〈 12月例会のお知らせ 〉
12月13日(土)2時より
法政大学市ヶ谷キャンパス 外濠校舎5階S505
*状況によりオンラインに変更する可能性がございます。
その際は支部HPでお知らせいたしますので、
事前にご確認くださいますようお願い申し上げます。
アジア系アメリカの150年
“postvisibility” から文学のありようを考える
講師:水野真理子(富山大学)
講師:中地幸(都留文科大学)
講師:藤井光(東京大学)
司会・講師:加藤有佳織(慶應義塾大学)
コメンテーター:松川祐子(成城大学)
Asian American Histories of the United States (2022) においてCatherine Ceniza Choyは合衆国においてアジア系の存在が消去され続けていることをあらためて指摘した。この不可視性にChoyは、多数の異なる集団を含むアジア系アメリカ人の経験について、複数の起点を持つものとして年表を往来しながら記述することで対峙する。19世紀半ばの移民を起点として一定方向に整理するのではなく、いつでもどこからでも始まり得るものとしてアジア系アメリカ人の歴史をとらえるこの視座は、その文学を考える際にも示唆に富む。1960-70年代に生み出されたカテゴリーでありつつ、アジア系アメリカ文学は複数の時系列を持ち、たとえば合衆国国籍を持たない移民の文学活動から始めたり遡ったりすることも、非英語作品の系譜をたどることもまた可能である。それらの並存にあらわれる多様性は、移民規制をする連邦法としては最初のペイジ法から150年を経たいま、どのような意味を持つだろうか。
Sue-Im Leeは “Can You Tell by Looking?: A Postvisible Definition of Asian American Literature” (2020) において、Arthur Dantoらの分析美学の知見をもとに、アジア系アメリカ文学がどのように定義されてきたかを整理する。とくに2000年代以降、書き手の出自や内容といった見て分かる属性による定義が必ずしも有効ではない局面を迎えているが、Leeは、アジア系アメリカのアートワールドに位置付けられるものがアジア系アメリカ文学であると定義してみせる。この論考をもうひとつの泉源として、本シンポジウムでは、翁久允、石垣綾子、八島太郎、Chang-rae Lee、Paul Yoon、C Pam Zhangらの作品を読み解き、アジア系アメリカの文学という営みの現況、そこに息づく歴史と文脈を考える場としたい。
日系アメリカ文学の100年とその起点
翁久允と移民地文芸論の展開
水野真理子(富山大学)
<発表要旨>
日系アメリカ文学の歴史を描こうとするとき、日本、アメリカ、在米日本人・日系人社会の三つの領域との関係性の中で、どのように文学が生み出されたのかを考えざるを得ないだろう。1880年代に日本人が西海岸地域に渡り、しだいに在米日本人社会が形成されていく過程で、コミュニティ内で発行される邦字新聞を主要な発表の場として、文学活動は開始した。そして移りゆく日米関係や、アメリカ主流社会の政治、経済状況など、それらの影響を色濃く受ける日系人社会の中で、一世世代もそしてアメリカ市民としての二世世代も、複雑な状況下に置かれている自分たちの日々の生活や心情、在米日本人・日系人であることの意味を、日本語、英語の各言語を用いて文学として表現してきた。彼らの文学活動は、過酷な強制収容下においても新聞や雑誌の発行というかたちで行われた。本発表では、1880年代から1980年代までの、西海岸地域を中心とする日系アメリカ文学100年の流れを概観したあと、一世世代の文学の始まりと1920年代半ばにかけての展開について、一世の文学の中心的存在であった翁久允を主軸に考察する。一世の文学は日本の自然主義文学の特徴を引き継ぎながら、どのように彼ら独自のアメリカにおける移民地文芸へと発展していったのか。1910年代頃のシアトルの日本人街における、文学青年たちと酌婦との関係性、『日米新聞』に1915年6月から9月にかけて連載された、彼らの青春群像劇とも言える翁の長編『悪の日影』、その作品がサンフランシスコ近辺の文芸人や読者らを刺激し、『日米新聞』紙上で繰り広げられることとなった移民地文芸論。こうした日系アメリカ文学の始まりとしての一世文学の軌跡を紐解いてみたい。
1940年代アメリカにおける日本人による英語自叙伝
石垣綾子と八島太郎のレトリック
中地幸(都留文科大学)
<発表要旨>
1941年12月の日本軍による真珠湾攻撃により日米関係の悪化は頂点を極めたが、この1940年代にアメリカで英語で出版された日本人自叙伝がある。Haru Matsuiこと石垣綾子(1903-1996)のRestless Wave (1940) 、およびTaro Yashimaこと岩松淳(八島太郎、1908-1994)のThe New Sun (1943) である。いわゆる狭義の意味での「移民」や「移民の子供」ではないこれらの作家たちは、「アジア系アメリカ」文学の枠の外に置かれてきた。しかし近年アジア系アメリカ文学では包括的な読み直しが積極的に行われており、そのような流れの中でRestless Waveは2004年にNYのフェミニストプレスから、The New Sunは2008年にハワイ大学出版局から、それぞれ再出版された。Greg RobinsonのThe Unsung Great: Stories of Extraordinary Japanese American (2010) の第6章では八島太郎は妻の光とともに取りあげられ、またAyako Ishigakiの作品の一部はFrank AbeとFloyd Cheung編集のThe Literature of Japanese American Incarceration (2024) というアンソロジーにも収められている。本発表では検閲、告発、記憶、移民、亡命、越境的連帯という極めて複雑に絡み合った問題を、彼らが利用した「日本人自叙伝」というジャンルを通して考察していきたい。
害すること、害されること、救うこと
The Surrenderedが描く朝鮮戦争
加藤有佳織(慶應義塾大学)
<発表要旨>
朝鮮戦争は、1949年にジュネーヴ諸条約が締結されて以後、アメリカ合衆国が武力紛争における人道的規約に従って行った最初の戦争であった(Sahr Conway-Lanz 2005)。1949年の四条約の始まりは1864年のジュネーヴ条約であり、その策定のきっかけを作ったのはJean-Henri Dunant (1828-1910) によるMemory of Solferino (1862) であった。Chang-rae Lee (1965-) の小説The Surrendered (2010) では、『ソルフェリーノの思い出』が登場人物たちをつなぎ、デュナンが戦闘死傷者の救援にあたったソルフェリーノが彼らにとって意味を持つ場所となる。第二次イタリア独立戦争における1859年ソルフェリーノの戦い、1937-45年日中戦争、1950-53年朝鮮戦争をひとつづきの背景とすることでThe Surrenderedは、合衆国においてはしばしば「忘れられた戦争」と形容されてきたものについて、朝鮮半島に限定されておらず、いまだ終わっていないことを思い出させる。本発表では、終わらない戦争を舞台に描かれる、孤児June Hanと元米兵Hector Brennanと宣教師の妻Sylvie Tannerのあいだにうまれる害することと害されることのもつれを考察したい。
死者の記憶を複数化する
Paul YoonとC Pam Zhangにおける「アジア系」の位置づけ
藤井光(東京大学)
<発表要旨>
本発表は、韓国系小説家Paul Yoon (1980- ) と中国出身作家C Pam Zhang (1990- ) の二人のテクストを取り上げ、21世紀のアジア系文学における歴史的記憶の位置づけについて考察するものである。
Yoonは、そのキャリアを通じて、第二次世界大戦と朝鮮戦争を出発点とする韓国系ディアスポラの物語を提示してきた。それと同時に、大戦直後のヨーロッパでのディアスポラ、そしてラオス内戦までが舞台として選ばれ、複数の記憶を横断するようなYoonのテクスト群からは、韓国を起点としつつも、「隣接する」記憶を積極的に取り込む主体のありようが浮かび上がる。
似たケースとして挙げられるのが、Zhangである。デビュー小説How Much of These Hills Is Gold (2020)において、Zhangは19世紀後半のアメリカ西部をモデルとする土地を舞台に、国民的物語の語り直しを試みている。マイノリティの登場人物の視点から歴史的な表象の語り直しが試みられること自体は目新しくはないが、注目すべきは、その小説では同時に、北米先住民、さらにはアフリカ系の歴史的記憶との融合が積極的に試みられていることである。
単に過去と現在を接続するだけでない、複数の集合的記憶の交点としての記憶の担い手は、それらのテクストにおいてどう主体化されるのか。それはアジア系文学の境界にとどまらない意味を持つ問いでもあるだろう。Marianne Hirschの「ポストメモリー」概念、あるいはMichael Rothbergの「多方向的記憶」などの議論とも照らし合わせつつ、21世紀のアジア系文学における、記憶横断的な創作の一端を議論したい。
2025年度は、忘年会を開催させていただきます。
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