するという演劇の構造がワークスルーのプロセスと重なることから、トラウマ治療の臨床においてこのアプローチが応用されることが珍しくない。演劇の実践および研究もまた、トラウマに関する臨床や研究から示唆を得てきた。トラウマ概念、そしてそれを巡って蓄積されてきた知見は、古代ギリシャ演劇から現代のパフォーマンスに至る多様な実践の理解に新たな視座をもたらし、共同体が抱える差別や抑圧に切り込む新たな方法を提示している。さらに、観客や劇場空間の役割と意義に関する考察を深め、代弁と占有という演劇に内在する相克の政治性、公共性、倫理性を問い直す重要な契機ともなっている。
アメリカ演劇研究に焦点を当てれば、女性や人種的マイノリティの作家による作品、あるいはヴェトナム戦争や9.11といった惨事がトラウマの視点から活発に論じられている。これらは、作家の言葉と俳優の身体を用いて痛みや傷を舞台上に表象し、時空間を共有する観客に目撃されるという演劇的仕掛けを通じて、アメリカ演劇界ひいては合衆国が内包する白人中心主義や帝国主義を批判的に検討するという問題意識に貫かれている。
本シンポジウムでは、これら先行研究の試みに呼応しつつ、制作年代、制作者の属性、上演地域、ジャンルは異なるものの、個別的なトラウマを歴史の中に位置づけ継承することの政治性および倫理性を共通のテーマとする三作品を取り上げる。各作品におけるトラウマの演劇的表象において、暴力の機能、身体の強調、あるいは主体性の撹乱といったキーワードがどのように立ち現れるかに注目し、アメリカ演劇史・アメリカ史において持つ意義を多角的に吟味することを目的とする。
「触れる」の多重性
Sarah RuhlのIn the Next Room (or the Vibrator Play) における感覚的トラウマの先
村上陽香(千葉工業大学)
<発表要旨>
Sarah RuhlのIn the Next Room (or the Vibrator Play) は、19世紀末のアメリカにおける「ヒステリー」治療を描いた戯曲である。ここでの治療とは、男性医師が女性患者を機械によって強制的に性的絶頂を迎えさせることで「癒す」という、現代的な視点からすれば問題を孕む医療行為である。
そもそもヒステリーとは何なのか。本作では、話をやめられない女性や、ヒステリーが子宮に由来するという概念をあてがえば性別としては非常に珍しい、恋に悩む男性芸術家が治療の対象となっている。彼らは「過剰な感情の持ち主」として治療されるが、それが「癒された」とき、彼らの声はどこへ消えてしまうのだろうか。
性感帯に器具を当てるという強烈な「触れる」体験が描かれる一方で、本作には頬への平手打ち、キス、抱擁、あるいはモデルとして芸術家の目によって触られるといった、より繊細な接触の経験が散りばめられている。隣の部屋(the Next Room)で行われる治療行為と、手前の部屋で登場人物たちが互いに触れ、拒絶し、確かめ合う場面とは、同じ「触れる」という行為でありながら、その意味合いが大きく異なっている。
本発表では、「ヒステリー治療」を一種の抑圧と捉え、それを経験すること自体を感覚的トラウマとして再定義する。そのうえで、こうした抑圧や感覚的トラウマを振りほどいた人物たちが、身体にとどまらず、そのうちに閉じ込められていた心や動けなくなっていた感情を解き放つとき、何が起こるのかを改めて読み直す。「過剰な感情を消すこと」と「自分の本心をさらけ出すこと」という、相反する二つの行為が、本作における「触れる」の多重性の中で登場人物たちにどう作用していくか、その姿を考察したい。
Wakako Yamauchiの戯曲と短編小説における「傷」、追憶、トラウマ
古木圭子(奈良大学)
<発表要旨>
イースト・ウエスト・プレイヤーズの創始者マコ・イワマツの薦めにより、同名の短編小説から戯曲化されたWakako Yamauchi (1924-2018)のAnd the Soul Shall Dance(1977、以下 Soulと省略)は、1935年のインペリアルバレーに住む 2 組の日系家族、Murata家とOka家を中心とする。戯曲が、「現在」における登場人物のアクションを中心とする一方、短編 “Soul”は追憶の物語と読むことができるが、短編、戯曲の両方において、主人公および語り手Masakoのまなざしが主に注がれるのは、Oka氏の妻で日系一世のEmikoである。
両作品において強調されるのは、Emikoが、DVの証拠と思われる「傷」を、Masakoとその両親に敢えて晒すことである。戯曲では、Masakoが、その「傷」と酒に溺れるEmikoの姿に驚きながらも興味を持つ過程が示される。語り手は、Emikoの心が、アルコールという自身の身体と心を「麻痺させるもの」を当時必要としていたこと、傷と痣が示す暴力と、それを敢えて晒す「マゾヒズム」を、現在の自分なら理解できると捉えている。一方、戯曲版では、Oka氏とEmikoが激しく言い争っている様子や、夫に殴られた後にEmikoが反撃する場面があり、Emikoが暴力に無抵抗であったわけではないことがうかがえる。
宮地尚子は、「心の傷は見えないが、そこに確実に残っていて、存在を主張し続ける。物理的な存在感が、傷にはある」と述べるが、そうだとすれば、Emikoが「傷」を晒すことによって「主張」する「存在」は何なのだろうか。また、アルコール依存が、宮地の述べるように、「身体と心のつながりを麻痺させるための自己投薬みたいなもの」だとしたら、Emikoがその身体に受けた「傷」と「心」の「つながり」とは何であろうか。以上のような観点から本発表では、戯曲Soul と同名の短編小説を中心に、Yamauchi の作品における身体と心の「傷」とトラウマ、そして依存症の問題を考察してゆく。
歴史的継承としての暗殺
ミュージカルAssassinsが示す「聞かれ/せること」の可能性と問題
辻佐保子(静岡大学)
<発表要旨>
Stephen SondheimとJohn WeidmanによるミュージカルAssassins(1991)は、歴代アメリカ合衆国大統領の暗殺者および暗殺未遂者たちが抱く「加害者のトラウマ(perpetrator trauma)」を主題とする。本作は、「アメリカン・ドリーム」の欺瞞や捩れを突いた作品と評価されることが多いが、「アメリカン・ドリーム」が約束する褒賞を「主張が聞かれること」に据えている点は注目に値する。主張が聞かれないことに傷を受け、それでもなお聞かれることを希求する暗殺者たちの姿からは、本作が彼らを単純な狂人としてではなく、社会から疎外された者として描いていること、そして、そのトラウマを個別的なものとするのではなく、観客を含む集団全体で引き受けさせようと試みていることが窺える。
本発表では、そのために用いられる演劇的仕掛け、とりわけ歌の劇的機能に着目する。具体的には、幾重にも聞かれないことで傷を受けた暗殺者たちが、歌を通じて合衆国の暗部としての自己を捉え、観客に「聞かせる」に至る過程を分析することで、「聞かれること」と存在の肯定が結びつく本作の力学がどのようにミュージカルという形式の問題として描かれているかを論じる。こうした考察から、Assassinsは、暗殺者たちの被る「加害者のトラウマ」が単なる過去の出来事ではなく、現在へと続く歴史的継承の問題であり、いかに共同体として引き受けるかという困難な問いを、演劇上演における「聞かれ/せること」の可能性と問題を描くことで提示していることを明らかにする。本発表を通じて、ミュージカル、ひいては演劇という形式が帯びる倫理的・社会的な力とジレンマに作り手がいかに対峙したか、その一端を示すことを目指す。
語られぬ地図
Uncle Tom’s Cabinにおける空間の人種的想像力
梅澤琉登(立教大学・院)
<発表要旨>
ハリエット・ビーチャー・ストウの Uncle Tom’s Cabin (1851) における空間表象をめぐって、エイミー・カプランは白人の拡張主義的認知地図に光を投じたが、本発表はそれによって逆照射される黒人の陰画的な認知地図に注目し、奴隷たちの抱える苦しみを新たな角度から明らかにする。
イライザを追う奴隷商人らは、オハイオ川以北では以南よりも逃亡奴隷の移動速度が加速するとして焦りを募らせる。バード上院議員は奴隷制を擁護する州を常に意識して政治的意思決定を行ってきたと語る。このように、彼らは広範な地理を想像しながら自らの位置を認識しているのである。
ストウは、本作発表前後に出版した地理教科書において、南部諸州を単に地理情報から紹介するだけでなく、そこに奴隷制への私見を紐づけることで、読者の地図に奴隷制の不当さといった認知地図的座標を組み込んだ。このことは、上述した白人の地理的想像力が意識的に描かれた細部であるとの解釈に妥当性を与えるだろう。
そのように考えると白人の認知地図は、オハイオ川以北に無知なイライザや、川下を聖書的想像力から捉えるトム、出生地を語り得ない奴隷の少女トプシーなど、黒人の限定的な空間認知の在り方を照らし出す。それのみならず本作は、黒人が教育を通じた広範な空間認知の獲得を企図しても、白人を学習者の前提とする教育制度の下では、自身を抑圧する白人由来の借り物の認知地図を習得してしまう皮肉を刻印している。渡仏後、ジョージが人種主義に裏打ちされたリベリア移住を高らかに宣言することは、その点を如実に示している。
したがって本発表は、認知地図という批評概念を援用することによって物理的にだけでなく精神的にも拘束される黒人の苦悩を本作が描いていると論じる。つまり、奴隷制から逃れる際に参照すべき認知地図すら無いという、黒人奴隷の重層化された苦難をも本作が精緻に写しとっていることを検証したい。
Phil KlayのRedeploymentにおけるイラク戦争と軍民分断
米兵の神秘化、レイシズム、ジェンダー表象を読む
井上菜々子(早稲田大学・院)
<発表要旨>
Phil Klay (1983-)は志願兵の広報官として2007年から1年間イラク戦争に従軍し、2014年に短編集Redeploymentを上梓して、全米図書賞を受賞した。本作は様々な職業・役職に就く12人の語り手の視点からイラク戦争における米兵らのトラウマや道徳的葛藤を描き出しているとして高く評価されている。その一方で本作は、米兵の体験を神秘化・中心化する「トラウマ・ヒーロー神話」を通して女性やイラク人を周辺化し、米兵とアメリカ人市民との分断を広げている作品であると批判されてきた。それに対し、本作はむしろトラウマ・ヒーロー神話を批判し、軍民の対話を開く作品であるという反論もなされている。本発表は後者の流れを汲みながらも、それらの議論が十分に検討してこなかったKlayのレイシズム批判とジェンダー意識の問い直しにも注目する。George W. Bush政権のレイシズムがイラク人の犠牲を含むイラク戦争・占領のコストを増大させ、特に男性性を巡るジェンダー意識が米兵の神秘化と結託して、アメリカ人市民のイラク戦争・占領への無関心を助長している様を、本短編集がいかに暴いているかを明らかにしたい。まず、短編 “Money as a Weapons System” において、Bush政権がイラク戦争・占領に、日本のそれを重ねて楽観視するレイシズム的態度が国家建設・復興支援での不手際に繋がっている様をどのようにKlayが風刺しているかを分析する。そして、短編 “War Stories” において、ヴェトナム戦争後の徴募兵制の実質的な停止や女性志願兵の受け入れ拡大が、男性兵士と女性市民という二項対立を揺るがしているにもかかわらず、残存するジェンダー意識やセクシズムがいかに米兵の神秘化と結びつき、イラク戦争・占領の目的やコストを巡る軍民の対話を阻んでいるかを解明したい。
なぜ蝴蝶は黄色くなったのか?
Ezra Poundの “The River-Merchant’s Wife: a Letter” と日本の「長干行」
岩川倫子(東京外国語大学・非)
<発表要旨>
Ezra PoundのCathayに含まれる “The River-Merchant’s Wife: a Letter” の原典は李白の「長干行」であり、よってこれは漢詩の英訳である。2023年にTranslation and Literatureに発表されたLynn Qinyang Linの “Making It Old, Making It New, Making It Chinese: Transcultural Imitation and the Palimpsest of Translation in Pound’s Cathay” によれば、2019年にFordham University PressからTimothy Billings編のCathay: A Critical Editionが出版され、これまで知られていなかった日本独特の “Kundoku” (訓読)法―すなわち読み下しという漢文読解の仕方の順に添ってフェノロサの “crib” (メモ)が整理されたことで、フェノロサの師である森槐南の指導が的確であったことが判明したという(308-10)。またリンは、原典と翻訳との間の境界線を柔軟に保ち、そこにある間テクスト性を重視する “palimpsestic translation” を提唱し、ビリングスが読み下しのプロセスがわかるように整理したことで、Cathayを構築するテクスト層が解明されたことを評価している(303, 315-16)。本論では、“The River-Merchant’s Wife: a Letter” と日本で長年愛されてきた「長干行」との微妙な違いからもたらされる解釈のずれを焦点に、よりオーセンティックと思われるテクストを捨てるという森の判断も含めたCathayという豊かなテクスト空間の一端を披見してみたいと思う。
シンポジウムを継続します。